昔に出会う旅

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志摩国一宮の「伊雑宮」へ参拝

2009年08月26日 | 近畿地方の旅
三重県志摩市磯部町の「おうむ岩」を下って「伊雑宮」[いざわのみや]へ向かいました。

「伊雑宮」は、伊勢神宮 内宮の別宮で、志摩国一の宮として崇められています。



11:00頃、「伊雑宮」[いざわのみや]の参道口へ到着しました。

左手の駐車場から歩いてきましたが、参拝者が少なく、ゆったりとした気持ちで参拝できました。

■「日本の神々 神社と聖地」谷川健一著に「伊雑宮」の由緒が書かれていました。
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『倭姫命世記』によれば、垂仁天皇の御世、皇女倭姫命が皇大神宮の朝夕の御贅を奉るべき地を選定せんと志摩国を巡行したとき、伊佐波登美命が倭姫命を奉迎して磯部の地に神宮を営んだのが、伊雑宮の創立であるという。
『皇太神宮儀式帳』には「伊雑宮一院 志摩国答志郡伊雑村にあり、大神宮以南相去ること八十三里 天照大神遥宮と称す」と記され、『延書式』の伊勢大神宮式にも同様のことが記されている。すなわち、帳・式ほともに当宮を天照皇大神を遥拝する宮としているのであるが、一般に中世・近世には、『倭姫命世記』の記述から、当宮は伊射波登美命と玉柱屋姫命を祀る宮だと信じられていた。しかし明治維新後は天照大神の御魂と定められて今日に至っている。
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「伊雑宮」の境内と、付近の地図です。

東の参道口(赤丸印)から西の神殿の前まで一本道でした。

参道口の鳥居をくぐると左手に「衛士派出所」、右手に「宿営屋」があり、西に突き当たると右手に「伊雑宮」の神殿が配置されています。



参道口を入り右手にある留守のような「宿営屋」(社務所)です。

向かいには「衛士派出所」の交番のような感じの小さな建物があり、こちらも留守のようでした。

「宿営屋」の左右に大木がそびえています。



「宿営屋」の左にある大木です。

大木の根元が異様に丸く膨れ、巨大なカボチャのようにも見えます。



参道を進むと左手に塀で囲われた、井戸がありました。

通り過ぎて振り返って撮った写真です。

塀に囲まれ、使われていないのでしょうか。

水を汲まないと、井戸は、水の道が途絶えてしまいます。



右手の参道の脇に小さな小屋が建っていました。

資料がなく、建物の名は分かりませんが、倉庫のようです。

案内板が欲しいものです。



右手に見える最初の小屋のような建物を過ぎると、つい立があり、二つの建物が見えます。

奥の建物は、平屋の倉庫のようですが、手前の壁や床のない建物は内宮・外宮でも見た形式です。



右手の建物を通り過ぎ、参道口を見渡した景色です。

帰り際まで他の参拝者がいなく、妻と二人の貸切り状態の参拝でした。

杉の大木が斜め45度くらいに立っているのが不思議です。



「伊雑宮」 の社殿が見えてきました。

既に、参拝した内宮・外宮の別宮の建物とほとんど同じ姿のようです。

鰹木は6本(内宮は、10本)、千木の先は、内削ぎで水平にカットされ、内宮と同じものです。



「伊雑宮」 のある磯部の等高線のある地図です。

向かって左上に国民宿舎と「おうむ岩」があります。

「伊雑宮」の周辺は、「磯部町上之郷」で、川を挟んで南に「磯部町下之郷」があります。

それぞれに水田が広がり、昔の志摩国では数少ない田園地帯です。

■「日本の神々 神社と聖地」谷川健一著に「皇太神宮儀式帳」【804年(延暦23)】を引用したと思われる「磯部の地」に関する記述がありました。
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磯部の地には、はじめは伊雑神戸と粟島神戸があり、両者は磯部の地を貫流する野川を堺としていたようであるが、のちに合併して伊雑神戸と称されることになる。
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「神戸」とは特定の神社の祭祀を維持するために神社に付属した民戸のことだそうで、耕作される水田を「神田」と読んでいました。

ここ磯部の地の人々の労役や、「神田」からの収入が、伊勢神宮の運営を支えていたようです。(戦国時代まで?)

資料の記述に「伊雑神戸」「粟島神戸」が野川を堺としていたとあり、「磯部町上之郷」と、南の「磯部町下之郷」が比定されます。

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「Wikipedia 伊雑宮」の記載によると「鳥羽市を中心に鳥羽市安楽島町の伊射波神社※(いざわじんじゃ)を志摩国一宮とする異論がある。」とあります。

延喜式神名帳によると志摩国答志郡に「粟嶋坐伊射波神社」(二座・並大)があり、「伊雑宮」ではなく「伊射波神社」※を比定する説です。

その比定理由の一つに「粟嶋[あわしま]」と「安楽島[あらしま]の地名が似ていることがあげられています。

おそらく野川を堺としていた「粟島神戸」の文献の認識がなかったものと推察されます。

戦国時代末期、九鬼嘉隆に神戸を没収された伊雑宮側は、長期間にわたる執拗な神領復興の活動を続けていたようです。

その対抗上、九鬼側から「伊射波神社」※を「粟嶋坐伊射波神社」に比定する説を流布する目的で出されたものとも考えられます。
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※かって「伊射波神社」は、「加布良古神社」[かぶらこじんじゃ]と呼ばれていたが、明治の初めに改称されたようです。


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
はじめまして! (しゃけ)
2012-04-08 15:08:52
はじめまして!私は一之宮巡りを趣味としてものです。
どうぞ宜しくお願いします。



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こんにちわ (tako_888k)
2012-04-09 07:25:10
しゃけ様
こちらこそよろしくお願いします。
ホームページを見せて頂きましたが、多彩な趣味を楽しんでいらっしゃるようですね。
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