5月2~4日に行った熊野・伊勢・志摩旅行の続きです。
熊野市有馬町の「花の窟神社」の次にすぐ近くの「産田神社」へ行きました。
「産田神社」の入り口です。(駐車場は、道の向かいです)
鳥居の脇に神木と思われる二又の杉の大木がそびえ立ち、しめ縄が張られていました。
神社の名の由来は、「紀伊続風土記」に、里人の伝によれば、伊井再尊がこの地で珂遇突知神を産んだので産田と名づけたとしています。
火の神「軻遇突智」を産み、亡くなった地は、まさにこの場所で、葬られたのが「花の窟」だったと伝えられています。
現実的に考えると、弥生時代の女王伊弉冉尊[いざなみ]が、出産か、火災が原因で亡くなったのではと思われます。
正面石段の脇に熊野市の観光案内板と、「さんま寿しの発祥の地」と書かれた丸木の看板があり、隣の案内板には「ひもろぎ」と呼ばれる石で囲んだ祀り場(祭祀台)もあると書かれています。
「花の窟神社」と深い関連や、一部に熊野本宮大社の元宮との説もあり、歴史好きには興味深い神社のようです。
■案内板の向って右側の説明文です。
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産田神社祭祀遺跡
(熊野市指定文化財 史跡)
産田神社は弥生時代からの古い神社で、伊弉冉尊と軻遇突智神を祀っている。日本に米作りが伝えられた頃からあったと考えられおり、古い土器も出土する。
古代にはは神社に建物がなく、「ひもろぎ」と呼ばれる石で囲んだ祀り場(祭祀台)へしめ縄を張り神様を招いた。
この神社の社の左右にある石の台がそれである。日本で2ヵ所しか残っておらず、大変古くて珍しい。
弓引き神事(1月10日)
奥有馬、口有馬の当屋から各一人ずつ選ばれた弓引きは宵の宮、花の窟神社前の浜で身を清めた後、参籠殿にこもり一夜を過ごす。当日の朝は、産田川で身を清め、午前9時過ぎから行われる祭典が終了するまで、再び参籠殿にこもっている。式典が終わると弓引き神事が始まる。まず的に向って交互に2回矢を射る。次に4回ずつ矢を放って腕を競うのである。
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案内板にある「ホウハン」を描いたイラストです。
「弓引き神事」の後で行う直会[なおらい]の膳を描いたもので、「さんま寿し」も見えます。
産田神社の伝統的な祭り「弓引き神事」の直会[なおらい]の膳ホウハン「奉飯」の一品としてこの地で永く親しまれていることで、「さんま寿しの発祥の地」をPRしていることが分かりました。
冬の熊野灘は、さんま漁の季節で、1月の祭りに旬の食材を寿司にしたものと思われます。
熊野灘は、日本さんま漁発祥の地とも言われ、東北・関東の秋さんまと比較して脂が少なく、干物や、寿しに適しているようです。
■案内板のイラストの説明文です。
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ホウハン
祭典の際、拝殿で行われる直会[なおらい]のとき、「ホウハン」という特別な膳が出る。「ホウハン」の献立は、●米飯に白味噌を使った味噌汁をかけた汁かけ飯-碗 ●さんまを腹開きにし、骨を残したまま握ったすし ●生魚を細かく切ったものに唐辛子だけであえ、二切か四切を皿にのせた「アカイ」などである。
熊野市
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説明文の「アカイ」が、唐辛子だけで細かく切った生魚をあえたと書いていますが、味付けはしないのでしょうか?
