前回に続いて尾道市因島の「白滝山」の紹介です。
白滝山にある「観音堂」は、戦国時代、因島村上水軍の当主吉充によって建てられたと言われています
白滝山の頂上に近い観音堂の境内です。
左手の紅白の幕が張られた石段を登り、小さな山門をくぐります。
右手奥の建物が「観音堂」で、お堂前にあった案内図によると「十一面観音」「白衣観音」が安置されているようです。
前回も掲載した境内案内図の一部です。
上段の境内の写真は、図の右側を撮ったもので、図の左側については次回の掲載とします。
境内に入り、山門の横から「多宝塔」を見た写真です。
突当りは、管理室と案内された建物で、この「多宝塔」は初めて見る風変りな石塔でした。
■山門の扉に古代の白滝山についての案内板があり、転記します。
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白滝山霊異記
抑[そもそも]当山は古代に於ける山岳信仰の跡にして美事なる祭祀遺跡なり。
さてこれ仏法に依りて開き給ひしは実に法道上人なり。上人は天竺の人にして霊鷲山の仏苑に住みしが、中国に渡り百済国を経て大化の頃本邦に来朝せられけり。
上人は今昔物語 宇治拾遺物語や、信貴山縁起絵巻に見るが如き千手空鉢の法を得たまいしより空鉢上人或いは満来上人とも稱せられぬ。
木原の鉢ヶ峯、深安郡中條の円通寺、神石郡阿下の星居山にも併せて開き給いしと傳ふ。
始め上人は鉄鉢を恣するや、鉄鉢は空をしのいで自ら飛び、山下の布刈瀬戸を往来する群船を廻りて鉢米を受けて山下に帰り来ると云ふ。或る時沖を通る大舟ありしが虚空より舞下りたる鉄鉢の中に舟入邪心を起こして鰯を入りしが、その舟大きく波にゆれて海底に沈みけるとかや。かくてこの瀬戸を山伏の瀬戸と云ふ。
法道上人は弟子白道上人をこの地に、万慶上人を鉢ヶ峯に残して自らは播州書写山に赴き給いしと傳ふ。
白道上人は細島にすみしよりこの島を山伏島とも云うとぞ。
下りて永禄十一年海の驍将にして東亜の天地に其の名高き村上新蔵人吉充この地の青木に本城を構えるや当山を控えの要害とし峯に観音堂を設けて常楽院静金上人を居らしむ。
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説明文では天竺(インド)から来た「法道[ほうどう]上人」が白滝山を開山したと書かれています。
5年前、大分旅行で行った耶馬渓の「羅漢寺」を思い出しました。
「羅漢寺」も、「法道上人」が645年(大化元年)に開山した山上の寺です。
「法道上人」は、兵庫県に多くの寺を開山したことが伝えられていますが、大分から兵庫に向かう途中にこの「白滝山」に立ち寄ったのでしょうか。
「法道上人」は、「法道仙人」とも呼ばれ、超人的な伝説が多く残っているようです。
展望台側から見た観音堂で、垂れ幕に「上」を丸で囲った村上水軍の紋が見えます。
観音堂を建てた、因島村上氏第6代当主吉充[よしみつ]以来の紋が続いているものと思われます。
村上吉充は、厳島の戦い(1555年)で毛利氏を支援して陶陶晴賢軍を破り、その後に毛利水軍の一翼を担い、江戸時代初期まで生きた武将です。
観音堂が建立された1569年は、毛利氏が山陰地方の雄、尼子氏を滅ぼした3年後、毛利元就が亡くなる2年前の頃でした。
毛利水軍は、日本海へ出陣し、尼子氏方の隠岐水軍と戦い、九州へ出陣して大友氏方の豊後水軍と戦っており、傘下の因島村上水軍も相次ぐ戦いに出陣した時期だったとも思われます。
観音堂の前に置かれた境内図に「十字架観音」と案内された大石がありました。
不思議な名前の「十字架観音」は、特に説明もなく、見る者には謎の石仏です。
資料では白滝山のどこかにマリア観音像があるとのことで、この石かも知れません。
三段に刻まれた壇に石仏が置かれ、大石に直接刻まれた仏像も見えます。
最上段に安置されたとりわけ風変わりな三体の石仏です。
長い天狗のような鼻、額には山伏が着ける六角の兜巾[ときん]のようなものが見えます。
もしかして三体インドの仙人「法道」と、隣の「細島」に住んだ弟子「白道上人」、三原市の「鉢ヶ峯」に残した弟子「万慶上人」の三人の石仏かも知れませんね。
観音堂の横に回り、「十字架観音」を横から撮った写真です。
大きな石の横にも石仏が刻まれています。
■手前の右手に「白滝伝説恋し岩」の案内板があり、転記します。
