7/16 北海道旅行3日目 9:40、利尻島鬼脇の「利尻島郷土資料館」を目指して走って行きました。
最北の離島の一つ「利尻島」の暮らしや、歴史が見られると、楽しみに訪れたスポットです。
島の一周道路から「利尻島郷土資料館」方面に右折したところです。
右手に郵便局があり、次の路地を左折すると「利尻島郷土資料館」です。
正面には利尻山がそびえているはずですが、ほとんど雲に隠れています。
まだ見ぬ利尻山に気持ちがつのります。
「利尻島郷土資料館」の正門前で、駐車場を背にした景色です。
赤い屋根と、白い壁がちょっとまぶしい洋館風のレトロな建物でした。
どっしりした太い門柱にも風格が感じられます。
玄関を入った横の壁にこの建物の昔の写真が展示されていました。
「利尻島郷土資料館」の建物は、大正時代に建てられた「鬼脇村役場庁舎」だったようです。
後方に利尻山の頂上が見え、屋根や、壁の色は、現在と違い、大正、昭和初期の雰囲気が漂っているようです。
■写真の横にあった説明文です。
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利尻富士町指定有形文化財
昭和54年10月26日指定
利尻島郷土資料館(旧鬼脇村役場庁舎)
大正2年、鬼脇村役場庁舎として新築され、昭和44年に鴛泊に新庁舎が建てられるまで使用されていました。昭和48年からは、郷土資料館として再活用され現在に至っています。
建物は、木造平屋、寄棟屋根形式で、建物正面のやや左寄りに玄関のある洋風建物です。また、屋根の棟の両端には矛状の棟飾り、玄関の上部には鬼板が飾られています。平成13年・14年には全面的に補修を行いました。
利尻富士町教育委員会
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向って左は「モッコ」と呼ばれる道具で、大量に獲れるニシンを背負って運んだようです。
向って右の道具は説明がなく、不明です。
中央の鉄製の器具は、ニシンを絞り、ニシン粕を作るもののようです。
ニシン粕は、北前船で西日本各地に運ばれて、肥料として重宝されたことを聞いたことがあります。
道具→器具→機械→装置と発展した現代、船で運ぶ大量のニシン粕を人手を使って作ったことを考えると気が遠くなるようです。
■道具の上に掲示されていた説明文です。
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ニシン粕胴(丸胴)
ニシン釜で煮たニシンを入れ、上からジャッキで圧力をかけ締める道具です。余分な油・水分をしぼり出し、残った粕は良質な肥料であるニシン粕となります。集めた油は、石けんや燃料に利用されました。
鉄製の丸胴以前は、木製の角胴が使われていました。 [採集地:本泊]
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玄関付近に遺跡の場所が地図に記された「利尻島の遺跡」という展示がありました。
後で見た展示室には「利尻富士町役場遺跡」で出土した石器・骨器・土器などがたくさん展示され、この地図で見ると、その場所には遺跡が集中しているようです。
利尻島の遺跡の多くある場所は、西の沓形岬の周辺に8ヶ所が分散してある他、鴛泊港周辺に9ヶ所が集中して見られます。
上段の地図から鴛泊港周辺を拡大してみました。
⑨の「利尻富士町役場遺跡」は、⑬ペシ岬灯台遺跡から南西端の⑥栄町キャンプ遺跡まで直線的に並ぶ遺跡群のほぼ中央付近にあることが分かります。
■「利尻富士町役場遺」の出土品に展示されていた説明文です。
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利尻富士町役場遺跡
利尻富士町役場遺跡は、旧役場庁舎を中心とした鴛泊港をのぞむ段丘の先端に位置しています。発掘調査は、面積約75㎡を対象に平成6年5月から6月にかけておこなわれました。
その結果、役場遺跡が営まれた時代は、いまから約1,500年ほど前の続縄文文化ならびにオホーツク文化期であることがわかりました。オホーツク文化とは、サハリンから北海道東北部の沿岸地域に発達した独自の融合文化です。特色としては海獣猟や漁撈、ブタやイヌを飼育し、鉄や石、骨を素材とした道具を使い、遠く中国大陸の国々との交易もさかんにおこなっていたことがわかっています。
