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昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

糸満市で「ポンポンおじさん」に遭遇した写真です

2008年08月25日 | 沖縄の旅
2008年4月11日15:30頃
糸満市字大里の「南山城跡」前で、「ポンポンおじさん」に遭遇しました!



「南山城跡」から東側の「カデシガー(嘉手志川)」に行く信号を渡った時でした。
妻が、「ホラ! あの人有名人よ」と教えてくれました。

何と、いま歩いてきた「南山城跡」側の信号のたもとに派手な花飾りを頭に付けた変なおじさんが子供たちと話しているではありませんか。

「ポンポンおじさん?」、私、知りませんでした。

妻の説明では、「探偵!ナイトスクープ」で見たおじさんで、交通安全のために全国を歩いているようです。


「ポンポンおじさん」の後ろには「高嶺小学校」の校門が見えます。



ここには高嶺小学校の他、「高嶺中学校」や、「幼稚園」があります。
「ポンポンおじさん」が話しているのは中学生のようです。

迷彩服の上下にバイク、それだけだと「さすが行動派のおじさん」とおもうのですが、バイクには竹竿や、傘、カッパなどが積まれ、何か入った買い物袋がぶら下がっています。
「ポンポンおじさん」は、目立ちたがり屋ではあるが、決してカッコ良さを追い求めている人ではないと確信しました。



「ポンポンおじさん」の横顔です。
ヘルメットの上に結びつけた花はとても綺麗です。

しかし、「ポンポンおじさん」には似合っていません。
とてもお気の毒です。



「ポンポンおじさん」は、道路を挟んで写真を撮っている私に気が付いたようで、こちらを向いてくれました。
さすが、テレビに出演して、積極的になっているようです。
子供達もいっしょにカメラ目線してくれました。



「カデシガー(嘉手志川)」の見物を終え、交差点に戻ると「ポンポンおじさん」は、行き交う自動車に向かってピンク色のポンポンを振っていました。

注目されていない時、ふと哀愁が漂う「ポンポンおじさん」の横顔が印象的でした。
これからも元気で続けてくださいね。

尚巴志の時代の「南山城」を想う

2008年08月23日 | 沖縄の旅
糸満ロータリーから約2.5Km東にある糸満市字大里の「南山城」に行きました。
「南山城」は、14世紀頃の沖縄では「三山分立時代」といわれ、北山(今帰仁城)、中山(浦添城)、南山(大里城)に王が分立していたようです。
この南山城は、別名「島尻大里城」といわれ、琉球王朝の正史「中山世譜」によると、1429年に尚巴志によって三山が統一される過程で最後に攻略されたといわれる城です。



かっての「南山城」だったと思われる辺りには、高嶺小学校や、高嶺中学校が出来て、ごく一部の城(グスク)跡が残っているようです。

写真は、高嶺小学校と、高嶺中学校の間の道に面した「南山城」の石垣です。
3カ所の石段があり、向って左に中学校、右奥に小学校があります。



一番奥の石段を上がると鳥居があり、その奥に「南山神社」の拝殿が見えてきます。

■石段を上がるとすぐ右手に「南山城跡」の案内板があり、転記します。
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南山城跡(なんざんじょうせき)
 糸満市教育委員会  平成十三年三月
南山城は琉球三山分立時代(14世紀頃)に栄えたグスクです。南山は明国と交易を盛んに行い、財源を得たり、明文化を移入したりして城を中心に南山文化を築いていました。
15世紀になって中山王尚巴志に滅ぼされるまでの朝貢回数は22回を数えます。
1984年、発掘調査が市教育委員会によって行われ、中国製陶磁器やグスク系土器の他、備前(びぜん)焼きスリ鉢、鉄鏃(てつぞく)、ガラス製勾玉(まがたま)などが出土しています。これらの遺物から南山城は13世紀頃に築かれ、14~15世紀前半が特に栄えていたことが分かりました。
 南山の東方には水豊富な「カデシガー」、北方には源為朝と王の妹との逢引場所だと伝わる「和解森(わだきなー)」があります。
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向って左に「南山神社」の拝殿、その右に神殿があります。
金網のフェンスで囲われていますが、子供たちのイタズラを警戒しているのでしょうか。
フェンスに囲われた神社は、初めてです。



「南山神社」の奥、高嶺小学校に隣接した場所に石垣で造られた小高い場所があり、本土の墓石のような石碑には「南山城跡」と書かれていました。

高嶺小学校の校庭がすぐ隣にあり、沖縄の歴史に登場する「南山城」の雄大さや、重厚なイメージは感じられませんでした。
期待が大きかったためでしょうか?

