南ドイツ・スイス旅行2日目、世界遺産「ライン渓谷中流上部」のクルーズの続きです。
ライン川クルーズの自作地図です。
「リューデスハイム」(地図右下の赤丸印)で、ライン川クルーズ船「ボッパルト」へ乗船し、「サンクトゴアハウゼン」(地図左上の赤丸印)までのクルーズの地図です。
今回は、4番目の寄港地「バッハラッハ」からローレライを通り、8番目の寄港地「サンクトゴアハウゼン」で下船するまでの記録です。
4番目の寄港地「バッハラッハ」を過ぎ、しばらく進むと、川の中央付近の中州に「ファルツ城」が見えてきます。
上段の写真は、クルーズを終え、ライン川右岸を走るバスから建物右岸側を撮ったもので、城は中州の上流側(左側)に建てられ、下流側(右側)には城に入る階段が見えます。
下段の写真は、クルーズ船で左岸側を通過し、下流から見た風景で、木の生えた中州の下流側にカウプからの渡し船の桟橋があり、城内の「ライン河博物館」を訪れる見学者を迎えるようです。
下記の資料によると「ファルツ城」は、1327年に通行料徴収所として建てられたとされ、何度も大洪水があったとされるライン川に約700年間も立ち続けてきたことには驚きます。
建設当初は、ライン川クルーズ(1) で紹介した「ねずみの塔[モイゼトルム]」と同様。中央の塔(五角形)だけだったようで、洪水対策で周囲が補強され、戦艦のような姿となったようです。
下記の資料にナポレオンをフランス皇帝の座から引きずり落した勇将ブリュッヘルの率いるプロシア軍がパリへ侵攻するため、ライン川を渡る場面が画家ヴィルヘルム・カンプハウゼンによって描かれ、ライン川西岸を奪還したドイツの歴史を知ることが出来ました。
■「ライン河の古城」(鈴木亨 著、鷹書房弓プレス 出版)より
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ラインに浮かぶ軍艦ファルツ城
~上流にあたる部分の城壁に、ひたひたと河波が打ち寄せている。その様子はまるで軍艦のへさきが波を掻き分けて進んでいるようだ。そして後のほうには艦橋のようにとんがり帽子の塔がそびえている。
~この城を、「ライン河に永遠に浮かび、ファルツ伯の町(カウプ)の眺めの中に永遠に停泊する石の船……」と形容したのはヴィクトル・ユーゴーである。
この城は一三二七年、バイエルン家のルートヴィヒ王がライン通行料徴収所として建てたものだ。またの名をファルツグラフェンシュタイン (ファルツ伯の岩)とも呼ばれる。
なにしろ河の中に陣取っているのだから通行する船は逃げようがない。これほど効率のいい料金所もあるまい。
一八一四年の大晦日、右岸のカウプの町からこの城を中継所にして左岸へ粛々と渡って行く大軍があった。ライブツィヒの戦でナポレオン軍を撃破した勇将ブリュッヘルの率いるプロシア軍である。
そして一八一四年四月、プロシアをはじめヨーロッパ同盟軍はナポレオンをワーテルローに破り、フランス皇帝の座から引きずり落したのだった。
現在この城はライン河博物館となり、内部は一般に公開されている。見学する場合にはカウプから渡し船の便がある。
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ファルツ城の右岸にある「カウプ」の町の背後の山に「グーテンフェルス城」が見えてきます。
やや下流の船着き場からの風景ですが、正面からの城の姿が撮れず残念です。
四角の塔と、連なる建物があり、周囲を城壁で囲った堅牢な城郭だったようです。
通行料の徴収と共に、防衛拠点としての重要性があったものと思われます。
■「ライン河の古城」(鈴木亨 著、鷹書房弓プレス 出版)より
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カウプの町とグーテンフェルズ城
~この城は十三世紀前半に築かれ、はじめはトリアー大司教が所有していたが、のちに麓のカウプの町ともどもファルツ選帝侯の支配下に移った。
現在、一般には未公開だが、週末だけはホテルとなって泊ることができる。堂々とした高さ三十五メートルの天守閣の脇に付属する三階建ての居館は、どの階にも大きな集会場が設けられている。あるいは丸く、あるいは角型、あるいはクローバーの葉の形をした窓などに後期ロマネスクの造形の様式がうかがえる。これを美術史家のパウル・クレーメンは、「後期ロマネスクの形式の多様性とともに、グーテンフェルズ城はラインの城の構造と設計の見事な思考を示している」と評している。この城から見おろすライン河と、浮かぶ城郭ファルツの姿が美しい。