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白滝伝説恋し岩(重井の民話より)
昔々、重井の村に気立ての優しい可愛い娘と身体の大きなカの強い、立派な若者が居り、ニ人は恋に落ち、結婚を誓いました。そんな時、相撲の巡業が村を訪れ、素質を見込まれた若者は「三年間待ってくれ、立派な相撲取りになって迎えに帰る。」と言い残し、上方へと旅立ちました。娘は若者を信じて待ちましたが、約束の三年も過ぎてしまい悲嘆にくれ、海に身を投げて死んでしまいました。
一方、若者は一所懸命に修行に励み「白滝」と名乗る一人前の力士になりました。娘を連れに村に帰った若者は、娘が身を投げて死んだことを知りました。深く嘆き悲しむ枕元に、ある夜、白滝山の観音様がお立ちになり、そのお告げにより、若者は深浦の浜で、身投げをした娘の化身の岩を見つけ、五十貫はあろうかというその岩を、一人で山の頂へ運び観音堂に奉り、その後一生をかけて供養しました。
平成二十一年三月吉日
重井町文化財協会
重井町区長会
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観音堂の横から裏手に曲がって撮った写真です。
通路の突当りの右に開いた扉が見えます。
左の低い塀の外には、建物に沿って裏参道があります。
細い通路の突当り、観音堂の裏手に「恋し岩」が安置されていました。
変わった形の岩です。
一途な恋と、悲しい別れの伝説を想いながら手を合わせました。
■扉にある「恋し岩」の説明文です。
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恋し岩
悲恋の愛を貫いた力士の行為により 今の世で図らずも分かれわかれになっている人々に同じ思いをさせてはならずと 出先よりの無事帰還及び元通りの平穏な倖せを与えてくれる。といわれている。
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白滝山にある「観音堂」は、戦国時代、因島村上水軍の当主吉充によって建てられたと言われています
白滝山の頂上に近い観音堂の境内です。
左手の紅白の幕が張られた石段を登り、小さな山門をくぐります。
右手奥の建物が「観音堂」で、お堂前にあった案内図によると「十一面観音」「白衣観音」が安置されているようです。
前回も掲載した境内案内図の一部です。
上段の境内の写真は、図の右側を撮ったもので、図の左側については次回の掲載とします。
境内に入り、山門の横から「多宝塔」を見た写真です。
突当りは、管理室と案内された建物で、この「多宝塔」は初めて見る風変りな石塔でした。
■山門の扉に古代の白滝山についての案内板があり、転記します。
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白滝山霊異記
抑[そもそも]当山は古代に於ける山岳信仰の跡にして美事なる祭祀遺跡なり。
さてこれ仏法に依りて開き給ひしは実に法道上人なり。上人は天竺の人にして霊鷲山の仏苑に住みしが、中国に渡り百済国を経て大化の頃本邦に来朝せられけり。
上人は今昔物語 宇治拾遺物語や、信貴山縁起絵巻に見るが如き千手空鉢の法を得たまいしより空鉢上人或いは満来上人とも稱せられぬ。
木原の鉢ヶ峯、深安郡中條の円通寺、神石郡阿下の星居山にも併せて開き給いしと傳ふ。
始め上人は鉄鉢を恣するや、鉄鉢は空をしのいで自ら飛び、山下の布刈瀬戸を往来する群船を廻りて鉢米を受けて山下に帰り来ると云ふ。或る時沖を通る大舟ありしが虚空より舞下りたる鉄鉢の中に舟入邪心を起こして鰯を入りしが、その舟大きく波にゆれて海底に沈みけるとかや。かくてこの瀬戸を山伏の瀬戸と云ふ。
法道上人は弟子白道上人をこの地に、万慶上人を鉢ヶ峯に残して自らは播州書写山に赴き給いしと傳ふ。
白道上人は細島にすみしよりこの島を山伏島とも云うとぞ。
下りて永禄十一年海の驍将にして東亜の天地に其の名高き村上新蔵人吉充この地の青木に本城を構えるや当山を控えの要害とし峯に観音堂を設けて常楽院静金上人を居らしむ。
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説明文では天竺(インド)から来た「法道[ほうどう]上人」が白滝山を開山したと書かれています。