石段上り口に石で造られた拝所のような場所が見えます。



「南山城跡」と書かれた石碑の奥に気になるいくつかの石があります。
向って左の三つの石や、中央に四角に整えられた石が転がっているのは拝所と思われます。



一段上の写真にある石を拡大したものです。
何やら文字が彫られています。
何とか読める文字は、「奉納 南山?ノ主御? 西銘」ですが、文字が右から左に書かれており、昭和初期以前に彫られたものと思われます。



「南山城跡」の石碑がある場所の横に石で造られた長い施設がありました。
案内板もなく、長い石の箱のようで、前にお供えの台があることからお墓かも知れません。
とにかく初めて見るものですがよく分かりません。



一段上の写真の施設の横に石段があり、上っていきました。



石段を登った辺りの景色で、正面にガジュマルの木が見えます。
この一段高い場所が「一の郭」だったのでしょうか?

写真に向かって左下に道が見えますが、城としては高くなく、小規模です。
この城(グスク)が、堅固で、大型の「浦添城」(中山)、「今帰仁城」(北山)と対抗した「南山城」と言われてもまったく信じられません。



「南山城跡」付近の地図で、等高線は太線の標高50m、その周囲に標高40mの等高線しかなく、周辺の標高差はせいぜい20m程度と思われます。
やはり地形としてはなだらかで、急峻な断崖の上に立つ今帰仁城、浦添城と比較し格が違い過ぎます。

凸型に似た城跡のマークが「南山城跡」で、隣に高嶺小学校(上)、南側に高嶺中学校(下)があります。
赤い丸印は、「嘉手志川(カデシガー)」と呼ばれる泉です。
沖縄の城(グスク)には、井戸がありますが、この泉の水量は桁違いに豊かでした。



沖縄が三山分立時代と言われた時代の勢力分布の地図です。
ここ「南山城」は、別名「島尻大里城」と言われ、最も南にあります。
又、南山エリア(黄色)には東側にもう一つ「島添大里城」があり、大きな勢力をもち、この南山城と勢力を二分していた時代もあったと言われています。

琉球初の正史「中山世鑑」(1650年羽地朝秀編纂)や、次に編纂された「中山世譜」(1701年察鐸が編纂)では、佐敷城の按司(豪族)尚巴志が、最初に①南山を破って南山王となり、その後②中山③北山と攻略したとしています。
後年1725年に察温が編纂した「中山世譜」で、三山の攻略の順が①中山②北山③南山と変えられ、この順が通説となっています。

この資料を確認し、「やはり、ここは本当の南山城ではない!」と感じました。

沖縄最強の強固な城「浦添城」を攻略した佐敷按司「尚巴志」が、その後に今帰仁を居城とする北山王を破り、最後に、本拠地に近く、最も弱そうな南山を攻略する順は常識では考えられないことです。

この南山城が最後まで残っていたとしたら、名目的に残されたものと推察されます。
当時、中国明皇帝から王と認められ臣下となって朝貢(見返りの大きい)ができるのは、王で、その実務を支えるのは那覇の久米村に住む中国人の集団だったと言われています。
南山王となった尚巴志が、中山を攻略した後、父思招を王としたのも三山分立の朝貢貿易体制の維持が、必要だったのではないかと推察しています。

沖縄の英雄「尚巴志(しょうはし)」の生きた時代には疑問や、想像が次々と湧いてきます。



南城市大里にある「大里城」、別名「島添大里城」の地図です。
この城は、太平洋を望む標高約150mの山に造られた城です。
頂上辺りにグスク跡があり、北西の斜面は断崖や、急斜面が続いているようです。
城の面積は、約2万㎡で、4万㎡クラスの今帰仁城、浦添城には及ばないものの周辺の城を威圧する強固な城だったと思われます。

三山分立時代に南山の按司達を従え、最大勢力の中山王に対抗した「南山王」は、こちらの「島添大里按司」だったものと考えられます。

又、この「島添大里城」に隣接する「佐敷城」の按司「尚巴志」が、周辺按司達を巻き込み南山王「島添大里按司」を倒し、南山全域を制圧して南山王となった説には大いに納得するものです。