唐辛子をワサビの代わりに使うことは聞いていますが、せめて醤油はほしいところです
鳥居をくぐり、まっすぐの参道を進むと、石垣で仕切られた第二の門があり、その手前に手水舎があります。
■参道脇にあった熊野市の案内板の説明文です。
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熊野市指定文化財
有形民俗文化財 産田神社の棟札
棟札[むなふだ]とは、寺社民家を新改築したときの記録を建築に関係した人の名や経費、建築年月日を板に記入したもので神社の由来を知る一級資料である。
産田神社には、百枚の棟札が保存されているが、今回文化財に指定したのは永正十八年(1521)と慶長元年(1596)同六年(1601)と同二十年(1615)の四点である。
永正十八年の棟札は、永淑を本願とし、榎本朝臣和泉守忠親が奉行となり、神主が藤原森純とし、高さ六十三センチの杉材の表に墨書している。裏面には、これに要した米とその場所など記入している。
詳しいことは、昭和六十三年に発刊した「神社棟札」を参照されたい。
熊野市教育委員会
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「日本の神々 神社と聖地6」(谷川健一編 白水社)によると
”一方、この棟礼には祭主として、「紀伊牟婁郡有馬荘司榎本朝臣和泉守忠親・神主藤原森純」の名がみえるが、『紀伊続風土記』によれば、「上古は榎本氏が代々神官として社領の地を治めていたが、中世以来別に神官をおいて神事をさせた。藤原森純はその神官である。天正(一五七三-九二)のころ榎本氏が断絶し、そのとき宮社は兵火にかかって古記録も焼失した。”
とあり、戦国時代末期に古代から続いた体制が崩壊、その貴重な歴史資料の多くも失われたようです。
第二の門を奥の方から見た様子です。
境内は、この石垣で仕切られ、高い聖域に入ることを感じさせられます。
「産田神社」の西側には参道と並行して産田川が流れ、川に通じる道もあり、伊勢神宮の五十鈴川の手洗い場所を連想します。
正面の建物は、中央通路が拝殿、両側が社務所のような構成になっています。
中央通路の奥で参拝しますが、やや窮屈な感じでした。
両脇の狛犬は、体の割に頭の大きく、どことなくのんびりした表情で親しみが湧きます。
■拝殿にあった祭神の案内板を転記します。
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本社御祭神
伊弉諾尊、伊弉冉尊、軻遇突智尊
合祀御祭神
天照皇大神、大山祗命、木華開耶姫命 神武天皇
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7柱の神様が祀られているようです。
「日本の神々 神社と聖地6」(谷川健一編 白水社)によると”『三重県神社誌』によれば、当社の祭神は伊弊諾尊・伊弉冉尊・軻遇突智尊・天照皇大神・木華咲夜姫命・神武天皇・大山祀命の七神となっているが、永正十八年(一五二一)霜月十四日の棟札(写)に「奉棟上産田神社二所大明神」とあることから、もとの祭神は伊弊再尊と珂遇突智尊の二神であったと推定される。”と書かれてあり、伊弉冉尊終焉の地を感じさせられます。
産田神社の本殿の前に白い玉砂利が敷き詰められていました。
下にある熊野市の案内板では「ひもろぎの跡」と伝えられる場所が残っているとありますが、本殿の両脇に10個程度の平たい石が固めて置かれていました。
「ひもろぎの跡」は、他の参拝者がいて白い玉砂利の聖域に踏み込むことを躊躇し、撮影出来ていません。
■参道脇にあった祭祀遺跡の案内板を転記します。
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熊野市指定文化財
史跡 産田神社祭祀遺跡
所在 有馬町1814番地
指定 昭和39年4月28日
祭日 毎年1月10日(昔は陰暦1月10日 11月15日)
由来 「日本書紀」一書に女神伊弉冉尊(いざなみのみこと)がここで火の神軻遇突智(かぐつち)を産み亡くなったので花の窟に葬ったとある 産田という名は 産んだ所と伝えている。
この付近では 埋蔵土器が多く出土し 考古学的にも先史古代にわたる古さを物語っている。
太古社殿の無かった時代のひもろぎの跡(神の宿る所)と伝えられる場所も残っている。
平成20年3月 日
熊野市教育委員会
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「ひもろぎ」(神籬)の参考のために福岡県宗像市「宗像大社辺津宮」の奥宮とされる祭場「高宮」を紹介します。