5年前、大分旅行で行った耶馬渓の「羅漢寺」を思い出しました。
「羅漢寺」も、「法道上人」が645年(大化元年)に開山した山上の寺です。
「法道上人」は、兵庫県に多くの寺を開山したことが伝えられていますが、大分から兵庫に向かう途中にこの「白滝山」に立ち寄ったのでしょうか。
「法道上人」は、「法道仙人」とも呼ばれ、超人的な伝説が多く残っているようです。
展望台側から見た観音堂で、垂れ幕に「上」を丸で囲った村上水軍の紋が見えます。
観音堂を建てた、因島村上氏第6代当主吉充[よしみつ]以来の紋が続いているものと思われます。
村上吉充は、厳島の戦い(1555年)で毛利氏を支援して陶陶晴賢軍を破り、その後に毛利水軍の一翼を担い、江戸時代初期まで生きた武将です。
観音堂が建立された1569年は、毛利氏が山陰地方の雄、尼子氏を滅ぼした3年後、毛利元就が亡くなる2年前の頃でした。
毛利水軍は、日本海へ出陣し、尼子氏方の隠岐水軍と戦い、九州へ出陣して大友氏方の豊後水軍と戦っており、傘下の因島村上水軍も相次ぐ戦いに出陣した時期だったとも思われます。
観音堂の前に置かれた境内図に「十字架観音」と案内された大石がありました。
不思議な名前の「十字架観音」は、特に説明もなく、見る者には謎の石仏です。
資料では白滝山のどこかにマリア観音像があるとのことで、この石かも知れません。
三段に刻まれた壇に石仏が置かれ、大石に直接刻まれた仏像も見えます。
最上段に安置されたとりわけ風変わりな三体の石仏です。
長い天狗のような鼻、額には山伏が着ける六角の兜巾[ときん]のようなものが見えます。
もしかして三体インドの仙人「法道」と、隣の「細島」に住んだ弟子「白道上人」、三原市の「鉢ヶ峯」に残した弟子「万慶上人」の三人の石仏かも知れませんね。
観音堂の横に回り、「十字架観音」を横から撮った写真です。
大きな石の横にも石仏が刻まれています。
■手前の右手に「白滝伝説恋し岩」の案内板があり、転記します。
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白滝伝説恋し岩(重井の民話より)
昔々、重井の村に気立ての優しい可愛い娘と身体の大きなカの強い、立派な若者が居り、ニ人は恋に落ち、結婚を誓いました。そんな時、相撲の巡業が村を訪れ、素質を見込まれた若者は「三年間待ってくれ、立派な相撲取りになって迎えに帰る。」と言い残し、上方へと旅立ちました。娘は若者を信じて待ちましたが、約束の三年も過ぎてしまい悲嘆にくれ、海に身を投げて死んでしまいました。
一方、若者は一所懸命に修行に励み「白滝」と名乗る一人前の力士になりました。娘を連れに村に帰った若者は、娘が身を投げて死んだことを知りました。深く嘆き悲しむ枕元に、ある夜、白滝山の観音様がお立ちになり、そのお告げにより、若者は深浦の浜で、身投げをした娘の化身の岩を見つけ、五十貫はあろうかというその岩を、一人で山の頂へ運び観音堂に奉り、その後一生をかけて供養しました。
平成二十一年三月吉日
重井町文化財協会
重井町区長会
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観音堂の横から裏手に曲がって撮った写真です。
通路の突当りの右に開いた扉が見えます。
左の低い塀の外には、建物に沿って裏参道があります。
細い通路の突当り、観音堂の裏手に「恋し岩」が安置されていました。
変わった形の岩です。
一途な恋と、悲しい別れの伝説を想いながら手を合わせました。
■扉にある「恋し岩」の説明文です。
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恋し岩
悲恋の愛を貫いた力士の行為により 今の世で図らずも分かれわかれになっている人々に同じ思いをさせてはならずと 出先よりの無事帰還及び元通りの平穏な倖せを与えてくれる。といわれている。
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コメトありがとうございます。
旅行中で、ご返事が遅くなり、大変失礼しました。
「恋し石」をはじめ、因島には面白い昔話がいろいろ多いようですね。
観音堂の山門で見た「白滝山霊異記」に登場する法道上人の話や、鼻の地蔵さんの話など、現地で読むと一味違います。
しかし、土地の方からお聞きするお話は、格別です。