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クルーズ船「ボッパルト」の一階レストランの風景です。
6人用のテーブルが左右の窓際と、中央に3列あり、200人以上を収容できるようで、私たちのツアーも窓側の席で食事をしました。
クルーズ船の二階デッキの風景です。
ローレライが近づいてきたので二階デッキの右舷の椅子に陣取り見物です。
夏の日差しの中でしたが、心地よい風に吹かれて美しい風景を眺めることができました。
カウプの町を過ぎ、6番目の寄港地「オ-バーヴェーゼル」の町に近づくと小高い山の上に「シェーンブルク城」が見えてきました。
上段の写真は、ズームで撮った「シェーンブルク城」で、下段は遠景ですが、見るからに本格的な城郭です。
川辺の教会も山上の城に似た配色で、二つの建物が呼応して町の美しさを演出しているようです。
■「ライン河の古城」(鈴木亨 著、鷹書房弓プレス 出版)より
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勇将シェーンブルクの城
右岸のグーテンフェルズ城から眼を左岸に移すと、オ-バーヴェーゼルの町の背後に豪壮なシェーンブルク城が見上げられる。
二つの寺院のゴシック調の尖塔や円塔などが建ち並ぶオ-バーヴェーゼルの町を、「ロマン主義の時代の、ラインでもっとも美しい避難所だ」とフライリグラートは評した。~そのロマン主義の奔流の中で、この町だけは古典的なゴシック調を守りつづけていると言っているのだろう。バハラッハと並んで中世の面影を濃く残している町として知られている。山麓に並ぶ三角屋根に白い壁の民家、その背後のスロープの頂上にそびえる褐色のシェーンブルク城の光景は、そっくりそのまま中世の騎士物語の舞台になりそうな雰囲気がある。
シェーンブルク城の町に面した部分には巨大な城壁が立ちはだかっている。その左方に角塔の大天守閣と、背後にもう一つ円塔の小天守閣がある。マインツを出発して以来、はじめて見る重厚な構えの城である。
ラインの城のうちでも最古の城の一つといわれるこの城はシェーンブルク家の居城であった。十四世紀にトリアー大司教とファルツ伯との間に争いが起ったとき、両陣営の狭間にあるシェーンブルクの一族は二家に分れたが、この城は二家の″共有財産〞とされた。
十七世紀にこの一族からラインラントの生んだ最大の軍人フリードリヒ・ヘルマン・フォン・シェーンブルクが出た。
城は現在オ-バーヴェーゼル町の所有となり、ホテルとレストランを営んでいる。
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上段の写真は、オ-バーヴェーゼルの町の船着き場付近を上流側から見た風景で、多くの塔が並び、右端の円柱形の塔は、灯台に似ているようです。
下段右側の写真は、上段右端の円柱形の塔を下流下側から見た風景で、向うの教会の隣にも大きな塔がそびえています。
下段左側の写真は、船着き場のやや上流の風景で、帽子をかぶったような円柱形の塔の他、左右にも塔が見られます。
なぜたくさんの塔が造られたのか分りませんが、同じように多くの塔が並ぶイタリア中部の町、「サン・ジミニャーノ」を思い出します。
上段の写真は、右岸に黒い岩山のローレライで、断崖に近づくとクルーズ船から格調高いローレライの歌声が流れ、心の中で「ローレライに来たんだ!」と感激の風景でした。
下段の写真は、ローレライの岩山を過ぎ、振り返ったライン川で、右上の写真は、岩山の頂上に2本の旗が立ち、すぐそばに断崖を見下ろす二人の人陰が見えました。
ローレライの伝説には様々なバリエーションがあるようですが、下記のハイネの詩を読むと、岩の上に立つ美女が髪を梳きながら歌う声に船乗りが心を奪われ沈没していく話がよく伝わってきます。
しかし、岩山の頂上の写真のようにローレライの美女があの場所に現れても、船乗りたちには髪を梳く姿もよく見えず、歌声もろくに聞こえなかったのではとの想いも浮かんできます。
