10月12日10:45、徳島県の「剣山」の頂上にたどり着きました。
9:00頃麓「見の越」に到着、9:30登山リフト西島駅を出発して1時間15分かかりました。

「剣山」頂上にあった「剣山頂上案内図」です。
図の中央下の道から登ってきました。
「剣山」の頂上は案内図のイメージよりなだらかで、広い笹の原になっていました。
今回は、図の中央下にある岩の前の「剣山本宮宝蔵石神社」、向って左隣の青い屋根「剣山頂上ヒュッテ」、向って右の青い屋根「雲海荘」、中央の茶色の屋根「剣山測候所」の様子を掲載します。

山頂に着くと真先に「剣山本宮 宝蔵石神社」の前を通ります。
次々と登山者が参拝していました。
私も妻と、この山の神様に参拝、ご挨拶をさせて頂きました。
神社の上には巨岩が見えています。
平家の落ち武者達が、この巨岩の下に宝を埋蔵した伝説から「剣山本宮宝蔵石神社」と名付けられたようです。
神社の名に「剣山本宮」とあり、剣山に多くある神社との関係が気になります。
剣山の登山口にある「劔神社」の由緒のページには江戸時代の文献『阿波志』から「劔山系には586社の社があり(西島神社・八劔神社・古劔神社・両劔神社・宝蔵石神社・三劔神社など)その総本社が大劔神社である。」と記載されています。
「総本社」と、「本宮」の意味の違いはよく分かりませんが、江戸時代に総本社とされていた「大劔神社」の建物などにはそのイメージはありません。
賑わいだけなら、この「剣山本宮宝蔵石神社」に「本宮」の名が付いているのは納得ですが、数々の神社の関係はどうなっているのでしょうか?

神社の社務所や、売店のようです。
お守りを買って行く人も多いようです。
登山道は、社務所の前付近から下り坂になっています。

「剣山本宮宝蔵石神社」の鳥居の横から見た神社前の風景です。
登ってくる人、下山する人、休む人、景色を楽しむ人、神社に参拝する人、ここに立っているとなぜか行き交う人に親しみを感じます。
秘境「東祖谷」から更に山奥の高い山にたくさんの人が集まっていることが、とても不思議です。
「剣山」の美しい景色に魅せられた人も多いのではと思われます。

「剣山頂上ヒュッテ」の入り口です。
中に入ると、多くの人の休憩の場になっていました。
急に体調が悪くなった時など考えるとこのような施設があると安心です。

■「剣山頂上ヒュッテ」の入り口(上段の写真)に碑のようなものがありましたので転記します。
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剣山観光開発の祖
新居熊太
明治23年(1890)~昭和59年(1984)
昭和12年より剣山顕彰会幹事として観光開発や国定公園化に尽力。30年(1955)に剣山頂上ヒュッテを開発して多くの登山者の世話にあたり、90歳まで登頂した。<94歳没>
ヒュッテ開発50周年を記念して建立
平成17年7月吉日
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剣山が現在のように便利に登山ができるようになったのはこのような先人のご苦労があったようです。
しかし、90歳まで登山をされていたとは本当に驚きます。

青い屋根の「剣山頂上ヒュッテ」と、巨岩を背にした「剣山本宮宝蔵石神社」の間に階段があり、頂上をめざして次々と登山者が登ってきます。
大きな岩の上には、小さな祠が載せてあります。
向こうに見える青い屋根は、登山道から見上げた「雲海荘」のようです。

上段の写真を撮った場所の反対側から撮った景色です。
巨岩には綱が巻かれ、岩の下に「剣山本宮宝蔵石神社」の屋根が見えていますが、上から見るとずいぶん高さが違います。
■東祖谷の「祖谷民俗資料館」の玄関前にあった平家伝説の案内板に「剣山」の由来が書かれていましたので転記します。
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もともとは石立山とよばれていたらしく、800年も昔、安徳帝が源氏滅亡を祈願し宝剣を納めた後、石立山を剣山と呼ぶようになったと伝えられている。
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このようなそそり立つ岩から過去に「石立山」と呼ばれていたと思われます。
この岩の他、「大劔神社」の「御塔石」[おとうせき]が、「石立」のイメージに合います。
「劔神社」由緒にある総本社「大劔神社」記載から信仰の山「剣山」の磐座は、「大劔神社」の「御塔石」だったものと推測され、「石立山」の名も高くそそり立つ「御塔石」が由来だったと思われます。

山頂の東側のテラスから見た青い屋根の「剣山頂上ヒュッテ」です。
11:00前から曇が出始めて、遠くの景色が見えづらくなってきましたが、遠くに見える山並みは、かえって神秘的で、雄大に見えます。

「雲海荘」の入口ですが、下の登山道から見た高い建物には見えません。
斜面に建っているのでしょうか、頂上側から見るとこんな低い建物に見えます。

今は閉鎖されている「剣山観測所」です。
2001年に廃止されたそうですが、鉄製の門がさびて、塀の中に草が生えていました。
平地の空き家だと数年で藪になるところですが、ここでは背の低い草だけのようです。
向かって左に進むと頂上があります。
9:00頃麓「見の越」に到着、9:30登山リフト西島駅を出発して1時間15分かかりました。

