昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
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旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

長崎旅行-10 三池炭鉱の輸出港で栄えた口之津の歴史

2013年02月15日 | 九州の旅
2012年9月11日長崎旅行2日目、前回に続き、島原半島南端に近い南島原市口之津の「海の資料館」「歴史民俗資料館」「与論館」の見学です。

前回は、口之津港へ南蛮船が来航して繁栄した時代の歴史でしたが、今回は、「三池炭鉱」の輸出港として繁栄を誇った明治時代に歴史です。



展示室に入ると、たくさんの人々が汽船に群がる不思議な絵の前に石炭を積んだ小さな船が展示されていました。

船は、大牟田港から石炭を運んだ団平船[だんべいせん]と呼ばれるもので、汽船に積み替える作業風景の再現展示でした。

団平船の上に置かれた藁の容器に入れられた石炭を、汽船に架けられた梯子に多くの作業婦が立ち、リレーで運び上げているようです。

天然の良港とは言え、接岸する埠頭がなく、クレーンなどもなかった明治時代の作業風景に驚きます。

作業では「ヤンチョイヤンチョイ」との掛声が掛けられたとあり、大きなメガホンを持つ人が手渡しのタイミングを掛声で合図して作業ペースの管理をしていたのかも知れません。

下段右の絵は、上段パネルの作業風景の絵を拡大したもので、下段左は、作業風景の展示写真の一部分です。

又、説明文に石炭5トン=四斗樽100杯、四斗樽=容器8杯とあり、容器の石炭は平均6.25Kgで風袋を合わせて8Kg程度の荷物リレーだったようです。

長時間労働で、休みも少なく、猛暑や、真冬の寒さ、大雨などに関わらず海上に立ち続ける作業は、現代では考えられない厳しさだったと思われます。

■パネルの説明文です。
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 石炭[ごへだ]積み
三池から輸送された石炭はこのようにして団平船[だんべいせん]から手運びして本船(内外汽船)に積込みこの時の掛声をヤンチョイ、ヤンチョイと言ったのでこの容器をヤンチョイカガリというようになりました。
こうして運んだ石炭は本船の上で四斗樽に移し、容器[かがり]八杯で樽一杯となり樽一〇〇杯が五屯という計算でした。
つまり四斗樽は石炭の量をはかる枡[ます]の用をなしたのです。

 労務契約は次のとおりでした
一、本船積込み       一屯につき八銭四厘
一、舶倉内の石炭かきならし 一屯一銭
一、石炭陸揚[あかあげ]   一屯五銭
一、陸より団平船積出し   一屯四銭八厘
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上段の写真は、口之津港の明治20年代の(南から見た)全景写真で、赤い破線で囲んだ船が団平船のような小舟に囲まれており、中段に写真を拡大してみました。

この様子から見ると、口之津港には汽船が接岸する埠頭がなく、湾内に停泊して積込みを行っていたものと思われます。

下段は、明治30年代の(北から見た)全景写真で、埋め立てられたと思われる海岸に倉庫が並ぶ風景が見られます。

展示された年表には三井は、明治28年に貯炭場として口之津の大屋、中橋と呼ばれる地域21,000坪を買収したとあり、海岸に建ち並ぶ倉庫(赤い破線で囲んだ部分)には大量の石炭が貯蔵されていたものと思われます

口之津は、輸出船への積替えを行う拠点から、入出庫作業、保管を伴う本格的な物流拠点となって発展したようです。

訪れた口之津の町は、これらの写真の時代から早や110~120年が経過、これらの歴史を知らなかった私には口之津港の往時の面影はほとんど気が付きませんでした。



上段は、島原半島周辺の地形図で、下段は口之津港付近を拡大したものです。

口之津から輸出された三池炭鉱の石炭は、三池港が開港した1909年(明治42)までは、北に隣接した大牟田港から積出されていたようです。

三池山から大牟田川河口近くまで鉄道が敷設され、口之津までの輸送経路が見えてきます。

下段の口之津港周辺の地形図には前述の倉庫群があったと思われる場所を印しています。



たくさんの「団平船」を汽船が牽引する珍しい写真が展示されていました。

冒頭の写真で、汽船積み込む石炭を積んだ小さな船「団平船」が口之津港へ航行する風景でした。

冒頭の写真に石炭を積む「団平船」が展示されていましたが、この写真の「団平船」は、1本のマストがあり、船も少し大きいように見えます。

■パネルの説明文です。
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団平船
大牟田港から口之津港への運炭船(団平船)
団平船を数珠つなぎにして
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「口之津港」の貿易実績統計が展示されていました。

下記に掲載した説明文だけのパネル「三井との関係について」にありますが、口之津港は、1876年(明治9)に上海へ石炭輸出を開始、1906年(明治39)に最高額を記録、1909年(明治42)三池港の開港で入港船舶が激減したようです。

