昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
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東祖谷歴史民俗資料館で見た「平家の赤旗」

2009年01月02日 | 四国の旅
10月12日剣山を下山、三好市東祖谷菅生の小釆家住宅を見学した後、「東祖谷歴史民俗資料館」に立ち寄りました。



平家の落人伝説にまつわる平家の赤旗などが見られるとのことで期待して入って行きました。

■道路脇に「平家落人伝説」の案内板があり、転記します。
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「平家落人伝説」 参考文献(祖谷の語りべ) 平成五年

屋島の合戦に敗れた平国盛一族は、安徳天皇をお守りして、文治元年(1185)大晦(おおつごもり)東祖谷の大枝に入山した後、大枝名主の屋敷で勢力を伸ばし平家再興を祈願したが、ことを起こすことなく、この地に眠ったと言い伝えられている。
伝説の史跡(下記の史跡名に説明文がありましたが、省略します)
1.平家赤旗、2.七人塚、3.鉾神社、4.鉾杉、5.平家屋敷、6.剣山、7.平家の馬場、8.かずら橋、9.皇宮の太鼓田、10.装束石、11.八幡神社、12.安徳帝のご火葬跡、13.栗枝渡の地名、14.天皇森
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壇ノ浦の合戦まで安徳天皇が信じている者には、安徳天皇がこの地で亡くなられた伝説には少し違和感を感じますが、こんなにたくさんの史跡が残されていることには脱帽します。

各地に安徳天皇の伝説があり、この一帯の史跡も捏造[ねつぞう]の可能性が高いのですが、だまされる方が楽しくなる史跡だと割切って見物させて頂きました。



「東祖谷歴史民俗資料館」の入場券です。

平家の赤旗などの展示物が印刷されています。

館内には他に誰も見学者がなく、ひっそりとしていました。

かずら橋には多くの観光客が歩いていましたが、皆さんここにはあまり興味がないようです。



館内に入ると、東祖谷の農家の居間が再現されていました。

一見、情緒ある田舎の居間のようですが、標高700メートルを超える雪深い急峻な斜面に生きる生活は大変厳しいものだったと思われます。

各地の民俗資料館を見て歩きますが、このように古いものが並べられているものの、説明がほとんどなく、内容がよく理解できない施設が多くあり、残念です。



館内で、東祖谷の歴史などを紹介するビデオが放映されており、撮影したものです。

平家の末裔、阿佐家二十四代当主、阿佐愛子さんが紹介されていました。

阿佐家の建物は、一般公開されていませんが、本物の平家の赤旗が保存されているそうです。

屋島の戦いや、壇ノ浦の戦いは、1185年と伝えられており、824年前の出来事となります。

824年前の平家の落人を初代とした場合、二十四代では一代が34年平均になり長過ぎるようです。

阿佐家一代目は、落人となった時代からずっと後の時代の人だったものと推測されます。

阿佐家一代目は、今も謎のままです。

今考えると「東祖谷歴史民俗資料館」の見どころは、このビデオだったと思います。



「東祖谷歴史民俗資料館」の入場券に印刷されていた「平家の赤旗」を拡大したものです。

両方の旗には「八幡大菩薩」とかかれてありますが、赤旗とされる色はあせた黄色になっていました。(色あせたままをコピーしたレプリカでした)

「八幡大菩薩」には、戦勝を祈願する源氏のイメージがありましたが、平氏の旗にも使われていたことは意外でした。

「平家の赤旗」に説明文が添えられており、転記します。
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「平家の赤旗」
平家屋敷所蔵の大小二流の赤旗は、日本最古の軍旗といわれ国盛(教経)が屋島より奉持してきたと伝えられる。
大旗は赤と紫の二色染めで本陣用、小旗は赤一色で戦陣用であったという。ともに生絹を生地とし、アカネとムラサキを染料としているが、800年の年月は、赤を白茶に紫を黒に変色させてしまっている。所々に見える汚点は血痕である。この赤旗は、阿佐家や村人にとっては神そのものであり門外不出とされている。(現品はコピーです)
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平安時代末期頃の旗は「流し旗」と言い、写真のように旗の上部に木を取り付け、それを紐で竿にぶら下げるものだったようです。

旗が、戦国時代の映画にも見られる幟[のぼり]の形式になったのは室町時代以降のようです。

上の説明文に「大小二流の赤旗・・・」とあるように旗の数に「流」の単位がついているのも「流し旗」のなごりなのでしょうか。

平国盛(教経)は、清盛の甥で、平家一番の猛将として知られています。
又、壇ノ浦の戦いでは義経を追い詰め、八艘跳びで逃げられた話は、有名です。

平国盛(教経)が平家の総大将宗盛から安徳天皇をまかされて阿波の山中に逃げたことは、信じられないことですが、真実は分かりません。



平家の赤旗にある蝶の図を拡大した写真です。

向かい合ったアゲハ蝶が微妙にズレて描かれています。

軍を率いる武士の旗とは思えない優雅な図柄ですが、平家が家紋とした「対い蝶[むかいちょう]紋」のようです。

左右の形が、微妙に違い、デザイン化された家紋には見えませんが、これも平安時代末期との時代感覚の違いなのでしょうか。

鮮やかな赤い旗に、くっきりと描かれた当時の蝶を想像すると、大変美しいものだったと思われます。



歴史民俗資料館で頂いた落合集落のパンフレットの表紙の写真です。

対岸の山から撮影された写真で、美しい左右対称の急峻な山の中腹に造られた「落合集落」の様子が伝わってきます。

受付の女性に東祖谷落合集落を対岸から撮影出来る場所に行く道を尋ねたらこのパンフレットを頂きました。(インターネットに同様の景色の写真が掲載されていたので行きたいと思っていました)

この写真は、A3版を二つ折りにしたパンフレットの表紙で、詳しい落合集落地図も掲載されていました。(ありがとうございました)

既に日が暮れはじめていて「落合集落」の見物は中止としました。

次回の訪問では「落合集落」や、「栗枝渡の八幡神社」などの散策を楽しみにしています。


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