5/1に行った因島観光の続きです。
海岸に下る坂道の途中から大きな丸い岩「鼻の地蔵」が見えてきます。
岩に彫られたお地蔵さんに不思議な物語が伝えられていることを知り、いつか来たいと思っていました。
沖に浮かぶ島に高い三角の山が見え、とても印象的です。
方角から沼隈半島の南にある「横島」の山「王城」と思われます。
「鼻の地蔵」周辺の地図で、後で行く「美可崎城跡」も同じ駐車場から歩きます。
「鼻の地蔵」は、因島の南端から東側を数キロ北上すると半島があり、その先端です。
因島三庄町から「鼻の地蔵」の標識に従って右折し、半島の北の道をしばらく走ると道の両側に駐車場がありました。
赤い線で描いた歩道に沿って海岸に下りて行くと、徒歩10分程度で「鼻の地蔵」です。
灯篭の場所に「瀬戸内海国立公園 地蔵鼻」の看板があり「鼻の地蔵」へ下る歩道が始まっています。
向こうには薄紫の桐の花が満開でした。
今年は何故か、桐の花をよく目にしますが、平年より花が多く目立つ為でしょうか。
■石灯籠の横に地蔵鼻の案内板がありました。
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地蔵鼻の由来
昔、美可崎の城主、金山亦兵衛は、琴の修行のため船で都へ向かう周防の高橋蔵人の娘を関所破りの罪でとらえましたが、娘の美しさと娘のひく絶妙な琴の調べにすっかり心を奪われ、島にとどまり自分につかえるよう命じたところ娘には、周防に思いを寄せる若者がいたため応じませんでした。すると康時は腹を立て娘を浜で切り捨ててしまいました。
それから間もなく夜になると、娘のすすり泣く声とともに琴の音が聞こえはじめ、康時は夜ごと悩まされ続けました。
そこで渚の自然石に地蔵尊を彫り娘の霊を手厚く供養したところ亡霊に悩まされなくなったということです。
その後、その話を聞いた周防の若者が地蔵鼻で娘の後を追い海に身を沈めました。すると地蔵の目からはボロポロと涙がこぼれ落ちそれは、みるみる内に小石になって辺りに散らばったということです。
この鼻の地蔵さんに祈願し、娘の思いが込められた小石を特ち帰ると、恋が成就すると言われて、縁結びの額いを込めて多くの若い女性が訪れています。
その他、子授け、安産、女性の額いごとがかなえられると言われております。
祈額がかなうと石地蔵を作ってお礼参りをする習慣があります。
毎月旧暦の二十四日は命日とされており、地元の人々はもちろん、近隣の島々や遠く県外からの参拝者で、賑わいます。
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坂道の途中におびただしい数の小さな石仏が並んでいました。
よく見ると石仏の姿は、一体ずつ違い、色が塗られたものもあります。
案内板「地蔵鼻の由来」に書かれていた女性達が、お礼参りで奉納した石地蔵と思われます。
屋根の下に水道の蛇口と手水鉢があり、その上の二段の棚にもたくさんの石仏が奉納されてあります。
隣の石碑には、
「鼻の地蔵さん四百年祭を記念して清めの水を出しています 大切に使って下さい 平成十年八月廿八日建之」
と刻まれており、地元の方々の善意で造られたようです。
坂道を下ると前方の東方向に美しい海岸の道が続いています。
「鼻の地蔵」までの道の雰囲気は、天気にも恵まれ、実に気持の良いものでした。
坂道を下りた辺りから西方向(後方)に見える海岸です。
潮が引き、緑の海藻が付いた平らな岩が現れ、その先に小さな砂浜があります。
左手の先の海は三庄湾で、向こうの海岸には因島三庄町の家並みが続いています。
参拝の帰りには、石灯籠の辺りから海岸に下り、潮の香りを楽しみました。
海岸の道脇にも多くの石地蔵が置かれた場所がありました。
感謝の気持ちがよほど大きかったのか、1mを超える大きな石地蔵もありました。
どの地蔵を見ても素朴で、個性的な作品です。
「鼻の地蔵」は、高さ2mを超える大きな岩でした。
岩の手前に見えるお供え台の真裏に地蔵さんが彫られています。
岩の左側に黒っぽい模様が見えますが、これにも伝説があるのでしょうか。
模様を見た時、昔、雑誌などで見たソ連のゴルバチョフ書記長の額が思い浮かびました。