「喜屋武岬」の断崖に咲く白百合

2008年08月16日 | 沖縄の旅

喜屋武(きやん)岬にあった公園の案内板です。
「沖縄戦跡国定公園」「喜屋武岬園地」とあります。

看板の後ろの植物は、沖縄の海岸でよく見かける「アダン」のようです。



喜屋武岬の広場にひと際目立つ「平和の塔」がありました。
沖縄の美しい海の色の塔には小さな白い花が供えられていました。

「平和の塔」に刻まれていた碑文を転記します。
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平和の塔
 第六二師団管下部隊は喜屋武複廓陣地において摩文仁の第三二軍司令部向け進攻を続ける米軍に対し最後の迎撃を続けしが善戦空しく昭和二十年六月二十日玉砕せり
 昭和二十七年十月地元民は将兵並びに戦斗に協力散華せる住民の遺骨併せて一万柱を奉納し平和の塔と名づけしがこのたび南方同胞援護会の助成を得て新たに塔を建てその遺烈を伝う
昭和四十四年三月
財団法人 沖縄遺族連合会
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碑文によると沖縄戦の最後、島の南端に追い詰められた1万人もの人々がこの付近で亡くなられたことが書かれていました。
想像することも躊躇するような、壮絶な出来事がここであったことを知りました。



公園の塀から西の方向を見た景色です。
向こうに波立っているのは、具志川城の沖辺りでしょうか?

ここは、夕日が美しいスポットでもあるようです。


「喜屋武岬」の断崖の下は、とても美しい海でした。
小さな船が見えますが、釣りでもしているのでしょうか。



「喜屋武岬」から東南東方向の海岸の景色です。
地図で見ると、岬の先端の地名は、沖縄本島最南端「荒崎」のようです。

荒々しい岩場、きれいな海に白い波が続く絶景でした。



広場から東の方向に灯台が見えます。
向って右のブロック塀は、南側の断崖に沿って作られているものです。



灯台に向う道が始まる所にこんなお店がありました。
沖縄そば、ラーメン、うどん、タコス、ホットドック、アイスクリーム等々、けっこう繁盛していました。

小さな黒板に、「(カメラ)シャッター押します お気軽にどうぞ パーラーひまわり」と書かれてあります。
なかなかサービス精神にあふれ、商売熱心のようです。



ちょっと歩くと灯台に着きました。
正面からは塀に囲まれたように見えますが、正面以外はオープンでした。
門まで閉まっていて、ちょっと笑ってしまいました。

灯台のすぐ下は、白い塀で小さく囲われ、カギもかかっているようです。

■門の脇にあった案内板を転記します。
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喜屋武埼灯台(きやんさきとうだい)
当地の東方約百二十メートルの位置に、さきの大戦後、米国によって建設された「新崎灯台」がありましたが、沖合を航行する船舶から「光力が弱くて遠方から見えない」との苦情が出ておりました。
海上保安庁は、利用者の要望にこたえ、沖を通る船舶の重要な標識としてここに本土復帰後の昭和四十七年六月に県内初の大型灯台を設置しました。
光源にキセノンランプを使ったことにより、旧灯台の千五百倍の明るさと、二倍の光達距離を有する灯台へと機能を向上し、航行する船舶の安全を守っています。
灯台の状況は、電話回線でいつも把握し、事務所からも定期的に職員が巡回し機能の保全に努めています。

施設の概要
位置 北緯 26度04分31秒
東経 127度40分18秒
塗色及び構造 白色 塔形 コンクリート造
等級及び灯質 無等 単閃白光 毎5秒に1閃光
光度 90万カンデラ
光達距離 18.5海里(約34km)
光達距離 18.5海里(約34km)
高さ 地上~頂部 15m
   水面~灯火 47m
管理事務所 第十一管区海上保安本部(灯台運用課)

灯台は船舶が安全に航行するための大切な施設です。
航海の安全のためみんなで大切にしましょう。

社団法人 燈光会
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灯台から海岸方向にみちがあり、断崖に面した突当りから西の展望広場を見た景色です。
平和の塔、赤瓦の休憩所が見えます。

下の海岸を見ると断崖絶壁は、相当な高さです。
ここから1万人程の人々が命を絶ったのか・・・と改めて絶句。

断崖に白いゆりの花が一輪咲いていました。



一段上の写真と同じ場所をズームで撮りました。
改めて断崖絶壁の迫力を感じます。

数人の人が思い思いに景色を楽しんでいます。
この美しい景色をおだやかな気持ちで眺められる平和のありがたさを痛感しました。



足もとの草むらにも白いゆりの花がひっそりと咲いていました。
なぜか、鎮魂の花にも思えます。


東側の景色です。
とにかく美しい海岸でした。

東シナ海の断崖に建つ「具志川城」からの眺望

2008年08月14日 | 沖縄の旅
「白銀堂」から海岸沿いに南に進み糸満市喜屋武具志川原にある「具志川城(ぐしかわぐすく)」へ行きました。



沖縄本島の南西端に近い「喜屋武岬(きやんみさき)」付近の地図です。
「具志川城」は、「喜屋武岬」のすぐ西の海岸にあります。
断崖の海岸が海に張り出した場所で、北側以外の東西南の三方は自然の断崖に守られる構造になっているようです。