展示された統計からは口之津港からの輸出がいつまで続いたのか分かりませんが、昭和5年の貿易額は見る影もなくなっています。

■統計パネルに添えられた説明文です。
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三井との関係について
三井は明治9年から三池石炭を口之津軽由で上海へ輸出するようになった.出炭量、輸出量の増加に伴い口之津に税関を設け、
明治29(1896)年 口之津は輸出入貿易港に
明治39(1906)年 口之津から石炭輸出額最高に
明治42(1909)年 三池築港で口之津入港船舶は激減
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上段の写真は、「海の資料館」「歴史民俗資料館」に並ぶ「与論館」の建物の中に展示されていた「与論長屋」で、下段の写真にある当時の家を縮小し、移設したものです。

口之津港が輸出港として繁栄した時代、薩南諸島から多くの人々が移住し、石炭の船積み作業などで働いていたようで、「与論館」は、与論島の区長(村長)に率いられた約1200名の集団移住者があった歴史から姉妹町協定が結ばれ、展示されているようでした。

この写真からは当時の生活はうかがうことができませんが、「三池炭鉱 月の記憶―そして与論を出た人びと」(井上佳子著、出版石風社)によると、土間にゴザを敷き、親子がゴロ寝していたとあり、移住した人々は長屋での極貧生活を耐えていたようです。

■与論館の入口にあった案内板です。
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与論館
与論島[よろんじま]をはじめ鹿児島の島々から明治32年に集団移住し、苦労して口之津の繁栄の一端を支えてくれた。
この人たちを偲ぶ唯一の証として「与論長屋」を縮小再現した。
また、与論町と口之津町の絆を示す資料を展示している。
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■「与論長屋」の案内板です。
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与論長屋
 口之津が石炭輸出港として栄えた明治三十年(一八九七年)の頃、不足した労務者を南西諸島から募集した。特に与論島から、時の上野応介村長を始めとする千二百二十六名の応募があり、集団でこの地に移住したのて、ここに長屋を建設して収容した。これを俗に「与諭長屋」といって、この地区と焚場(現在の栄町)に数棟ずつ建設されていた。
 三池築港完成後、労務者が余り、与論の人達は島に帰ったり、三池に移住したりしたので、家屋は逐次取り除かれた。数棟のうち只一棟が八十余年の歳月に耐え、昔の名残りをとどめていたがこれも倒壊寸前となったので、昭和六十一年一月十日解体した。
 この家屋はその一部で、口之津の繁栄を支えてくれた与論の人達の労苦をしのび、併せてこの絆を長く伝えるため、所有者三原源二朗氏の好意により保存するものである。
 昭和六十一年三月
   口之津町
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「与論長屋」の建物の中にに展示されていた作業衣と、作業具です。

移住した当初、寒い冬でも芭蕉布で作った着物一枚で黙々と石炭を運んだ話も伝わっており、温かい与論島から来た人々には寒く、つらい土地だったと思われます。

書籍「三池炭鉱 月の記憶―そして与論を出た人びと」によると、移住したきっかけは、明治31年8月の台風による甚大な被害と、干ばつによる主食のさつま芋の不作、蘇鉄の澱粉採取・解毒に必要な水の不足により島は大飢饉に陥り、人手不足の三井三池炭鉱関係の募集で、集団移住したようです。

島に帰ることが出来ない人々は、口之津の生活環境が厳しくても耐えるしかなく、仕事の無い日には皆で集まり、三線・太鼓で、島の民謡を歌い、慰め合っていたようです。



海の資料館に展示されていた作業道具です。

ヒモの付いた竹カゴは、「陸揚[おかあげ]ばら」、鍬のような物は、「石炭荷揚用具」と案内されています。

様々な機械や、便利な道具が整備された現代の作業環境も、こんな簡素な状況から少しずつ発達したことを改めて教えられます。



これも海の資料館に展示されていた南海日日新聞(奄美市)の切り抜きです。(上の手書きの日付けが18.11.15とあり、2018年でしょうか)

記事によると、口之津港へ集団移住したのは、与論島だけではなく、沖永良部島からもあったようです。

明治31年代の口之津会員寄宿所作成の「海員申込人名禄」「海員人名簿」が口之津歴史資料館館長により見つけられ、与論島以外に沖永良部島から188人の集団移住も確認された他、喜界島24人、奄美大島14人、徳之島4人の移住も確認されたとしています。

船内で働く人が多かった沖永良部島の人々は、三池港の完成後には仕事が激減して帰島したり、各地へ分散したようです。

一方、船積み作業に従事した与論島の人々の多くは新設の三池港に移行した作業のため、大牟田へ移り、集団移住の歴史もよく伝えられていたようです。

台風被害や、大飢饉が薩南諸島一帯に広がっていたことがうかがわれます。



「口之津歴史民俗資料館」の二階に「からゆきさん」の展示コーナーがあり、様々な資料が展示や、山崎朋子さんの小説「サンダカン八番娼婦」のビデオ放映(約10分間)も見ることができました。