又、不注意で船を沈没させた船長が、その原因をローレライの美女のせいに出来る都合の良い伝説でもあったのかも知れません。
■近藤朔風訳詩「ローレライ」(原作ハイネ)
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「ローレライ」
なじかは知らねど心わびて、
昔の伝説[つたえ]はそぞろ身にしむ。
寥[さび]しく暮れゆくラインの流れ、
入日に山々あかくはゆる。
美[うるわ]し少女[おとめ]の巌頭[いわお]に立ちて、
黄金[こがね]の櫛[くし]とり髪のみだれを、
梳[す]きつつ口吟[ずさ]ぶ 歌の声の、
神怪[くすしき]き魔力[まがうた]に魂[たま]もまよう。
漕ぎゆく舟びと歌に憧[あこが]れ、
岩根も見為[みや]らず仰げばやがて、
浪間[なみま]に沈むるひとも舟も、
神怪[くすしき]き魔歌[まがうた]謡[うた]うローレライ
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ローレライの断崖の下流に中州があり、伝説の美女の銅像が建っていました。
長い髪の美女の雰囲気は伝わってきますが、髪を梳く姿ではないようです。
この少し上流側の川岸にスイスとの国境でもあるボーデン湖からのキロ数「555」の看板が見られました。
ローレライを下ったザンクト・ゴアールスハウゼンの町の上流(ザンクト・ゴアールの町の対岸)に「カッツ城(ねこ城)」が見えてきました。
小高い岩山の斜面のあちこちに石垣が築かれ、斜面から攻上る敵の侵入を阻止するものと思われます。
ひと際高くそびえる円柱形の塔は、かつて焼打ちにされ、修復されていない姿のようで、古城の風景にも様々な歴史が刻み込まれています。
「ねこ城」の別称は、二つ並ぶトンガリ屋根がネコの耳に似ているためかとも思いましたが、城の名称となった築城者カッツェネルン・ボーゲン伯の「カッツェ」の部分がドイツ語の猫(Katze)と似ていることによるものだそうです。
下船したザンクト・ゴアールスハウゼンより下流に「ねずみ城」があり、「ねこ城」と対抗したことが下記の資料に書かれていますが、ライン川クルーズの最初頃に見た「ネズミの塔」と勘違いしそうでした。
■「ライン河の古城」(鈴木亨 著、鷹書房弓プレス 出版)より
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カッツ(ねこ)城とマウス(ねずみ)城
ザンクト・ゴアールの対岸、ローレライの岩山を越えたふもとに、ザンクト・ゴアールスハウゼンの街がある。ザンクト・ゴアールスハウゼン近くのカッツ(ねこ)城は、ラインフェルス城を建てたカッツェネルン・ボーゲン伯に対抗して、トリーア大司教が少し下流にマウス(ねずみ)城(トゥルンベルク城)を建てたが、それに対して、1393年にカッツェネルン・ボーゲン伯によって建てられたものだ。正式には、「ノイ・カッツェネルン・ボーゲン城」と言う。
ローレライの岩と同じ固い岩の上に建てられ、また、とても頑丈に建てられたので、プファルツ継承戦争のとき、1692年にフランス軍の攻撃に対しても持ちこたえた。ナポレオン時代の1806年にフランス軍によって爆破されるまで、ヘッセン軍の宿となっていた。1898年に再建された。
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上段の写真は、クルーズ船が寄港したザンクト・ゴアールの町の丘にそびえる「ラインフェルス城」で、下段の写真の右上に「ラインフェルス城」があります。
上段の資料にもあったように、対岸のザンクト・ゴアールスハウゼンにある「カッツ城(ねこ城)」と同様、カッツェネルン・ボーゲン伯により築城されたようですが、山城のような「カッツ城)」と違い、街と一体化した風景です。
ザンクト・ゴアールスハウゼンの町で、ライン川クルーズ船から下船する風景です。
写真右端には添乗員Yさんがツアーのバスを探しに向かっているようで、人数の確認、トイレの心配、観光スポットの説明、各自のカメラで記念写真の撮影サービスなど大勢を引き連れて歩くのは本当に大変な仕事のようです。
バスに乗ってライン川沿いをさかのぼり、次に向かったのはフランクフルトの南にある小さな町「ベンスハイム」のワイナリーです。