今年3月、福岡旅行で撮ったもので、石で囲われ樹木が立っている場所が「ひもろぎ」と思われます。
石で囲まれた聖なる木に神が降臨されるようで、いまでもこの場所で古代からの祭祀が続いているそうです。
福岡県の「宗像大社」は、三ヶ所の神社がセットの名称で、「辺津宮」(宗像市田島)の他、「中津宮」(すぐ沖にある筑前大島にある)、「沖津宮」(更に沖の沖ノ島にある)で構成されています。
産田神社の「ひもろぎ」説明は、本殿脇の固めて置かれた石組みを「祀り場」(祭祀台)を指し、「宗像大社」とは少し意味が違うようです。
■宗像大社「高宮」の案内板を転記します。
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高宮[たかみや]
宗像大神御降臨の地と言われています。社殿がいまだ創建されない悠遠[ゆうえん]のいにしえこの地で祭祀が行われ敬虔な祈りが捧げられたのであります。
現在でも一日、十五日の月次祭[つきなみさい]をはじめ春秋の大祭には本殿に先がけてお祭りが斎行されており全国でも数少ない神籬[ひもろぎ]、磐境[いわさか]の古代祭場であります。
宗像大社
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宗像大社の「高宮」をさらに登り、「宗像山」の頂上にあった祭場「上高宮」で、「高宮」の祭場よりずっと古くからあり、素朴で、小さなものでした。
木が茂り、今は展望できませんが、かってはこの祭場から沖の海にある「中津宮」「沖津宮」を遥拝していたと思われます。
この場所は、「高宮」で参拝している時、信者の会の世話役さんとおぼしき方から教えて頂き、参拝出来たものです。
古代祭祀の一端を少し実感できたような気持ちです。
産田神社の本殿前の様子です。
なかなか良い面構えの狛犬がいます。
神社入り口の案内板に「古い土器も出土する」とあり、関連資料を探して見ました。
「日本の神々 神社と聖地6」(谷川健一編 白水社)によると
”昭和三十四年(一九五九)の伊勢湾台風のとき、境内の杉の大樹が根返りし、その下から弥生中期の土器片が出土した。また付近の津の森遺跡からは、独特の器形をもつ弥生後期の襲や土師器が多量に出土している。”
とあり、この一帯では最も規模の大きな遺跡のようで、神話にも符合するような弥生時代の遺跡があったことは興味深いものです。
神社から国道に向かう途中に「熊野市歴史民俗資料館」があり、遺跡から出土した遺物を展示しているようです。(残念ながら立ち寄れませんでした)
もしかしてその中に女王「伊弉冉尊」の遺品があるのかもしれません。
「なぜ伊弉冉尊がこの地にいたのか?」今回熊野で一番知りたかったことです。
理由は分かりませんでしたが、この地にいたのではないかという思いが強くなりました。
熊野市有馬町の「花の窟神社」の次にすぐ近くの「産田神社」へ行きました。
「産田神社」の入り口です。(駐車場は、道の向かいです)
鳥居の脇に神木と思われる二又の杉の大木がそびえ立ち、しめ縄が張られていました。
神社の名の由来は、「紀伊続風土記」に、里人の伝によれば、伊井再尊がこの地で珂遇突知神を産んだので産田と名づけたとしています。
火の神「軻遇突智」を産み、亡くなった地は、まさにこの場所で、葬られたのが「花の窟」だったと伝えられています。
現実的に考えると、弥生時代の女王伊弉冉尊[いざなみ]が、出産か、火災が原因で亡くなったのではと思われます。
正面石段の脇に熊野市の観光案内板と、「さんま寿しの発祥の地」と書かれた丸木の看板があり、隣の案内板には「ひもろぎ」と呼ばれる石で囲んだ祀り場(祭祀台)もあると書かれています。
「花の窟神社」と深い関連や、一部に熊野本宮大社の元宮との説もあり、歴史好きには興味深い神社のようです。
■案内板の向って右側の説明文です。
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産田神社祭祀遺跡
(熊野市指定文化財 史跡)
産田神社は弥生時代からの古い神社で、伊弉冉尊と軻遇突智神を祀っている。日本に米作りが伝えられた頃からあったと考えられおり、古い土器も出土する。
古代にはは神社に建物がなく、「ひもろぎ」と呼ばれる石で囲んだ祀り場(祭祀台)へしめ縄を張り神様を招いた。
この神社の社の左右にある石の台がそれである。日本で2ヵ所しか残っておらず、大変古くて珍しい。
弓引き神事(1月10日)