この展示案内を見た妻が「からゆきさんの港はここだったのか!」と驚き、昔読んだ「サンダカン八番娼婦」の記憶が蘇ったようです。

三池炭鉱の輸出港口之津から密かに乗船し、悲しい門出となった娘たちの展示資料に心を痛めながら見学しました。

■展示コーナーの案内文です。
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からゆきさん
明治から大正にかけて島原、天草地方の貧しい農家や漁村の娘たちが口之津港から石炭船の船底に隠されて、中国や東南アジア各地に売られていった。
その娘たちを「からゆきさん」と呼び、貧困の悲劇として語り継がれているが、「島原の子守唄」はこれをテーマにしたもの。
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「からゆきさん」の展示コーナーにからゆきさんだった女性の写真や、小説「からゆきさん物語」などが展示されていました。

「からゆきさん物語」の説明文に「まぼろしの邪馬台国」の著者宮崎康平さん(1980年逝去)の遺稿を2008年に出版したものとあり、映画「まぼろしの邪馬台国」で、竹中直人さん演じる盲目の宮崎さんの研究を吉永小百合さん演じる妻和子さんの物語が浮かんできました。

1917年(大正6)、島原市に生まれ、郷土の歴史家宮崎さんが「からゆきさん」の歴史に興味を持ち、書き残した未完の作品だそうです。

実在した「からゆきさん」とされる数名の女性の写真も展示され、過酷な境遇を耐えて生きていた歴史を生々しく実感させられるようでした。

■展示コーナーの案内文です。
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下の写真のからゆきさんは明治三十六年頃、十六歳の時、口之津港を出ていきました。
彼女の苦難の生涯を小説化したのが「島原の子守唄」で知られる作家・宮崎康平氏の遺稿「ピナンの仏陀」です。

<書籍販売の案内>
「ピナンの仏陀」九州文学1~5号 各800円、これを一冊にまとめたのが「からゆきさん物語」2600円
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「明治29年頃の口之津全景」のタイトルで「海の資料館」展示されていた写真です。

口之津港の入口付近の北岸から右手に入り込んだ湾の奥を見た風景のようです。

この写真の左端に写る汽船は、「島原の子守唄」の歌詞の一節にある「青煙突のバッタンフール」と呼ばれた船で、「からゆきさん」が密かに積まれて行ったとされる英国船だそうです。

石炭の輸送には、日本船の他、英国船、ドイツ船も入港していたことが説明されており、外国船「青煙突のバッタンフール」は人々の印象に強く残っていたものと思われます。

よく見ると「島原の子守唄」の作詩は、作家「宮崎康平(耿平)」によるもので、驚くことに「島原の子守唄」の歌詞も「からゆきさん」をテーマとしていたようです。

南蛮船来航の地として訪れた口之津港で、心に残る歴史を知りました。

下記に「バッタンフール」の説明と、「島原の子守唄の歌詞」(二番の歌詞に)も添えています。

■展示写真の説明文です。
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明治29年頃の口之津全景
 (三池炭の輸出港)
左から順に青煙突のバッタンフール、口之津灯台、検疫所、税関、着工直後の貯炭場、そして無数の団平船(艀船)が描かれている。
口之津が栄華を極めた時代を表す象徴的な絵である。
     提供:口之津史談会
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■「バッタンフール」の説明文です。
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バッタンフール船
イギリス船バッタンフールは口之津に最も多く入港した石炭船で「島原の子守歌」にも青煙突のバッタンフールとして登場します。

バッタンフール船:バターフィールドカンパニーの船の略称
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■CD「コロンビア・アワー 歌声喫茶の頃 山のロザリア」添付の歌詞です。
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島原の子守唄
 島倉千代子、コロムビア・オーケストラ
 作詩.宮崎耿平/採譜・宮崎耿平/編曲 言関裕而

おどみゃ 島原の
おどみゃ 島原の
ナシの木 そだちよ
何のナシやら 何のナシやら
色気ナシばよ ショウカイナ
はよ寝ろ泣かんで オロロンバイ
鬼[おに]の池[いけ]ん久助[きゅうすけ]どんの 連[つ]れん来らるばい

姉しゃんな 何処[どけ]行たろかい
姉しゃんな 何処行たろかい
青煙突の バッタンフール★
唐は何処ん在所[ぬけ] 唐は何処ん在所
海の涯ばよ ショウカイナ
泣くもんな がねかむ オロロンバイ
あめ型買うて 引張らしょ

彼所[あすこ]ん人[ふと]は 二個[ふたつ]も
彼所ん人は 二個も
純金[きんの指輪[ゆぷがね]はめとらす
金な何処ん金 金な何処ん金
唐金[からきん]けなばい ショウカイナ
オロロン オロロン オロロンバイ
オロロン オロロン オロロンバイ
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