ては、調査によって遺跡からはどんなようなものがみつかったのでしょうか。まず、小さな穴が16ヶ所、石をならべた浅い窪み(燻製などをつくるための施設)が2ヶ所見つかりました。さらに、鈴谷式土器やオホーツク式土器とよばれる土器や石鏃(石のやじり)、動物解体用のナイフなどの道具も出て来ました。また、当時の人びとが食用としたニシン、ホッケ、アシカ、オットセイなどの骨もたくさんみつかっています。ただし、人々の住まいであった竪穴式住居跡は発見されていません。すてられた土器や石器、骨角器、動物の骨などの発見により、当時の人びとが漁撈を生業にし道具をつくり、いかに日々の生活を送っていたかがうかがえます。小さな範囲でしたが、利尻富士町はもちろん利尻島全体の歴史を考えるうえでも貴重な成果が得られました。
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「利尻富士町役場遺跡」の場所を地図で見ていると「利尻山」(標高1721m)と、その北にある中腹の峰「長官山」(標高1218.3m)が、遺跡と直線で結ばれることに気が付きました。
等高線で見ると「利尻山」、「長官山」はほぼ左右対称の山で、「利尻富士町役場遺跡」から見ると二つの三角隆起が整然と上下に並んで見える場所と推察されます。
井上香都羅著「古代遺跡と神山紀行」によると左右対称形の山を「神山」と崇める信仰は、大陸にも共通に見られ、旧石器時代にさかのぼるとし、同氏著「銅鐸祖霊祭器説」には左右対称の山の手前に小三角隆起が見える山も神山信仰に多いタイプとされています。
「利尻富士町役場遺跡」は、約1,500年前から600~700年続いた遺跡で、近くの旧石器時代の「栄町キャンプ遺跡」とあわせると非常に長い時代の生活の場であったと思われます。
人種が違う可能性の高いこれらの人々の生活が、神の山「利尻山」が最も神聖に見えるこの地域で、長く続いていたことは、原始から続く神山信仰によるものかも知れません。
「利尻島郷土資料館」を出て、振り向くと雲間から利尻山が見え始めていました。
雄大にそびえる山の斜面に残雪がくっきりと見え、うれしくなってきました。
最北の離島の一つ「利尻島」の暮らしや、歴史が見られると、楽しみに訪れたスポットです。
島の一周道路から「利尻島郷土資料館」方面に右折したところです。
右手に郵便局があり、次の路地を左折すると「利尻島郷土資料館」です。
正面には利尻山がそびえているはずですが、ほとんど雲に隠れています。
まだ見ぬ利尻山に気持ちがつのります。
「利尻島郷土資料館」の正門前で、駐車場を背にした景色です。
赤い屋根と、白い壁がちょっとまぶしい洋館風のレトロな建物でした。
どっしりした太い門柱にも風格が感じられます。
玄関を入った横の壁にこの建物の昔の写真が展示されていました。
「利尻島郷土資料館」の建物は、大正時代に建てられた「鬼脇村役場庁舎」だったようです。
後方に利尻山の頂上が見え、屋根や、壁の色は、現在と違い、大正、昭和初期の雰囲気が漂っているようです。
■写真の横にあった説明文です。
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利尻富士町指定有形文化財
昭和54年10月26日指定
利尻島郷土資料館(旧鬼脇村役場庁舎)
大正2年、鬼脇村役場庁舎として新築され、昭和44年に鴛泊に新庁舎が建てられるまで使用されていました。昭和48年からは、郷土資料館として再活用され現在に至っています。
建物は、木造平屋、寄棟屋根形式で、建物正面のやや左寄りに玄関のある洋風建物です。また、屋根の棟の両端には矛状の棟飾り、玄関の上部には鬼板が飾られています。平成13年・14年には全面的に補修を行いました。
利尻富士町教育委員会
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向って左は「モッコ」と呼ばれる道具で、大量に獲れるニシンを背負って運んだようです。
向って右の道具は説明がなく、不明です。
中央の鉄製の器具は、ニシンを絞り、ニシン粕を作るもののようです。
ニシン粕は、北前船で西日本各地に運ばれて、肥料として重宝されたことを聞いたことがあります。
