昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

比叡山の祖師御行績の絵看板

2009年01月25日 | 近畿地方の旅
近江神宮を参拝した後、比叡山ハイウェーを通り、比叡山に向かいました。



拝観料金のゲートをくぐるり、国宝殿を左に見ながら進むと右にカーブした緩やかな上り坂に差し掛かりました。

道の左右にたくさんの絵が展示されていました。

比叡山を開山した最澄上人の物語や、比叡山に学び、独自の宗派を興した多くの上人たちを紹介する絵です。

この絵は、比叡山が、いかに日本の仏教に大きな影響を与えてきたかをPRすることが目的と思われます。

■このたくさんの絵について案内板があったので転記します。
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祖師御行績[そしごぎょうせき]絵看板について
比叡山延暦寺は延暦七年(788)、伝教大師最澄上人が二十二歳の時に開かれた鎮護国家・人材育成の根本道場であります。
一千七百町歩(1700ヘクタール)にわたる延暦寺の寺域は、東塔・西塔・横川の三塔十六谷にわかれており、それぞれの堂塔伽藍では伝教大師の定められた制式に従って、鎮護国家と人々の平安を祈願して日夜修行が行われております。
鎌倉時代には浄土宗の法然上人・浄土真宗の親鸞聖人・臨済宗の栄西禅師・曹洞宗の道元禅師・日蓮宗の日蓮聖人などの各宗のお祖師さまたちが比叡山で修学せされ、それぞれの宗派をお開きになりました。
現在にいたりこの山は「日本仏教の母山」として教宗派を問わず多くの人々から崇められ、平成六年十二月に世界文化遺産として登録されました。
延暦二十五年(806)に桓武天皇によって立教開宗が認められ、平成十八年をもって天台宗は開宗千二百年を迎えました。
この開宗千二百年慶讃大法会に当たり十方有縁のご協賛を得て、伝教大師を始めとする比叡山の高僧や、比叡山から輩出されたお祖師さまたちの御行績絵看板を修復して境内に掲げました。
この行績を拝読されることを通じて、伝教大師による「一隅を照らす」人材養成の理念に触れていただき、また触れていただくことが国宝的人材のあふれる明るい社会の建設を資するものてせあると願って止みません。
比叡山延暦寺
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この絵は、中国で天台宗を学んだ物語で、もっとも印象的なシーンでした。

最澄上人(767~822)の絵物語は、確か12枚はあったと思います。

■絵の説明文を転記します。
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伝教大師伝(11)天台山での受法
中国における天台宗の祖山天台山(浙江省台州)に登り、天台大師の法灯を継ぐ道邃・行満の二高僧より天台の法門を残らず伝えられた。そのとき、天台山の開かずの経蔵が大師の所持する八舌鍵で開くことができたので、天台山の僧徒はいずれも驚愕し、秘蔵の典籍や法具までことごとく大師に授けたという。この八舌鍵はかって比叡山の土中より拾われたものであり、尓来、由緒ある重宝として今に秘蔵されている。
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平安時代中期、空也上人が町で念仏踊りで布教している場面のようです。

この踊りが、現在の盆踊りにつながっていると知りませんでした。

子供の頃、教科書に空也上人の像の写真が載っていました。

空也上人の口から小さな仏像が並んで飛び出している姿が印象的でした。

■絵の説明文を転記します。
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空也上人(903~972)

金鼓を打ち鳴らして南無だ南無だと唱え乍ら身振り面白く、踊る動作に裘[かわごろも]がバサバサと音を立てて、左手に持つ杖頭の鹿の角が生き物のように動き、腰の瓢箪がほがらかにはねている。年と共にこの伝道は広さと厚みを加え民衆は親しみをこめて、市の聖空也上人とよびはじめた。天暦5年(951)京都の町に悪病が蔓延し屍と枕をあわせるありさまであった。上人は疫病に斃[たお]れた人を憐れんで十一面観音を洛中にまわして祈祷をこめると悪病はやんだという。後、浄土思想を広め、尚今日に於いても盆には街々で開かれる盆踊りは此の空也上人が開かれたものである。
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良忍上人が、京都大原の「音無しの滝」で修行している場面のようです。

