前回の「天神社」に関連し、延喜式にある深津郡「須佐能袁能神社」(すさのおじんじゃ)について調べて見ました。
新市町戸手の「素盞鳴神社」(すさのおじんじゃ)が比定されている資料が多いものの、比定理由があいまいで、調べることにしたものです。
資料として、1809(文化6)年、福山藩主阿部正精(江戸幕府老中)が菅茶山(儒学者・漢詩人)に命じて編纂させた備後国の歴史書「福山志料」があります。
その中では延喜式の深津郡「須佐能袁能神社」の場所がよく分からないとし、昔から郡境が変化していることを理由にしています。
又、別の書籍(延喜式神明帳関係)には現存する新市町戸手の「素盞鳴神社」の場所が、かって深津郡だった可能性を挙げて比定している記載があり、疑問をもった訳です。
上段の地図は600~700年前(南北朝時代)のものと言われており、郡を色分けしてみました。
(赤い○で「須佐能袁能神社」があったと思われる場所を3ヶ所印しています)
福山市から府中市までの芦田川沿いに「備後穴海」と云われた大きな深い入り江があり、入り江の上に沿って東西に古代の山陽道がのびていました。
延喜式の出来た奈良時代には、右下の深津郡[ピンク色]と、左上の品治(ほんち)郡[緑色]は、穴海や、安那(やすな)郡[ベージュ色]を挟んで分かれています。
新市町戸手の「素盞鳴神社」(赤○A)は、品治(ほんち)郡にあります。
又、新市町戸手の「素盞鳴神社」より少し東の安那郡に近い駅家町には古代の駅舎「品治駅」があったと伝えられています。
そのことからも、古代の新市町戸手はあきらかに品治郡であったことが考えられます。
従って延喜式にある深津郡「須佐能袁能神社」は、記載された当時、新市町戸手の「素盞鳴神社」(下の地図かみとで駅付近)を指したものではなかったと考えています。
<参考>
赤○Cは蔵王町「天神社」付近です。
現在の芦品郡は芦田郡+品治郡、深安郡は深津郡+安那郡と合併した名前です。
下段の地図は、現代のもので、上段の地図とほぼ同じ地域の地図です。
干拓が進んだ近世以降、地形が大きく変わっていることが分かります。
「備後穴海」が干拓され、湾の上に位置する「上岩成」(下の地図まなぐら駅の東付近)、その南の下岩成は深津郡の一部で、右下の深津郡から伸びていったことが考えられます。
菅茶山の「福山志料」には「天神社」の説明で「烏帽子(えぼし)石ト云フ所ニアリ」と記載されています。
「烏帽子石」も今後の検討のヒントになるかもしれません。
全国の延喜式式内社に関する他の書籍には、福山市王子町辺りとする説(赤○B)もあり、現地調査や、「備陽六郡誌」などの資料と合わせて調べて見る予定です。
ややこしい文章をお読み頂き、どうもご退屈さまでした。
新市町戸手の「素盞鳴神社」(すさのおじんじゃ)が比定されている資料が多いものの、比定理由があいまいで、調べることにしたものです。
資料として、1809(文化6)年、福山藩主阿部正精(江戸幕府老中)が菅茶山(儒学者・漢詩人)に命じて編纂させた備後国の歴史書「福山志料」があります。
その中では延喜式の深津郡「須佐能袁能神社」の場所がよく分からないとし、昔から郡境が変化していることを理由にしています。
又、別の書籍(延喜式神明帳関係)には現存する新市町戸手の「素盞鳴神社」の場所が、かって深津郡だった可能性を挙げて比定している記載があり、疑問をもった訳です。
上段の地図は600~700年前(南北朝時代)のものと言われており、郡を色分けしてみました。
(赤い○で「須佐能袁能神社」があったと思われる場所を3ヶ所印しています)
福山市から府中市までの芦田川沿いに「備後穴海」と云われた大きな深い入り江があり、入り江の上に沿って東西に古代の山陽道がのびていました。
延喜式の出来た奈良時代には、右下の深津郡[ピンク色]と、左上の品治(ほんち)郡[緑色]は、穴海や、安那(やすな)郡[ベージュ色]を挟んで分かれています。
新市町戸手の「素盞鳴神社」(赤○A)は、品治(ほんち)郡にあります。
又、新市町戸手の「素盞鳴神社」より少し東の安那郡に近い駅家町には古代の駅舎「品治駅」があったと伝えられています。
そのことからも、古代の新市町戸手はあきらかに品治郡であったことが考えられます。
従って延喜式にある深津郡「須佐能袁能神社」は、記載された当時、新市町戸手の「素盞鳴神社」(下の地図かみとで駅付近)を指したものではなかったと考えています。
<参考>
赤○Cは蔵王町「天神社」付近です。
現在の芦品郡は芦田郡+品治郡、深安郡は深津郡+安那郡と合併した名前です。
下段の地図は、現代のもので、上段の地図とほぼ同じ地域の地図です。
干拓が進んだ近世以降、地形が大きく変わっていることが分かります。
「備後穴海」が干拓され、湾の上に位置する「上岩成」(下の地図まなぐら駅の東付近)、その南の下岩成は深津郡の一部で、右下の深津郡から伸びていったことが考えられます。
菅茶山の「福山志料」には「天神社」の説明で「烏帽子(えぼし)石ト云フ所ニアリ」と記載されています。
「烏帽子石」も今後の検討のヒントになるかもしれません。
全国の延喜式式内社に関する他の書籍には、福山市王子町辺りとする説(赤○B)もあり、現地調査や、「備陽六郡誌」などの資料と合わせて調べて見る予定です。
ややこしい文章をお読み頂き、どうもご退屈さまでした。
コメントに気付かず、お礼が遅くなり、失礼しました。
あの天神山の大きな岩が「烏帽子岩」だったとは驚きました。
この記事の前に、気になる山、蔵王町の「天神山」(掲載日2007-02-25)で掲載した写真にその「烏帽子岩」と思われる岩を撮っています。
移り気な私と違い、かなり詳細にお調べになっていらっしゃるようで、敬服します。
備後古地図は、福山図書館の古い書籍にあり、最初見たときには現在の地形とあまりに違うことに驚きました。
中心部分のみご覧に入れましたが、西は府中市、東は井原市高屋まで入り江があったようです。
古代の山陽道が現在の2号線よりずいぶん北にあったのが、この穴海により分かりました。