ライン川クルーズの自作地図です。
「リューデスハイム」(地図右下の赤丸印)で、ライン川クルーズ船「ボッパルト」へ乗船し、「サンクトゴアハウゼン」(地図左上の赤丸印)までのクルーズの地図です。
今回は、4番目の寄港地「バッハラッハ」からローレライを通り、8番目の寄港地「サンクトゴアハウゼン」で下船するまでの記録です。
4番目の寄港地「バッハラッハ」を過ぎ、しばらく進むと、川の中央付近の中州に「ファルツ城」が見えてきます。
上段の写真は、クルーズを終え、ライン川右岸を走るバスから建物右岸側を撮ったもので、城は中州の上流側(左側)に建てられ、下流側(右側)には城に入る階段が見えます。
下段の写真は、クルーズ船で左岸側を通過し、下流から見た風景で、木の生えた中州の下流側にカウプからの渡し船の桟橋があり、城内の「ライン河博物館」を訪れる見学者を迎えるようです。
下記の資料によると「ファルツ城」は、1327年に通行料徴収所として建てられたとされ、何度も大洪水があったとされるライン川に約700年間も立ち続けてきたことには驚きます。
建設当初は、ライン川クルーズ(1) で紹介した「ねずみの塔[モイゼトルム]」と同様。中央の塔(五角形)だけだったようで、洪水対策で周囲が補強され、戦艦のような姿となったようです。
下記の資料にナポレオンをフランス皇帝の座から引きずり落した勇将ブリュッヘルの率いるプロシア軍がパリへ侵攻するため、ライン川を渡る場面が画家ヴィルヘルム・カンプハウゼンによって描かれ、ライン川西岸を奪還したドイツの歴史を知ることが出来ました。
■「ライン河の古城」(鈴木亨 著、鷹書房弓プレス 出版)より
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ラインに浮かぶ軍艦ファルツ城
~上流にあたる部分の城壁に、ひたひたと河波が打ち寄せている。その様子はまるで軍艦のへさきが波を掻き分けて進んでいるようだ。そして後のほうには艦橋のようにとんがり帽子の塔がそびえている。
~この城を、「ライン河に永遠に浮かび、ファルツ伯の町(カウプ)の眺めの中に永遠に停泊する石の船……」と形容したのはヴィクトル・ユーゴーである。
この城は一三二七年、バイエルン家のルートヴィヒ王がライン通行料徴収所として建てたものだ。またの名をファルツグラフェンシュタイン (ファルツ伯の岩)とも呼ばれる。
なにしろ河の中に陣取っているのだから通行する船は逃げようがない。これほど効率のいい料金所もあるまい。
一八一四年の大晦日、右岸のカウプの町からこの城を中継所にして左岸へ粛々と渡って行く大軍があった。ライブツィヒの戦でナポレオン軍を撃破した勇将ブリュッヘルの率いるプロシア軍である。
そして一八一四年四月、プロシアをはじめヨーロッパ同盟軍はナポレオンをワーテルローに破り、フランス皇帝の座から引きずり落したのだった。
現在この城はライン河博物館となり、内部は一般に公開されている。見学する場合にはカウプから渡し船の便がある。
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ファルツ城の右岸にある「カウプ」の町の背後の山に「グーテンフェルス城」が見えてきます。
やや下流の船着き場からの風景ですが、正面からの城の姿が撮れず残念です。
四角の塔と、連なる建物があり、周囲を城壁で囲った堅牢な城郭だったようです。
通行料の徴収と共に、防衛拠点としての重要性があったものと思われます。
■「ライン河の古城」(鈴木亨 著、鷹書房弓プレス 出版)より
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カウプの町とグーテンフェルズ城
~この城は十三世紀前半に築かれ、はじめはトリアー大司教が所有していたが、のちに麓のカウプの町ともどもファルツ選帝侯の支配下に移った。
現在、一般には未公開だが、週末だけはホテルとなって泊ることができる。堂々とした高さ三十五メートルの天守閣の脇に付属する三階建ての居館は、どの階にも大きな集会場が設けられている。あるいは丸く、あるいは角型、あるいはクローバーの葉の形をした窓などに後期ロマネスクの造形の様式がうかがえる。これを美術史家のパウル・クレーメンは、「後期ロマネスクの形式の多様性とともに、グーテンフェルズ城はラインの城の構造と設計の見事な思考を示している」と評している。この城から見おろすライン河と、浮かぶ城郭ファルツの姿が美しい。
