昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

参拝すると宝くじが当るという「金持神社」

2007年11月09日 | 山陰地方の旅
9月23~24日、鳥取県の西部地域を1泊2日で旅行しました。
最初、鳥取県日野町金持にある「金持神社」に行きました。



中国自動車道新見ICから国道180号線が国道181号線に突き当たった所です。
右に曲がり約1Km行くと「金持神社」があります。
左に行くと、伯備線の根雨駅で、線路沿いに南西に行った日野川でシベリアから越冬に来たオシドリがたくさんいるそうです。



国道181号線を南東に約1Km行くと右手に「金持神社」の看板のあるお金持神社売店がありました。
売店の手前の道を右折すると橋があり、更に数十メートル直進した所が「金持神社」です。

売店の駐車場にあった神社の案内板の一部を転記します。
■御祭神
天之常立尊(あめのとこたちのみこと)
八束水臣津努命(やつかみずおみずぬのみこと)
淤美豆奴命(おみずぬのみおと)

天常立尊を御祭神とする全国でも数少ない神社。国土経営、開運、国造りの神様をお祀りしています。

■由来
810年出雲の神官の次男が、伊勢神宮参拝のためこの地を通りかかったところ、お守りとして身につけていた神前の目付の玉石が急に重くなりました。そして、この地に宮造りするよう神夢があったので、宮造りしたと伝えられています。

金持郷は、昔、黄金より勝ると言われた「玉鋼」の産地で、原料の砂鉄が採れる谷を多く所有し、金具の文字で表されているように、鉄(てつ)のことを金(かね)と読んでいた事から、金の採れる谷を多く持つ郷「金持」と呼ばれるようになったと伝えられています。

「金持景藤公が必勝祈願」
この地の豪族、金持景藤は、1333年、隠岐を脱出された後醍醐天皇を奉じて討幕の軍に参加し大活躍しました。その際、金持神社に必勝祈願し、神前の戸帳を御旗にしたと伝えられています。京都への遷幸の折には、天皇の右側に名和長年公・左側が金持景藤公で「錦の御旗」を持ち上洛しました。金持大和守景藤公のお墓と伝えられている宝篋印塔が金持地内に現在も残っています。

■開運伝説
「長谷部信連公の再起」 平家物語や源平盛衰記など多くの古書で快男児としてうたわれている長谷部信連公。1180年、後白河法皇の第二皇子の平氏追討計画が事前に発覚、信連公は密かに皇子を宮殿から脱出させ、孤軍奮闘しました。そのため七年間、金持郷に流刑の身となりました。その間に日野町にとって大切な延暦寺、長楽寺、祇園神社などを残しています。平氏滅亡後、源頼朝御家人七人衆の一人として、安芸国宮島の検非違使、能登国の地頭職として山中温泉の発掘等を手がけ、のちに加賀百万石前田家の筆頭家老職(穴水城主)として明治まで続く長氏の始祖となりました。



道の右手に「金持神社」の鳥居がありました。
道をはさんで左手に駐車場もあります。



「金持神社」鳥居をくぐって進むと長い石段が続いています。
写真の右上に神木と思われるしめ縄が張られた大木がありました。



この神木は、「チャンチン」という珍しい木だそうです。
境内に上がる少し手前にもう一本違う神木があり、案内板の説明文を次の写真のコメントでまとめて記載しています。



石段を登った境内の少し下の段の左手に「サワラ」といわれる神木がありました。

売店の駐車場にあった案内板の神木に関する部分を転記します。
■境内の銘木
金持神社境内には、鳥取県銘木100選中、サワラ、チャンチンの2本があり樹齢600年位と云われています。サワラは神社の遷宮の際に屋根のコワ材として利用するために植えられたものと考えられています。チャンチンはセンダン科の薬木で、実は目薬に用い、先人が鉄生産の予防薬として、中国より取り寄せたものと考えられています。 県内では、このチャンチンの木、1本しか確認されていません。



「サワラ」の木のそばに石段をはさんでキツネの石像が左右にありました。
石段の下と、上に登った境内にそれぞれ一対の狛犬がありましたが、このキツネの石像は、まるで稲荷神社です。
何かいわれでもあるのでしょうか?



狭い境内にこじんまりした神社がありました。

境内にあった案内板の説明文を転記します。
■金持神社由緒
天常立尊・八束水臣津奴命・淤美豆奴命を祭神とし、近世までは「三体妙見宮」といわれていた。
社伝によると、出雲国薗妙見宮から勧進されたという。勧請された年代は不明である。
明治維新後に現社名に改称された。「金持」という景気のよい地名はタタラか鍛冶に係わるカヌチ・カナジの語から出た地名だろうといわれる。
また、「太平記」に登場する金持景藤をはじめ、「吾妻鏡」「愚管抄」「大山寺縁起」などに名が出る金持氏の本拠地であったと思われる。
この「金持」という縁起の良い名前から、昭和後期から注目されはじめた。「当社に祈願してから宝くじを買ったら大当たりした」とか、その真偽は別として、噂が噂を呼んで今様流行神となりつつある。 以上


古事記によると「天常立尊」は、天地創発の時に出現した5柱の神様(別天津神)の1柱のようです。
その後、神世七代(国常立尊から伊邪那岐神・伊邪那美神まで)の神が現れたとあります。
日本書記本文では、国常立尊が最初に現れた神としており神話の世界はよくわかりません。

八束水臣津野命は、出雲風土記にある国引き神話の神様です。
島根半島を朝鮮・能登半島など4ヶ所から綱で土地を引っ張ってきた巨人の神様です。
出雲を最初に創った神様のようです。



拝殿の中をのぞくと「龍神之図」という絵が掛けられていました。
なかなか迫力のある龍の絵です。

神社売店の駐車場にあった案内板の説明文を転記します。
■指画「龍神之図」
当地、日野町根雨出身の濱田壽峰さんにより平成十五年八月吉日奉納されました。
中国、唐時代から伝わる珍しい画法で、筆を一切使わず、手、指、爪などで描き日本では唯一の画家です。
五十歳の折り、中国天津へ留学し、著名な画家達から花鳥雨月を学び、これまで伊勢神宮を初め、奈良・三輪明神、近くでは大山・大神山神社など多くの神社に「龍」を奉納されております。
ここに奉納された「龍神之図」は横二.五米、縦〇.六五米の作品で「皆さんに福が訪れ、町の発展に役立つように」との願いと共に掲げられました。



拝殿の後ろにある本殿の壁にはおびただしい数の絵馬が掛けられていました。



写真左の絵馬には「おかげさまで宝くじが当りました」と書かれているではありませんか。
しかも続いて「年末ジャンボ宝くじも当りますように・・・」と続いています。
何という欲のある人でしょう。
何度買っても当らない私からみるとあきれてものも言えません。



絵馬に書かれている内容は、宝くじ、ロト6、パチンコ、競馬、商売繁盛などなど願い事のオンパレードです。
しかも西日本の他府県の人がたくさん絵馬を奉納しています。

宝くじの願い事が最も多く、こんなに大勢の人がお願いしても当る人は限られます。
金持神社が有名になればなるほど「ごりやく」が薄れてしまうと心配しながら神社を後にしました。


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