具志川城の入口で、車は、付近の道端に駐車して行きました。
「史跡 具志川城跡」と刻まれた石碑があり、向って左奥に向かう道を進むとすぐに「具志川城」の城門跡が見えてきます。

■写真に向かって右端にある「具志川城跡」の案内板を転記します。
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史跡 具志川城跡
昭和47年5月15日 国指定
この城は、断崖の付け根のところに城門があり、そこから一段下がって二の丸、さらに一段下がって本丸が海に突き出ています。石垣は珊瑚性石灰岩の野面積みですが、門の部分には、切石を用いた痕跡が残っています。城の規模は、長さが東西82~3メートル、南北の巾は二の丸で33メートル、本丸で16~7メートルです。二の丸には穴(俗に「火吹き穴」)があって海に通じています。
久米島の伝説によれば、この城は久米島の具志川城主真金声(まかねくい)按司が伊敷索(いしきなわ)按司の二男真仁古樽(まにくたる)に攻められて落城し、島を脱出して本島に逃れ、故郷と同じ名の具志川城を築いたといわれます。その真偽は不明ですが双方の立地や規模、構造はよく似ています。
沖縄県教育委員会
昭和53年3月31日
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この説明文に「城門があり、そこから一段下がって二の丸、さらに一段下がって本丸」とありますが、一般的な解説では「城門 → 一の郭 → 二の郭」と奥に進む説明がされて一、二が逆になっています。
「丸」と「郭」の違いのためでしょうか?



道を進むと二つの石垣の山があり、東北に向いて築かれていた「具志川城」の城門跡のようです。
城壁は、かなりの厚さがあり、立派な城門が築かれていたものと思われます。

案内板には「垣は珊瑚性石灰岩の野面積みですが、門の部分には、切石を用いた痕跡が残っています。」と書かれていましたが、切石の部分はよく分かりませんでした。

飛行機が北に向かっていました。
那覇空港へ到着するものと思われます。



具志川城の東側の城壁で、「一の郭」の東側の城壁を南から見た様子です。

奥の城壁で高くなっている所が城門跡で、その後ろに緑の岩壁が東に延びています。

城門以外で、断崖に沿って造られている城壁の高さは、他のグスクと比較にならない低さです。
落下防止や、海辺の風除け程度の機能があれば充分ということでしょうね。



城門を入ると「一の郭」で、中央付近に囲いがあり、その中に「火吹き穴(ヒーフチミー)」がありました。

断崖の下まで穴が続いているようですが、穴が作られた目的には諸説があるそうです。
陸地側から敵に囲まれて攻められた場合、外部ヘの連絡通路がなかったら全滅となる危険性を避けることではなかったかと推察しています。

写真の後ろに見える石垣は、門から西に延びた城壁の様子です。
陸地に面した城壁は約5mと高く作られ、防御を固めていたようです。



柵に挟まれた道から先が、海に突き出た城の先端「二の郭」で、西側の城壁が続いています。

「二の郭」は、先端に行くほど低くなっています。



一段上の写真とほぼ同じ場所から「二の郭」の東側を見た景色です。
断崖の縁に沿って石垣が蛇行し、上下に波打つように築かれています。

下の海までかなりの高さがあり、武器を持って攻め登ることなどとても無理のようです。



「二の郭」の東側の端に小さな石碑のようなものがありました。
向って左には「久米門中 具志川アンジ」、向って右には「久米門中 女ノ子」と刻まれています。
中央にはコンクリートでお供えを置くための台が作られています。

別の場所に同じような形の石碑があり、「久米門・・ ミチム・・」と刻まれ、文字の下部から石碑が折れて読めませんでした。
その前にコンクリートブロックが2個並べられていました。

ふと、3個のコンクリートブロックを三角形に並べて海の彼方の故郷を祈る那覇市の三重城での風習「ジュウルクニチー」を思い出しました。
久米島の出身者が西の彼方にある故郷の島に向って祈る場所ではないかとも推察出来ますが、記憶では祈る方角が東に向いていたようで、いま一つ分かりません。