平安時代後期にできた「融通念仏宗」について、まったく知りませんでした。

開祖の良忍上人が、大阪市平野区に総本山「大念仏寺」を開山、六代の後継者が続いた後、平安末期から鎌倉末期まで中断したようです。

良忍上人が念仏を音楽的に高めたことは、空也上人の念仏踊りと合わせて、次の鎌倉時代に次々と生まれる新しい宗派に大きな影響を与えたものと思われます。

又、日本の音楽に大きな影響を残したこの念仏を一度聞いてみたいと思います。

■絵の説明文を転記します。
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良忍上人(1072~1132)融通念仏宗御開山

比叡山で修業を終えた上人は洛北大原に来迎院、浄蓮華院を建立して声明梵唄(仏教音楽)に専心。のち声明中興の祖と仰がれている上人は熱心な念仏行者であった。大原の地はもともと念仏聖の遁世するところであったから、上人の声明は念仏と結びついて大きく発展していった。大原の(音無しの滝)の前で声明練習に余念のない上人の姿は大原の里人の尊敬を一身に集めた。滝から落ちるリズムと、上人の声明発声音とが完全に一致した時、変らぬ大自然と流転の世相に至って上人は忽然と悟りを開いたという、後世声明は日本音楽の源流となり、平曲、謡曲、浄瑠璃、長唄、民謡、歌謡曲にまで影響を与えた。(大講堂堂内に御木像を安置)
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三井寺との抗争で奪い取った鐘を引きずっている弁慶です。

大津市役所に近い三井寺と、比叡山延暦寺は、天台宗が分裂し、それぞれが総本山となっています。

昔、激しい抗争を長期にわたり繰り返していたそうです。

■絵の説明文を転記します。
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弁慶のひきづり鐘

山門(比叡山)と寺門(三井寺)とが互いに広壮にあけくれている頃の話
比叡山西塔の武蔵坊にいたと云う衆徒の荒法師弁慶は、つねに三井寺焼討ちの先鋒として攻撃していた。
ある戦いの時、三井寺の伽藍を焼いたうえ名鐘の一つを奪った豪力をもって任ずる弁慶は一人で引っぱって帰り大講堂につるしたと云う。その時の鐘は現在三井寺にもどり、引っぱられた時の傷がついたまま保存されている。
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法然上人の前にいるのは、親鸞でしようか。

法然上人は、現在の岡山県北部、久米南町の出身で、生誕の地に「誕生寺」があります。

寺や、宝物館などを見せて頂きましたが、山深い田舎のお寺とは思えない素晴らしいものでした。

■絵の説明文を転記します。
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法然上人(1133~1212)浄土宗御開山

久安3年15歳にして比叡山に登り登檀受戒した上人は、主に西塔黒谷に住して法然房源空と称した。以後20有余年間黒谷での求道の日々が続いた。自ら反省し修行に打ちこむうち、やがて上人は「叡智第一」と噂される程秀才ぶりを発揮した。比叡山を下りた法然上人は京都吉水の地に住房を構え法門に没入する生活に入った。しかし、当時の京洛は火災・盗賊・大衆兵乱と乱世さながらの様相であった。そんな中で貴族より武士庶民までさまざまの階層の信徒が吉水の地に参集した。包容力のある上人がそれらの人々を一身に受けとめていた。この時上人69歳。若い弟子親鸞聖人は29歳であった。(大講堂堂内に御木像を安置)
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絵に朝日が当り、肝心の「そば喰い木像」が見えにくくなってしまいました。

写真に向ってやや左上、左の列の一番奥に木像が見えています。

■絵の説明文を転記します。
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親鸞上人(1173~1262)浄土真宗御開山(そば喰い木像)