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クルーズ船「ボッパルト」の一階レストランの風景です。
6人用のテーブルが左右の窓際と、中央に3列あり、200人以上を収容できるようで、私たちのツアーも窓側の席で食事をしました。
クルーズ船の二階デッキの風景です。
ローレライが近づいてきたので二階デッキの右舷の椅子に陣取り見物です。
夏の日差しの中でしたが、心地よい風に吹かれて美しい風景を眺めることができました。
カウプの町を過ぎ、6番目の寄港地「オ-バーヴェーゼル」の町に近づくと小高い山の上に「シェーンブルク城」が見えてきました。
上段の写真は、ズームで撮った「シェーンブルク城」で、下段は遠景ですが、見るからに本格的な城郭です。
川辺の教会も山上の城に似た配色で、二つの建物が呼応して町の美しさを演出しているようです。
■「ライン河の古城」(鈴木亨 著、鷹書房弓プレス 出版)より
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勇将シェーンブルクの城
右岸のグーテンフェルズ城から眼を左岸に移すと、オ-バーヴェーゼルの町の背後に豪壮なシェーンブルク城が見上げられる。
二つの寺院のゴシック調の尖塔や円塔などが建ち並ぶオ-バーヴェーゼルの町を、「ロマン主義の時代の、ラインでもっとも美しい避難所だ」とフライリグラートは評した。~そのロマン主義の奔流の中で、この町だけは古典的なゴシック調を守りつづけていると言っているのだろう。バハラッハと並んで中世の面影を濃く残している町として知られている。山麓に並ぶ三角屋根に白い壁の民家、その背後のスロープの頂上にそびえる褐色のシェーンブルク城の光景は、そっくりそのまま中世の騎士物語の舞台になりそうな雰囲気がある。
シェーンブルク城の町に面した部分には巨大な城壁が立ちはだかっている。その左方に角塔の大天守閣と、背後にもう一つ円塔の小天守閣がある。マインツを出発して以来、はじめて見る重厚な構えの城である。
ラインの城のうちでも最古の城の一つといわれるこの城はシェーンブルク家の居城であった。十四世紀にトリアー大司教とファルツ伯との間に争いが起ったとき、両陣営の狭間にあるシェーンブルクの一族は二家に分れたが、この城は二家の″共有財産〞とされた。
十七世紀にこの一族からラインラントの生んだ最大の軍人フリードリヒ・ヘルマン・フォン・シェーンブルクが出た。
城は現在オ-バーヴェーゼル町の所有となり、ホテルとレストランを営んでいる。
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上段の写真は、オ-バーヴェーゼルの町の船着き場付近を上流側から見た風景で、多くの塔が並び、右端の円柱形の塔は、灯台に似ているようです。
下段右側の写真は、上段右端の円柱形の塔を下流下側から見た風景で、向うの教会の隣にも大きな塔がそびえています。
下段左側の写真は、船着き場のやや上流の風景で、帽子をかぶったような円柱形の塔の他、左右にも塔が見られます。
なぜたくさんの塔が造られたのか分りませんが、同じように多くの塔が並ぶイタリア中部の町、「サン・ジミニャーノ」を思い出します。
上段の写真は、右岸に黒い岩山のローレライで、断崖に近づくとクルーズ船から格調高いローレライの歌声が流れ、心の中で「ローレライに来たんだ!」と感激の風景でした。
下段の写真は、ローレライの岩山を過ぎ、振り返ったライン川で、右上の写真は、岩山の頂上に2本の旗が立ち、すぐそばに断崖を見下ろす二人の人陰が見えました。
ローレライの伝説には様々なバリエーションがあるようですが、下記のハイネの詩を読むと、岩の上に立つ美女が髪を梳きながら歌う声に船乗りが心を奪われ沈没していく話がよく伝わってきます。
しかし、岩山の頂上の写真のようにローレライの美女があの場所に現れても、船乗りたちには髪を梳く姿もよく見えず、歌声もろくに聞こえなかったのではとの想いも浮かんできます。