「一の郭」から東の「喜屋武岬」方向を見た景色です。
断崖の下の海岸に巨大な岩が並び、とても雄大な景色でした。

海岸には2~3人の人が歩いているのが見えました。



「二の郭」から西の海岸を見た景色です。
断崖のすぐ西側には裾を波で削られた巨大な岩があります。

東西に長く伸びている海岸の景色はとにかく最高でした。


海人(うみんちゅ)の町の御嶽「白銀堂」

2008年08月10日 | 沖縄の旅
那覇からレンタカーで、国道331号線を南に進み糸満市の「白銀堂(はくぎんどう)」へ行きました。
糸満市は、昔から「海人(うみんちゅ)」と呼ばれる漁師の町で、毎年旧暦の5月、航海安全と、大漁を祈願する海人の祭り「糸満ハーレー」が盛大に行われるそうです。



国道331号線に面した「白銀堂(はくぎんどう)」の入口です。
鳥居がありますが、本土で見られる神社ではなく御嶽(うたき)のようです。

鳥居の奥に境内に駐車した車が見えますが、写真に向って左手に進入路がありました。

埋め立てが行われる前、「白銀堂」の前は白い砂浜が広がっていたようです。
境内に入り左右に大きな岩山がありますが、昔、海岸で荒波に削られた大きな岩礁だったと思われます。



鳥居に向って右手にも大きな岩山があり、赤瓦の「白銀堂」の建物が見えます。

塀の上に観光案内地図が描かれた案内板がありました。
沖縄本島の南西端にある糸満市が描かれています。



鳥居を入ると左右にシーサーが置かれています。
焼き物で造られたシーサーが、高い台座の上で睨みをきかせていました。



「白銀堂」の建物が後ろの岩山にくいこむように建っています。
建物に向って左に岩山の裏に行く門が見えます。



岩に覆いかぶさるように建物が造られていますが、建物に岩が寄りかかっているようにも見えます。

なぜか感動してしまい、写真を撮りました。



建物の中に祭壇がありましたが、シャッターが締まっていました。
言い伝えでは建物の奥の洞窟に「白銀堂」の由来となった銀貨が埋められているようです。
この奥でしょうか?



「白銀堂」の建物のすぐ横に大きな岩の間に入る門がありました。



大岩が、左右の大きな岩山の間に挟まれています。

「白銀堂」の建物の裏手で撮った写真です。



一段上の写真の岩の下を撮った写真です。
ここは、トンネルのようになっています。

真ん中の岩がぶら下がっているのが分かります。
岩の下に祭壇のようなものが見えます。



「白銀堂」の奥から表の国道方向を見た写真です。
向って右の路地から車で入ってきました。

中央に大きな岩山があります。



一段上の写真で、中央にある岩山の下に石碑と、拝所がありました。

靴をぬぎ、地面に敷いた新聞紙に座った二人の女性が、祭壇にお供えをしてお祈りを続けていました。

■その横に石碑があり、碑文を転記します。
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<碑文>
意地ぬ出らあ手引き 手ぬ出らあ意地ひき 1992年8月吉日
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沖縄県教育委員会の道徳教育郷土資料の中に「意地ぬ出じらぁ手引き-白銀堂由来記」が掲載されています。
白銀堂の由来は、とても面白い物語で、人々に親しまれているようです。



白銀堂の横の道に「パーラー若松」の看板があるお店が見えています。
ブロック塀の上に「今川焼 んむがぁやーきー」と書かれた立札が見えます。

「んむがぁやーきー」と言う食べ物にとても興味をそそられました。
しかし、昼食直後で、妻の反対もあり、断念しました。

那覇港の城塞「三重城」

2008年08月03日 | 沖縄の旅
那覇市の那覇港にある「三重城(みーぐすく)」跡へ行きました。


19世紀頃の那覇港の様子がが描かれている「沖縄貿易図屏風」(滋賀大学蔵)の絵の
一部です。
江戸時代、那覇港にあった「三重城」で、岩礁の上の石垣で囲まれた場所です。
細長い堤防の先端部分が「三重城」だったようです。

当初は、港の防波堤の他、防衛のための砲台などの目的で造られたようです。
この屏風絵が描かれた時代には大砲もなく、旅立つ人を見送る場所で利用されているようです。

現在の「三重城」は、片方の海を残して埋め立てられ、陸の一部になっていました。


一段上の「三重城」の絵の根元部分の絵です。
陸地と、「三重城」の中間には「臨海寺」と言う寺院があったようで、堤防の途中にある小さな赤瓦の建物のようです。
このお寺も人々が、送迎をする場所だったようです。

中央に見える大きな帆船へ小舟で向かう様子が描かれています。
那覇港から南の先島(宮古島・八重山)、西の中国、北の大和(鹿児島)への航路があったようです。
海上保安庁のサイトには、現在の那覇港の出入り口にも南から「宮古口」「唐口」「倭口」と現在でも歴史的な呼び名が使われていました。