奥有馬、口有馬の当屋から各一人ずつ選ばれた弓引きは宵の宮、花の窟神社前の浜で身を清めた後、参籠殿にこもり一夜を過ごす。当日の朝は、産田川で身を清め、午前9時過ぎから行われる祭典が終了するまで、再び参籠殿にこもっている。式典が終わると弓引き神事が始まる。まず的に向って交互に2回矢を射る。次に4回ずつ矢を放って腕を競うのである。
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案内板にある「ホウハン」を描いたイラストです。
「弓引き神事」の後で行う直会[なおらい]の膳を描いたもので、「さんま寿し」も見えます。
産田神社の伝統的な祭り「弓引き神事」の直会[なおらい]の膳ホウハン「奉飯」の一品としてこの地で永く親しまれていることで、「さんま寿しの発祥の地」をPRしていることが分かりました。
冬の熊野灘は、さんま漁の季節で、1月の祭りに旬の食材を寿司にしたものと思われます。
熊野灘は、日本さんま漁発祥の地とも言われ、東北・関東の秋さんまと比較して脂が少なく、干物や、寿しに適しているようです。
■案内板のイラストの説明文です。
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ホウハン
祭典の際、拝殿で行われる直会[なおらい]のとき、「ホウハン」という特別な膳が出る。「ホウハン」の献立は、●米飯に白味噌を使った味噌汁をかけた汁かけ飯-碗 ●さんまを腹開きにし、骨を残したまま握ったすし ●生魚を細かく切ったものに唐辛子だけであえ、二切か四切を皿にのせた「アカイ」などである。
熊野市
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説明文の「アカイ」が、唐辛子だけで細かく切った生魚をあえたと書いていますが、味付けはしないのでしょうか?
唐辛子をワサビの代わりに使うことは聞いていますが、せめて醤油はほしいところです
鳥居をくぐり、まっすぐの参道を進むと、石垣で仕切られた第二の門があり、その手前に手水舎があります。
■参道脇にあった熊野市の案内板の説明文です。
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熊野市指定文化財
有形民俗文化財 産田神社の棟札
棟札[むなふだ]とは、寺社民家を新改築したときの記録を建築に関係した人の名や経費、建築年月日を板に記入したもので神社の由来を知る一級資料である。
産田神社には、百枚の棟札が保存されているが、今回文化財に指定したのは永正十八年(1521)と慶長元年(1596)同六年(1601)と同二十年(1615)の四点である。
永正十八年の棟札は、永淑を本願とし、榎本朝臣和泉守忠親が奉行となり、神主が藤原森純とし、高さ六十三センチの杉材の表に墨書している。裏面には、これに要した米とその場所など記入している。
詳しいことは、昭和六十三年に発刊した「神社棟札」を参照されたい。
熊野市教育委員会
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「日本の神々 神社と聖地6」(谷川健一編 白水社)によると
”一方、この棟礼には祭主として、「紀伊牟婁郡有馬荘司榎本朝臣和泉守忠親・神主藤原森純」の名がみえるが、『紀伊続風土記』によれば、「上古は榎本氏が代々神官として社領の地を治めていたが、中世以来別に神官をおいて神事をさせた。藤原森純はその神官である。天正(一五七三-九二)のころ榎本氏が断絶し、そのとき宮社は兵火にかかって古記録も焼失した。”
とあり、戦国時代末期に古代から続いた体制が崩壊、その貴重な歴史資料の多くも失われたようです。
第二の門を奥の方から見た様子です。
境内は、この石垣で仕切られ、高い聖域に入ることを感じさせられます。
「産田神社」の西側には参道と並行して産田川が流れ、川に通じる道もあり、伊勢神宮の五十鈴川の手洗い場所を連想します。
正面の建物は、中央通路が拝殿、両側が社務所のような構成になっています。
中央通路の奥で参拝しますが、やや窮屈な感じでした。
両脇の狛犬は、体の割に頭の大きく、どことなくのんびりした表情で親しみが湧きます。
■拝殿にあった祭神の案内板を転記します。
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本社御祭神
伊弉諾尊、伊弉冉尊、軻遇突智尊
合祀御祭神
天照皇大神、大山祗命、木華開耶姫命 神武天皇
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7柱の神様が祀られているようです。
