昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

「楽音寺縁起絵巻」第2場面

2007年02月15日 | 山陽地方の旅
第2画は、安芸国にいる藤原倫実(ともざね)の屋敷に天皇の使者が勅宣を届け、朝敵を鎮めるよう伝えた場面のようです。

漢文の詞書に「配流安芸国有藤原ノ倫実ト云者」とあり、「安芸国に配流」とは流罪・左遷などと解釈され、絵の屋敷を見るかぎり倫実は、(罪人ではなく)左遷されていた可能性もあると考えています。

第3画は、都か、国府で命令を受けている場面のようです。

<承平天慶の乱のはじまり>
末法思想が流行を始める天慶2年(939)12月26日、藤原純友が叛乱を起こし、朝廷に報告しようとした備前介藤原子高を、摂津国で耳を切り鼻をぎ、息子を殺害した事件が、朝廷に報告されました。
3日後の12月29日、平将門が上野・下野国府を占領した反乱の報告がされました。

東西の同時期の叛乱に対して朝廷は危機感をつのらせたようです。
純友には小野好古を山陽道追捕使、源経基を次官と体制を整えながら、従五位下を授ける懐柔策で純友との交渉で時間稼ぎをする策に出たようです。

2ヶ月後の翌天慶3年(940)2月平将門が藤原秀郷、平貞盛死に敗れ、鎮圧された後は純友へ兵力を注ぐこととなります。

純友の反乱は、海賊行為です。1,000隻の船を傘下にして各地で略奪しており、将門が「新皇」を宣言して朝廷から独立した行動と比較すると異質な反乱です。
しかし、この二つの大きな反乱の背景には共通点もあるようで、当時の政治・社会状況を確認したいと思っています。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。