又、不注意で船を沈没させた船長が、その原因をローレライの美女のせいに出来る都合の良い伝説でもあったのかも知れません。
■近藤朔風訳詩「ローレライ」(原作ハイネ)
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「ローレライ」
なじかは知らねど心わびて、
昔の伝説[つたえ]はそぞろ身にしむ。
寥[さび]しく暮れゆくラインの流れ、
入日に山々あかくはゆる。
美[うるわ]し少女[おとめ]の巌頭[いわお]に立ちて、
黄金[こがね]の櫛[くし]とり髪のみだれを、
梳[す]きつつ口吟[ずさ]ぶ 歌の声の、
神怪[くすしき]き魔力[まがうた]に魂[たま]もまよう。
漕ぎゆく舟びと歌に憧[あこが]れ、
岩根も見為[みや]らず仰げばやがて、
浪間[なみま]に沈むるひとも舟も、
神怪[くすしき]き魔歌[まがうた]謡[うた]うローレライ
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ローレライの断崖の下流に中州があり、伝説の美女の銅像が建っていました。
長い髪の美女の雰囲気は伝わってきますが、髪を梳く姿ではないようです。
この少し上流側の川岸にスイスとの国境でもあるボーデン湖からのキロ数「555」の看板が見られました。
ローレライを下ったザンクト・ゴアールスハウゼンの町の上流(ザンクト・ゴアールの町の対岸)に「カッツ城(ねこ城)」が見えてきました。
小高い岩山の斜面のあちこちに石垣が築かれ、斜面から攻上る敵の侵入を阻止するものと思われます。
ひと際高くそびえる円柱形の塔は、かつて焼打ちにされ、修復されていない姿のようで、古城の風景にも様々な歴史が刻み込まれています。
「ねこ城」の別称は、二つ並ぶトンガリ屋根がネコの耳に似ているためかとも思いましたが、城の名称となった築城者カッツェネルン・ボーゲン伯の「カッツェ」の部分がドイツ語の猫(Katze)と似ていることによるものだそうです。
下船したザンクト・ゴアールスハウゼンより下流に「ねずみ城」があり、「ねこ城」と対抗したことが下記の資料に書かれていますが、ライン川クルーズの最初頃に見た「ネズミの塔」と勘違いしそうでした。
■「ライン河の古城」(鈴木亨 著、鷹書房弓プレス 出版)より
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カッツ(ねこ)城とマウス(ねずみ)城
ザンクト・ゴアールの対岸、ローレライの岩山を越えたふもとに、ザンクト・ゴアールスハウゼンの街がある。ザンクト・ゴアールスハウゼン近くのカッツ(ねこ)城は、ラインフェルス城を建てたカッツェネルン・ボーゲン伯に対抗して、トリーア大司教が少し下流にマウス(ねずみ)城(トゥルンベルク城)を建てたが、それに対して、1393年にカッツェネルン・ボーゲン伯によって建てられたものだ。正式には、「ノイ・カッツェネルン・ボーゲン城」と言う。
ローレライの岩と同じ固い岩の上に建てられ、また、とても頑丈に建てられたので、プファルツ継承戦争のとき、1692年にフランス軍の攻撃に対しても持ちこたえた。ナポレオン時代の1806年にフランス軍によって爆破されるまで、ヘッセン軍の宿となっていた。1898年に再建された。
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上段の写真は、クルーズ船が寄港したザンクト・ゴアールの町の丘にそびえる「ラインフェルス城」で、下段の写真の右上に「ラインフェルス城」があります。
上段の資料にもあったように、対岸のザンクト・ゴアールスハウゼンにある「カッツ城(ねこ城)」と同様、カッツェネルン・ボーゲン伯により築城されたようですが、山城のような「カッツ城)」と違い、街と一体化した風景です。
ザンクト・ゴアールスハウゼンの町で、ライン川クルーズ船から下船する風景です。
写真右端には添乗員Yさんがツアーのバスを探しに向かっているようで、人数の確認、トイレの心配、観光スポットの説明、各自のカメラで記念写真の撮影サービスなど大勢を引き連れて歩くのは本当に大変な仕事のようです。
バスに乗ってライン川沿いをさかのぼり、次に向かったのはフランクフルトの南にある小さな町「ベンスハイム」のワイナリーです。