「日本の神々 神社と聖地6」(谷川健一編 白水社)によると”『三重県神社誌』によれば、当社の祭神は伊弊諾尊・伊弉冉尊・軻遇突智尊・天照皇大神・木華咲夜姫命・神武天皇・大山祀命の七神となっているが、永正十八年(一五二一)霜月十四日の棟札(写)に「奉棟上産田神社二所大明神」とあることから、もとの祭神は伊弊再尊と珂遇突智尊の二神であったと推定される。”と書かれてあり、伊弉冉尊終焉の地を感じさせられます。
産田神社の本殿の前に白い玉砂利が敷き詰められていました。
下にある熊野市の案内板では「ひもろぎの跡」と伝えられる場所が残っているとありますが、本殿の両脇に10個程度の平たい石が固めて置かれていました。
「ひもろぎの跡」は、他の参拝者がいて白い玉砂利の聖域に踏み込むことを躊躇し、撮影出来ていません。
■参道脇にあった祭祀遺跡の案内板を転記します。
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熊野市指定文化財
史跡 産田神社祭祀遺跡
所在 有馬町1814番地
指定 昭和39年4月28日
祭日 毎年1月10日(昔は陰暦1月10日 11月15日)
由来 「日本書紀」一書に女神伊弉冉尊(いざなみのみこと)がここで火の神軻遇突智(かぐつち)を産み亡くなったので花の窟に葬ったとある 産田という名は 産んだ所と伝えている。
この付近では 埋蔵土器が多く出土し 考古学的にも先史古代にわたる古さを物語っている。
太古社殿の無かった時代のひもろぎの跡(神の宿る所)と伝えられる場所も残っている。
平成20年3月 日
熊野市教育委員会
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「ひもろぎ」(神籬)の参考のために福岡県宗像市「宗像大社辺津宮」の奥宮とされる祭場「高宮」を紹介します。
今年3月、福岡旅行で撮ったもので、石で囲われ樹木が立っている場所が「ひもろぎ」と思われます。
石で囲まれた聖なる木に神が降臨されるようで、いまでもこの場所で古代からの祭祀が続いているそうです。
福岡県の「宗像大社」は、三ヶ所の神社がセットの名称で、「辺津宮」(宗像市田島)の他、「中津宮」(すぐ沖にある筑前大島にある)、「沖津宮」(更に沖の沖ノ島にある)で構成されています。
産田神社の「ひもろぎ」説明は、本殿脇の固めて置かれた石組みを「祀り場」(祭祀台)を指し、「宗像大社」とは少し意味が違うようです。
■宗像大社「高宮」の案内板を転記します。
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高宮[たかみや]
宗像大神御降臨の地と言われています。社殿がいまだ創建されない悠遠[ゆうえん]のいにしえこの地で祭祀が行われ敬虔な祈りが捧げられたのであります。
現在でも一日、十五日の月次祭[つきなみさい]をはじめ春秋の大祭には本殿に先がけてお祭りが斎行されており全国でも数少ない神籬[ひもろぎ]、磐境[いわさか]の古代祭場であります。
宗像大社
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宗像大社の「高宮」をさらに登り、「宗像山」の頂上にあった祭場「上高宮」で、「高宮」の祭場よりずっと古くからあり、素朴で、小さなものでした。
木が茂り、今は展望できませんが、かってはこの祭場から沖の海にある「中津宮」「沖津宮」を遥拝していたと思われます。
この場所は、「高宮」で参拝している時、信者の会の世話役さんとおぼしき方から教えて頂き、参拝出来たものです。
古代祭祀の一端を少し実感できたような気持ちです。
産田神社の本殿前の様子です。
なかなか良い面構えの狛犬がいます。
神社入り口の案内板に「古い土器も出土する」とあり、関連資料を探して見ました。
「日本の神々 神社と聖地6」(谷川健一編 白水社)によると
”昭和三十四年(一九五九)の伊勢湾台風のとき、境内の杉の大樹が根返りし、その下から弥生中期の土器片が出土した。また付近の津の森遺跡からは、独特の器形をもつ弥生後期の襲や土師器が多量に出土している。”
とあり、この一帯では最も規模の大きな遺跡のようで、神話にも符合するような弥生時代の遺跡があったことは興味深いものです。
神社から国道に向かう途中に「熊野市歴史民俗資料館」があり、遺跡から出土した遺物を展示しているようです。(残念ながら立ち寄れませんでした)
もしかしてその中に女王「伊弉冉尊」の遺品があるのかもしれません。
「なぜ伊弉冉尊がこの地にいたのか?」今回熊野で一番知りたかったことです。
理由は分かりませんでしたが、この地にいたのではないかという思いが強くなりました。