女性の願いをかなえてくれると言われる「鼻の地蔵」です。
すぐ前の細いコンクリートの道から撮ったので、画像が歪んでいます。
■「備後の歴史散歩」森本繁著に以下の記載がありました。
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・・地蔵尊像の左右の岩面には、つぎのような文言が刻み込まれている。
「慶長四年八月二十四日 春心道妙善禅定尼 三十一歳阿摩□奉造備後因島金山□□□松室河可造修」
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慶長四年(1599年)は、関ヶ原の戦いの前年で、村上水軍は毛利の傘下で瀬戸内海に強い勢力を誇る時代だったと思われます。
四百年以上、波しぶきや、風雨にさらされ、今日までよく残っているものだと感心します。
岩の上部に表面が剥げ落ちた段差が見られますが、これからも壊れず、永く女性の願いをかなえて欲しいものです。
「鼻の地蔵」を陸の側から見た様子です。
何と、岩を一周する歩道の東側(右側)部分が壊れ、痛々しい状態でした。
満潮にはこの岩の足元まで潮が満ちるようで、海側からの参拝は干潮の時間帯に限られます。
この日の干潮は17時頃、訪れたのが干潮2時間前の15時頃でした。
「鼻の地蔵」の正面の歩道には引き潮の小さな波が、時々かかっていましたが、早いタイミングで参拝出来たものです。
尾道港の潮位を調べて来ましたが、因島観光協会のサイトでも参拝時間帯の案内が見られます。
斜面に白く丸い岩が見られ、因島観光協会のサイトで紹介されていた不思議な岩「玉葱状風化花崗岩」のようです。
玉ねぎの皮が剥けるように表面が風化しているのでしょうか。
伝説の「鼻の地蔵」の前から見上げ、後方の山の斜面にあることで、想像が掻き立てられます。
「鼻の地蔵」を背にした、帰りの海岸の風景です。
最初、海を見下ろす高い道路から長い山の坂道を下り始めた時、どんな場所かと不安でした。
この潮の香りのする海辺の道があり、伝説の「鼻の地蔵」は期待以上のスポットでした。
海岸に下る坂道の途中から大きな丸い岩「鼻の地蔵」が見えてきます。
岩に彫られたお地蔵さんに不思議な物語が伝えられていることを知り、いつか来たいと思っていました。
沖に浮かぶ島に高い三角の山が見え、とても印象的です。
方角から沼隈半島の南にある「横島」の山「王城」と思われます。
「鼻の地蔵」周辺の地図で、後で行く「美可崎城跡」も同じ駐車場から歩きます。
「鼻の地蔵」は、因島の南端から東側を数キロ北上すると半島があり、その先端です。
因島三庄町から「鼻の地蔵」の標識に従って右折し、半島の北の道をしばらく走ると道の両側に駐車場がありました。
赤い線で描いた歩道に沿って海岸に下りて行くと、徒歩10分程度で「鼻の地蔵」です。
灯篭の場所に「瀬戸内海国立公園 地蔵鼻」の看板があり「鼻の地蔵」へ下る歩道が始まっています。
向こうには薄紫の桐の花が満開でした。
今年は何故か、桐の花をよく目にしますが、平年より花が多く目立つ為でしょうか。
■石灯籠の横に地蔵鼻の案内板がありました。
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地蔵鼻の由来
昔、美可崎の城主、金山亦兵衛は、琴の修行のため船で都へ向かう周防の高橋蔵人の娘を関所破りの罪でとらえましたが、娘の美しさと娘のひく絶妙な琴の調べにすっかり心を奪われ、島にとどまり自分につかえるよう命じたところ娘には、周防に思いを寄せる若者がいたため応じませんでした。すると康時は腹を立て娘を浜で切り捨ててしまいました。
それから間もなく夜になると、娘のすすり泣く声とともに琴の音が聞こえはじめ、康時は夜ごと悩まされ続けました。
そこで渚の自然石に地蔵尊を彫り娘の霊を手厚く供養したところ亡霊に悩まされなくなったということです。
その後、その話を聞いた周防の若者が地蔵鼻で娘の後を追い海に身を沈めました。すると地蔵の目からはボロポロと涙がこぼれ落ちそれは、みるみる内に小石になって辺りに散らばったということです。