「三重城 (みえぐすく)」周辺の地図です。
赤丸の場所が「三重城」で、堤防が始まった現在の場所は東南方向にある「フェリー発着場」辺りだったようです。
「フェリー発着場」から「三重城」まで測ると約62mでした。



「ロワジールホテル」の裏が「三重城」で、一段高い場所に上る石段があります。
石段の横は、駐車場ですが、奥の方に「水神」と刻まれた石碑が見えます。

港から旅に出る人たちの無事を祈る信仰でしょうか?
すぐ前に車を駐車するのは少し躊躇します。

■石段を上がった右手に案内板があり、転記します。
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参拝者各位へ
三重城は、皆様の安らぎと祈りの聖地です。汚さず、キレイに致しましょう。
 第11管区海上保安本部
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三重城の入口の石段を上がった付近を内側から撮った景色です。
石段を上がった場所に鳥居がありました。

一段上の案内板に「安らぎと祈りの聖地」と書かれており、この鳥居も関連があるようです。

鳥居の向こうに見える建物が「ロワジールホテル」です。
地図でもあるように建物がカーブしています。



階段を上がり、「三重城」へ入るとこの建物があります。
朝7:40頃見学しましたが、ドアから人が出てきて緑の新聞受けから新聞を取り込んでいたのが見えました。
海上保安庁の宿直の人でしょうか。



「三重城」にある「第11管区海上保安本部那覇信号所」の全景です。
いったいどんな信号を扱っているのか分かりませんが、灯台のように施設案内がほしいところです。

■写真に向かって右手に白い案内板があり、転記します。
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利用者の皆様へのお願い
第11管区海上保安本部那覇信号所(三重城)
敷地内は、国有地となっております。当三重城を利用される方は、利用後、ゴミ等を残さず必ず持ち帰るよう御協力お願いします。
第11管区海上保安本部
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階段の付近にあった案内板同様、ゴミの注意が書かれています。
ゴミの投棄に困っているようです。



「第11管区海上保安本部那覇信号所」を過ぎると小さな神社のような建物がありました。
由緒の案内がなく、祀られている神様は分かりません。
那覇港から船出する人達の無事をお願いする神様でしょうか?



海岸の様子です。
コンクリートブロックが三個置かれて、何やらお祈りの場所になっているようでした。
調べてみると、沖縄では旧暦の1月16日に、後生(グソー)の正月「ジュウルクニチー」と言う行事があり、先祖の墓を掃除し、お参りするそうです。
しかし、久米島・宮古島・八重山などの出身者で、この日帰れなかった人達は、ここに来て、故郷の方角に向って祖先の霊を供養するようです。



三角形に並べたブロックにお供えを置き、線香を焚いて祈っているのでしょうか?
コンクリートでブロックを固定しています。
多くの人が競ってお祈りの場所を確保するためでしょうか、史跡が荒らされているようにも思えます。



海岸に近い別の場所にも下りていける石段がありました。
石垣の窪みに灰があり、たき火をしているような感じでした。
香炉も置いてあります。

「三重城」跡をめぐりましたが、石垣跡はあるものの昔の面影はほとんど想像できませんでした。

「三重城」は、「史跡」としての管理面では海上保安庁の管理では歴史的遺産をしっかりと管理する体制とは思えず、改善が期待されます。



南の対岸を見た景色です。
現在は、アメリカ軍の基地になっているようです。

この辺りにも「三重城」と対をなす「屋良座森城(やらざむいぐすく)」があったようですが、沖縄戦で破壊され、周辺も埋め立てられて面影は見当たりません。

1554年に造られたとされる「屋良座森城」は、南からの防波堤の先端にあり、「三重城」の「北砲台」に対して、「屋良座森城」は、「南砲台」と呼ばれていたようです。

秘境の神社? 大名口参道からの「末吉宮」参拝

2008年07月27日 | 沖縄の旅
4月の沖縄旅行の思い出を続けています。


「末吉宮」は、首里城から北北西へ約1.5Kmの位置にあり、末吉公園に含まれる緑に囲まれた神社です。
地図にある赤い丸印が「末吉宮 大名口参道」の入口です。
ゆいレールに面した末吉公園の入口からの道もありますが、近道を選びました。

分かりにくい道でしたが、レンタカーのカーナビをたよりに参道入り口にたどり着きました。



白い門柱のある所が「末吉宮 大名口参道」の入口です。

大名口参道の前の道は道幅があり、駐車禁止ではないようで、路上駐車が両側に並んでいました。

■参道に入るとすぐ右手に神社の案内板があり転記します。
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末吉宮御由緒
 主祭神 伊弉冉尊[イザナミノミコト]
       速玉男神[ハヤタマヲノミコト]
       事解男神[コトサカヲノミコト]
        旧称 熊野三所権現ノ神 (現称 熊野三宮ノ神)