「剣山」頂上にあった「剣山頂上案内図」です。
図の中央下の道から登ってきました。
「剣山」の頂上は案内図のイメージよりなだらかで、広い笹の原になっていました。
今回は、図の中央下にある岩の前の「剣山本宮宝蔵石神社」、向って左隣の青い屋根「剣山頂上ヒュッテ」、向って右の青い屋根「雲海荘」、中央の茶色の屋根「剣山測候所」の様子を掲載します。

山頂に着くと真先に「剣山本宮 宝蔵石神社」の前を通ります。
次々と登山者が参拝していました。
私も妻と、この山の神様に参拝、ご挨拶をさせて頂きました。
神社の上には巨岩が見えています。
平家の落ち武者達が、この巨岩の下に宝を埋蔵した伝説から「剣山本宮宝蔵石神社」と名付けられたようです。
神社の名に「剣山本宮」とあり、剣山に多くある神社との関係が気になります。
剣山の登山口にある「劔神社」の由緒のページには江戸時代の文献『阿波志』から「劔山系には586社の社があり(西島神社・八劔神社・古劔神社・両劔神社・宝蔵石神社・三劔神社など)その総本社が大劔神社である。」と記載されています。
「総本社」と、「本宮」の意味の違いはよく分かりませんが、江戸時代に総本社とされていた「大劔神社」の建物などにはそのイメージはありません。
賑わいだけなら、この「剣山本宮宝蔵石神社」に「本宮」の名が付いているのは納得ですが、数々の神社の関係はどうなっているのでしょうか?

神社の社務所や、売店のようです。
お守りを買って行く人も多いようです。
登山道は、社務所の前付近から下り坂になっています。

「剣山本宮宝蔵石神社」の鳥居の横から見た神社前の風景です。
登ってくる人、下山する人、休む人、景色を楽しむ人、神社に参拝する人、ここに立っているとなぜか行き交う人に親しみを感じます。
秘境「東祖谷」から更に山奥の高い山にたくさんの人が集まっていることが、とても不思議です。
「剣山」の美しい景色に魅せられた人も多いのではと思われます。

「剣山頂上ヒュッテ」の入り口です。
中に入ると、多くの人の休憩の場になっていました。
急に体調が悪くなった時など考えるとこのような施設があると安心です。

■「剣山頂上ヒュッテ」の入り口(上段の写真)に碑のようなものがありましたので転記します。
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剣山観光開発の祖
新居熊太
明治23年(1890)~昭和59年(1984)
昭和12年より剣山顕彰会幹事として観光開発や国定公園化に尽力。30年(1955)に剣山頂上ヒュッテを開発して多くの登山者の世話にあたり、90歳まで登頂した。<94歳没>
ヒュッテ開発50周年を記念して建立
平成17年7月吉日
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剣山が現在のように便利に登山ができるようになったのはこのような先人のご苦労があったようです。
しかし、90歳まで登山をされていたとは本当に驚きます。

青い屋根の「剣山頂上ヒュッテ」と、巨岩を背にした「剣山本宮宝蔵石神社」の間に階段があり、頂上をめざして次々と登山者が登ってきます。
大きな岩の上には、小さな祠が載せてあります。
向こうに見える青い屋根は、登山道から見上げた「雲海荘」のようです。

上段の写真を撮った場所の反対側から撮った景色です。
巨岩には綱が巻かれ、岩の下に「剣山本宮宝蔵石神社」の屋根が見えていますが、上から見るとずいぶん高さが違います。
■東祖谷の「祖谷民俗資料館」の玄関前にあった平家伝説の案内板に「剣山」の由来が書かれていましたので転記します。
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もともとは石立山とよばれていたらしく、800年も昔、安徳帝が源氏滅亡を祈願し宝剣を納めた後、石立山を剣山と呼ぶようになったと伝えられている。
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このようなそそり立つ岩から過去に「石立山」と呼ばれていたと思われます。
この岩の他、「大劔神社」の「御塔石」[おとうせき]が、「石立」のイメージに合います。
「劔神社」由緒にある総本社「大劔神社」記載から信仰の山「剣山」の磐座は、「大劔神社」の「御塔石」だったものと推測され、「石立山」の名も高くそそり立つ「御塔石」が由来だったと思われます。

山頂の東側のテラスから見た青い屋根の「剣山頂上ヒュッテ」です。
11:00前から曇が出始めて、遠くの景色が見えづらくなってきましたが、遠くに見える山並みは、かえって神秘的で、雄大に見えます。

「雲海荘」の入口ですが、下の登山道から見た高い建物には見えません。
斜面に建っているのでしょうか、頂上側から見るとこんな低い建物に見えます。

今は閉鎖されている「剣山観測所」です。
2001年に廃止されたそうですが、鉄製の門がさびて、塀の中に草が生えていました。
平地の空き家だと数年で藪になるところですが、ここでは背の低い草だけのようです。
向かって左に進むと頂上があります。
タイトル 剣山ーー書きたくて勉強しているのでてす曲はプラメロにはめ込んでいますーー
コメント頂き、ありがとうございます。
剣山の美しい紅葉の風景や、祖谷の平家伝説のスポットなどは、特に印象深く、今でも鮮明に想い出します。
「演歌一番」のサイトを見せて頂きましたが、作詞もその土地をしっかりと理解することが大切なようですね。
作詞のご参考になれば幸いです。