昔に出会う旅

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別宮「多賀宮」で気づいた「外宮」と、「高倉古墳」の謎

2009年06月27日 | 近畿地方の旅
外宮正殿の参拝を終え、外宮の神域である「高倉山」の方角に向かい森の中の長い階段を登って行きました。


階段を登ると「多賀宮」[たかのみや]の社殿と、その隣に式年遷宮のための御敷地[みしきち]がありました。

■正面の立札に書かれてある神社名、御祭神です。
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別宮 多賀宮[たかのみや] 御祭神 豊受大御神荒御魂[とようけおおかみのあらみたま]
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麓の外宮正殿のそばに「別宮遥拝所」(前回掲載の外宮案内図参照)があり、「多賀宮遥拝所」とも呼ばれているそうで、外宮正殿や、この「多賀宮」と、「遥拝所」の関係を考えてみました。

この「多賀宮」は、別名「高宮」と呼ばれているようですが、2009-06-01 熊野市「産田神社」で紹介した福岡県宗像市「宗像大社辺津宮」の奥宮とされる山の祭祀場も「高宮」と呼ばれています。

外宮が創建された、雄略朝(古墳時代の5世紀後半)の頃は、神の御魂が鎮座する社殿がなかった時代だったと思われ、この場所から高倉山に礼拝し、神を祭壇にお招きするで古代祭祀が行われていた可能性もあります。

社殿が造られた時代(仏教の影響か?)には、それまでの祭祀場に神殿が造られた可能性があり、天から山の磐座を経由して神殿に神の御魂が鎮座するようになったと考えられます。

この「多賀宮」の場所にも最初の外宮正殿が造られ、「多賀宮遥拝所」は、麓から正殿を見上げて、参拝する場所が固定化したものではないかと推察しています。

次に、神の御魂が常駐する時代が続くと、次第に社殿と、神の山との関係が希薄になり、遥拝所のあるへ山の麓に社殿が移設されたのではないかと考えました。


立札に「御祭神 豊受大御神荒御魂」とあります。

一般に「荒魂」は人に災をもたらす「荒ぶる魂」と言われていますが、どうも新魂[あらたま]から変化したものではないかと考えています。

以前読んだ京都「上賀茂神社」の本に、深夜に完全非公開で行われる「御阿礼神事」[みあれしんじ]が紹介されていました。

社殿裏の屋外へ弥生時代の祭祀を彷彿とする祭壇を作り、神社後方の山「神山」[こうやま]から新しい神の御魂をお迎えし、榊の枝に載せて暗闇を走り、神殿へ祀る神事があることを知りました。(毎年神の御魂を新たにする神事)

「豊受大御神荒御魂」の「荒御魂」[あらみたま]を見ると、古代に祭祀場だったと推測されるこの「多賀宮」でも、「高倉山」から新しい神の御魂を迎える神事があったように思えてなりません。



神明造の「多賀宮」の社殿を斜めから見た写真で、建物の部分名称を付けてみました。

「千木」[ちぎ]=屋根の両端に斜めに二本突き出た細い木・長方形の風穴がある
「鰹木」[かつおぎ]=屋根の棟の上に水平に数本置かれている木
「鞭懸」[むちかけ]=屋根の妻の破風に左右四本づつ突き出た木
「棟持柱」[むなもちばしら]=棟の両端を支える丸い柱

「内宮・外宮」の正殿を「唯一神明造」と云い、その他を「神明造」と呼ぶそうです。



「多賀宮」の参拝を終え、麓にある外宮の別宮「風宮」[かぜのみや]と、「土宮」を目指して下って行きました。

ところで、高倉山の頂上にある三重県最大の横穴式古墳「高倉山古墳」は、発掘調査で6世紀中頃ものと考えられています。(前回掲載の亀石があった山頂の古墳)

外宮がこの地に遷されたのは5世紀後半(雄略朝の時代)とされ、それから数十年後の時期に全国9位の大きさの地方豪族の墓と思われる「高倉山古墳」が造られたことになり、実に驚くことです。

伊勢神宮(内宮)がなぜこの地に遷されたのか? その後遷された外宮の豊受神とはどんな神だったのか? 伊勢神宮には多くの謎があります。

この「高倉山古墳」と外宮の異様とも思える位置関係に、謎を解く重大な手がかりがあるかも知れません。


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