 別鎮斎 ●土祖神[ツチミオヤカミ]・澳津彦命[オクツヒコノミコト]
        ・澳津姫命[オクツヒメノミコト]
        (通称 竈神[カマドノカミ]・火神[ヒヌカン])
       ●産土神[ウブスナノカミ]

 末 社  地神・荒神(宮の脇、洞窟)

<御 由 来>  末吉宮は、王朝官社時代の琉球八社の一社で、俗に「社壇」「首里社壇」などと
           称され、史料では尚泰久王の時代(1456年頃)天界寺鶴翁和尚が熊野三所権現
           を勧請して祀ったという。
           お宮は、本殿・拝殿・祭場からなり、拝殿は大正二年に倒失、大小二つの岩山を
           結ぶ独特の磴道(石造階段)全体と本殿は、昭和十一年、旧国宝に指定された。
           (先の大戦で罹災、昭和四十七年復元)
           周辺はイベ、拝所が多く、古くから一大聖地を形成し、霊場として朝野の信仰を
           あつめてきた様子が偲ばれる。

<王の御参詣> 正月・五月・九月・十二月(宮籠り)
           代理社参元旦、正月十五日

<御 神 徳>  国家守護・国泰民安・五穀豊穣
           一般には子方[ニーヌファ]の神(事始の神)、学業・技芸成就、縁結び(ヤハンメー)、
           子孫繁栄の神として親しまれる。

<文 化 財>  「末吉宮磴道」、県指定文化財(旧国宝)
           「末吉宮跡」(全域)、国指定文化財・記念物・史跡

<例   祭>  十一月二十三日
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「大名口参道」に入ると向こうに木々が生い茂る林が広がり、石段を上って行く道になっていました。
よく見ると道端に植えられた花の他、見慣れない野草の花々が咲いていました。



石段を登って突き当りの道を右手に曲った所です。
向こうに赤い建物が見えてきました。「末吉宮」のようです。

向って右にノアサガオ(野朝顔)の青紫の花が見えます。



「末吉宮」に近づいてきました。
見えている建物は、「末吉宮」の本殿のようで、写真に向って左に拝殿の屋根が見えています。

道の先は谷になっており、「末吉宮」には直進出来ません。



突然、道が途切れたと思ったら断崖を下る階段がありました。
下を見るとかなりの高さがあり、実にスリルのある参道でした。



断崖を下りて振り返った景色です。
写真には見えていませんが、なだらかな中央の階段から右手に曲がると急な石段があります。

大きなガジュマルの木が、山の上から長い根を谷底まで伸ばし、さらに地面を這って根を広げています。
聖地を演出する迫力のある神木のようでした。

とにかく、秘境を歩いている気分になります。



山に沿ってやや右に進むと「末吉宮」の建物の下に出ました。

秘境の中で、突然目の前に高くそびえ立つ神社が現れたような驚きを感じました。

急な山の斜面に拝殿が造られ、石垣と長い柱で支えられています。
赤い建物と石垣の配色が、柱の黒い色で引締まっている感じです。

石垣の下にアーチ型のトンネルが造られています。



アーチ型のトンネルをくぐって反対側から見た景色です。
参道入口の案内板に「大小二つの岩山を結ぶ独特の磴道(石造階段)」とありましたが、まさにこの左右の岩山と、間の石垣のようです。

「磴道」は、唐時代の漢詩でも使われている言葉ですが、日本でも稀に使われているようです。
辞書では見つかりませんでしたが、使用例から考え、やはり「石造階段」の意味のようです。



社務所と思われる建物がありましたが、無人でした。
この社務所の前を向かって右に進む道があり、末吉公園から来る道のようです。

社務所の手前に見慣れない丸い柱が立っていました。
寄付をした方の名が書かれているようです。

■社務所に向かってすぐ左に史跡の案内板があり、転記します。
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史跡 末吉宮跡
 昭和47年5月15日国指定
末吉宮は「末吉社壇」の名で沖縄県民に親しまれたお宮で、室町時代中期に建立されたものです。波上、沖、安里八幡、識名、普天、金武、天久と共に琉球八社の一つにあげられている。近くの万寿寺(現遍照寺)の鎮守として熊野権現を祀ってあります。本殿は沖縄の地方色をよくあらわしている三間社流造本殿として昭和11年、国宝に指定されましたが、第二次大戦で砲撃を受け、建物の礎石と柱日本と虹梁(頭貫)を残したのみで飛散しました。現在の建物はこれら残った礎石と資材を基に昭和47年に復元修理をしたものです。
なお、この地域で許可を得ることなく現状を変更し、又は保存に影響を及ぼす行為をすることは、法律によって禁じられています。
  文部省 沖縄県
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社務所と、トンネルの間に拝殿の正面に昇って行く石段があります。