この鼻の地蔵さんに祈願し、娘の思いが込められた小石を特ち帰ると、恋が成就すると言われて、縁結びの額いを込めて多くの若い女性が訪れています。
その他、子授け、安産、女性の額いごとがかなえられると言われております。
祈額がかなうと石地蔵を作ってお礼参りをする習慣があります。
毎月旧暦の二十四日は命日とされており、地元の人々はもちろん、近隣の島々や遠く県外からの参拝者で、賑わいます。
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坂道の途中におびただしい数の小さな石仏が並んでいました。
よく見ると石仏の姿は、一体ずつ違い、色が塗られたものもあります。
案内板「地蔵鼻の由来」に書かれていた女性達が、お礼参りで奉納した石地蔵と思われます。
屋根の下に水道の蛇口と手水鉢があり、その上の二段の棚にもたくさんの石仏が奉納されてあります。
隣の石碑には、
「鼻の地蔵さん四百年祭を記念して清めの水を出しています 大切に使って下さい 平成十年八月廿八日建之」
と刻まれており、地元の方々の善意で造られたようです。
坂道を下ると前方の東方向に美しい海岸の道が続いています。
「鼻の地蔵」までの道の雰囲気は、天気にも恵まれ、実に気持の良いものでした。
坂道を下りた辺りから西方向(後方)に見える海岸です。
潮が引き、緑の海藻が付いた平らな岩が現れ、その先に小さな砂浜があります。
左手の先の海は三庄湾で、向こうの海岸には因島三庄町の家並みが続いています。
参拝の帰りには、石灯籠の辺りから海岸に下り、潮の香りを楽しみました。
海岸の道脇にも多くの石地蔵が置かれた場所がありました。
感謝の気持ちがよほど大きかったのか、1mを超える大きな石地蔵もありました。
どの地蔵を見ても素朴で、個性的な作品です。
「鼻の地蔵」は、高さ2mを超える大きな岩でした。
岩の手前に見えるお供え台の真裏に地蔵さんが彫られています。
岩の左側に黒っぽい模様が見えますが、これにも伝説があるのでしょうか。
模様を見た時、昔、雑誌などで見たソ連のゴルバチョフ書記長の額が思い浮かびました。
女性の願いをかなえてくれると言われる「鼻の地蔵」です。
すぐ前の細いコンクリートの道から撮ったので、画像が歪んでいます。
■「備後の歴史散歩」森本繁著に以下の記載がありました。
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・・地蔵尊像の左右の岩面には、つぎのような文言が刻み込まれている。
「慶長四年八月二十四日 春心道妙善禅定尼 三十一歳阿摩□奉造備後因島金山□□□松室河可造修」
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慶長四年(1599年)は、関ヶ原の戦いの前年で、村上水軍は毛利の傘下で瀬戸内海に強い勢力を誇る時代だったと思われます。
四百年以上、波しぶきや、風雨にさらされ、今日までよく残っているものだと感心します。
岩の上部に表面が剥げ落ちた段差が見られますが、これからも壊れず、永く女性の願いをかなえて欲しいものです。
「鼻の地蔵」を陸の側から見た様子です。
何と、岩を一周する歩道の東側(右側)部分が壊れ、痛々しい状態でした。
満潮にはこの岩の足元まで潮が満ちるようで、海側からの参拝は干潮の時間帯に限られます。
この日の干潮は17時頃、訪れたのが干潮2時間前の15時頃でした。
「鼻の地蔵」の正面の歩道には引き潮の小さな波が、時々かかっていましたが、早いタイミングで参拝出来たものです。
尾道港の潮位を調べて来ましたが、因島観光協会のサイトでも参拝時間帯の案内が見られます。
斜面に白く丸い岩が見られ、因島観光協会のサイトで紹介されていた不思議な岩「玉葱状風化花崗岩」のようです。
玉ねぎの皮が剥けるように表面が風化しているのでしょうか。
伝説の「鼻の地蔵」の前から見上げ、後方の山の斜面にあることで、想像が掻き立てられます。
「鼻の地蔵」を背にした、帰りの海岸の風景です。
最初、海を見下ろす高い道路から長い山の坂道を下り始めた時、どんな場所かと不安でした。
この潮の香りのする海辺の道があり、伝説の「鼻の地蔵」は期待以上のスポットでした。