道具→器具→機械→装置と発展した現代、船で運ぶ大量のニシン粕を人手を使って作ったことを考えると気が遠くなるようです。
■道具の上に掲示されていた説明文です。
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ニシン粕胴(丸胴)
ニシン釜で煮たニシンを入れ、上からジャッキで圧力をかけ締める道具です。余分な油・水分をしぼり出し、残った粕は良質な肥料であるニシン粕となります。集めた油は、石けんや燃料に利用されました。
鉄製の丸胴以前は、木製の角胴が使われていました。 [採集地:本泊]
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玄関付近に遺跡の場所が地図に記された「利尻島の遺跡」という展示がありました。
後で見た展示室には「利尻富士町役場遺跡」で出土した石器・骨器・土器などがたくさん展示され、この地図で見ると、その場所には遺跡が集中しているようです。
利尻島の遺跡の多くある場所は、西の沓形岬の周辺に8ヶ所が分散してある他、鴛泊港周辺に9ヶ所が集中して見られます。
上段の地図から鴛泊港周辺を拡大してみました。
⑨の「利尻富士町役場遺跡」は、⑬ペシ岬灯台遺跡から南西端の⑥栄町キャンプ遺跡まで直線的に並ぶ遺跡群のほぼ中央付近にあることが分かります。
■「利尻富士町役場遺」の出土品に展示されていた説明文です。
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利尻富士町役場遺跡
利尻富士町役場遺跡は、旧役場庁舎を中心とした鴛泊港をのぞむ段丘の先端に位置しています。発掘調査は、面積約75㎡を対象に平成6年5月から6月にかけておこなわれました。
その結果、役場遺跡が営まれた時代は、いまから約1,500年ほど前の続縄文文化ならびにオホーツク文化期であることがわかりました。オホーツク文化とは、サハリンから北海道東北部の沿岸地域に発達した独自の融合文化です。特色としては海獣猟や漁撈、ブタやイヌを飼育し、鉄や石、骨を素材とした道具を使い、遠く中国大陸の国々との交易もさかんにおこなっていたことがわかっています。
ては、調査によって遺跡からはどんなようなものがみつかったのでしょうか。まず、小さな穴が16ヶ所、石をならべた浅い窪み(燻製などをつくるための施設)が2ヶ所見つかりました。さらに、鈴谷式土器やオホーツク式土器とよばれる土器や石鏃(石のやじり)、動物解体用のナイフなどの道具も出て来ました。また、当時の人びとが食用としたニシン、ホッケ、アシカ、オットセイなどの骨もたくさんみつかっています。ただし、人々の住まいであった竪穴式住居跡は発見されていません。すてられた土器や石器、骨角器、動物の骨などの発見により、当時の人びとが漁撈を生業にし道具をつくり、いかに日々の生活を送っていたかがうかがえます。小さな範囲でしたが、利尻富士町はもちろん利尻島全体の歴史を考えるうえでも貴重な成果が得られました。
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「利尻富士町役場遺跡」の場所を地図で見ていると「利尻山」(標高1721m)と、その北にある中腹の峰「長官山」(標高1218.3m)が、遺跡と直線で結ばれることに気が付きました。
等高線で見ると「利尻山」、「長官山」はほぼ左右対称の山で、「利尻富士町役場遺跡」から見ると二つの三角隆起が整然と上下に並んで見える場所と推察されます。
井上香都羅著「古代遺跡と神山紀行」によると左右対称形の山を「神山」と崇める信仰は、大陸にも共通に見られ、旧石器時代にさかのぼるとし、同氏著「銅鐸祖霊祭器説」には左右対称の山の手前に小三角隆起が見える山も神山信仰に多いタイプとされています。
「利尻富士町役場遺跡」は、約1,500年前から600~700年続いた遺跡で、近くの旧石器時代の「栄町キャンプ遺跡」とあわせると非常に長い時代の生活の場であったと思われます。
人種が違う可能性の高いこれらの人々の生活が、神の山「利尻山」が最も神聖に見えるこの地域で、長く続いていたことは、原始から続く神山信仰によるものかも知れません。
「利尻島郷土資料館」を出て、振り向くと雲間から利尻山が見え始めていました。
雄大にそびえる山の斜面に残雪がくっきりと見え、うれしくなってきました。