丁度29歳の時、救世の為にはどうしたら?と有名な京都六角堂へ百日百夜の願をかけられた。毎夜ひそかに起用の町へと出かける親鸞の後姿を見かけた同宿の僧達は、色々と悪口を云い、つげ口まで言う様になった。師匠は聖人の在宿を確かめる為、夜中俄かに蕎麦の御馳走を出した。その時ご自作の御姿が聖人の身代わりとなって蕎麦の御給仕をし共々おいしいと戴かれたという。以来、だれいうことなく(身代わり木像)或いは(そば喰い木像)とあがめる様になり、今なお無動寺谷の大乗院に安置されている。(大講堂堂内に御木像を安置)
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中国からお喫茶を伝えたことで有名な栄西の場面です。

■絵の説明文を転記します。
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栄西禅師(1141~1215)臨済宗御開山

禅師は14歳のとき比叡山に登り得度受戒し、東塔北谷の竹林房にあって有弁僧正から天台学を学び、また顕意大徳より天台密教を受けた。のち二度にわたる入宋により臨済の法脈を相承し、天台・真言・禅の三宗ほ並べ弘めた。叡山の台密葉上流の祖でもある。(大講堂堂内に御木像を安置)
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中国に渡った道元が、中国の僧に日常の中での修行の大切さを教えられた場面のようです。

■絵の説明文を転記します。
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道元禅師(1200~1253)曹洞宗御開山

禅師は求法のため中国に渡り、て貞応2年(1223)春4月船は大陸の明州に着いた。禅師は船に留まって諸山巡拝の準備をしていた。そうしたある日日本の珍しい椎茸を買いに一人の老僧が船を訪れた。聞けば名刹阿育王山の典座(雲水の食事を司る役)和尚とのこと、禅師は早速日本の知識を披露し中国仏法をたずねて引き止めたが、老僧「貴僧はまだ修行が文字の中でなく日常の中にあることを知らぬ」と云って早々に去ってしまう。道元禅師はただ慙愧発奮するのみであった。(大講堂堂内に御木像を安置)
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日蓮聖人が、房総の霊峰「旭の森」に登り、朝日に向って「南無妙法蓮華経」の題目を唱えている場面のようです。

日蓮は、鎌倉幕府へ「立正安国論」を鎌倉幕府へ提出したり、他宗派との抗争など過激なイメージがありますが、情熱的な人だったのかも知れません。

■絵の説明文を転記します。
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日蓮聖人(1222~1282)日蓮宗御開山

比叡山の定光院(横川地区)を本拠として10年の求道修行を続けた聖人は、大志を秘めて建長5年(1253)安房(千葉県)清澄む寺に帰った。ここで三昧堂にこもり禅定に入り一心不乱に祈念を捧げた。丁度7日目4月28日東天の白む頃聖人は房総の霊峰「旭の森」に登り、緑の山なみの彼方に水天蒼茫たる太平洋がひらける赫々たる太陽が昇ろうとするとき太陽に向かい合掌し「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と荘厳に声高らかに題目を唱えた。雄々しい開宗の宣言であった。時に聖人32歳。(大講堂堂内に御木像を安置)
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一編が、民衆から熱狂的に迎えられている様子でしょうか。

一編は、諸国を遊行して、賑やかに鉦[かね]を鳴らして踊り念仏を行い、「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と刷った札を配って布教していたようです。

賑やかに音楽と踊りで人をひきつけ、チラシ配りや広告を見せて歩く一昔前のチンドン屋を思い浮かべてしまいます。

鎌倉時代では画期的な布教方法だったのかも知れません。

■絵の説明文を転記します。
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一遍上人(1239~1289)時宗御開山

上人は10歳の時母と死別、浮世の無常を感じて仏門に身を投じたという。生まれ故郷の伊予(愛媛県)から九州にわたり専修念仏の修行にいそしんだ。比叡山・高野山・四天王寺・熊野と念仏勧化と修行の旅を続けるうち世を捨てた「捨て聖」と呼ばれ全国を遊行して歩いた。全国を遊行した後修行の根拠地京洛(京都)の地に足をふみ入れた時、上人に結縁する武士・農民・商人達は狂気のように上人を迎えた。当時乱れた京洛の地にあっては救世主以上の存在であった。(大講堂堂内に御木像を安置)
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もっと絵が並んでいましたが、これ位にしておきます。


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