階段や、石垣の様子は、まるでグスクの雰囲気です。



祭場の奥から拝殿を正面から撮った写真です。

一段上の写真の石段と、この石段を合わせた「磴道(とうどう)」は、36段あるそうです。

参道入口の案内板に「末吉宮」について、「天界寺鶴翁和尚が、熊野三所権現を勧請」 とあります。
「天界寺」は、琉球王朝時代の三大寺院とされ、正月3日に王が「円覚寺」「 天王寺」「 天界寺」に参詣する慣わしがあったようです。
今でも「首里文化祭」には「古式行列」として再現されているようです。

「 天界寺」は、臨済宗の寺院で、首里城前の信号のある交差点横の管理センター辺りにあったと言われています。



末吉宮の拝殿の後ろに一段高く、本殿が少し見えています。
向って右に見える木は、断崖の下から見上げたガジュマルのようです。

神社とは言え、社叢には沖縄古来の御嶽の雰囲気、建物は中国の文化を感じます。

社務所横の案内板にもある「琉球八社」の内、七社は熊野権現を祀った神社と言われています。
特に「末吉宮」は、「熊野速玉大社」に、「識名宮」は「熊野本宮大社」に、「普天満宮」は「熊野那智大社」とそれぞれが熊野三山に結び付けられていたようです。

琉球王朝時代の街道「当山の石畳道」

2008年07月24日 | 沖縄の旅
「浦添グスク」を後にして近くの「当山(とうやま)の石畳道」を見に行きました。
「当山の石畳道」の南端は、浦添市当山1丁目20付近にあり、「浦添大公園」に含まれているようです。


「当山の石畳道」の南側の入り口です。
向かって右に下りて行く坂で、歩行者専用の道でした。
入り口のすぐ横に未舗装の駐車スペースがあり、駐車できました。(事前情報にナシ)

この入口から最初に真直ぐ下る約20mの坂道は、非常に急な傾斜です。
「馬がころぶほどの急坂」と案内板に書かれていましたが、納得です。


「当山の石畳道」周辺の地図です。
牧港川(まきみなとがわ)が流れる谷間を横断する二つの赤い丸印を結ぶ道が、「当山の石畳道」です。

南には「浦添グスク」の山が見え、その中腹には「浦添ようどれ」があります。



最初の急な坂道を過ぎ、道が左にカーブした場所です。
敷石の間に草が生え、石の表面に踏み続けられた年代が感じられます。

なつかしさ、すがすがしさを感じて散策できる道でした。

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■「当山の石畳道」の案内板があり、転記します。
浦添市指定文化財 「史跡 当山の石畳道」
琉球王国時代に王府は、首里城と各間切の番所(地方の役所)を結ぶ宿道を、川には橋をかけ、坂は石畳道に整備しました。この道は、首里城から浦添間切番所をとおって宜野湾間切番所にいたるいわゆる普天間街道で、牧港川の谷間に幅4.5m、長さ約200mの石畳道が残っています。
馬がころぶほどの急坂で「馬ドゥケーラシ」と呼ばれていました。この道を通って、国王は普天間宮に参詣し、また各間切の年貢が首里城へ運ばれました。宜野湾間切が新設された17世紀後半頃に整備されたと考えられていますが、橋は大正時代に改築されました。
 昭和59年3月1日指定
 浦添市教育委員会
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道の向こうに「当山橋」が見えてきました。

向って左に石垣に囲まれた広場には屋根のある休憩所があります。
公園的な施設のようでした。

琉球王朝時代、沖縄のほぼ全域に間切(まぎり)と言う行政区域(現代の市町村)があり、各間切には番所(ばんしょ)と言う役所が置かれていたようです。
首里城から、各地の間切の番所は、「宿道(すくみち)」という街道で結ばれ、宿次(しゅくつぎ)と呼ばれる早馬などによる情報伝達のしくみがあったようです。



「当山橋」に近づくと、敷石が少し大き目になっています。
「当山の石畳道」は、橋を渡って右に続いています。

橋を渡った突当りにも石垣に囲まれた広場がありました。
突当りを左に進むと「浦添大公園」の中央部に続いているようです。



「当山橋」に近づいて見ました。
牧港川をまたぐアーチ型の石組や、橋の欄干などの造りには素朴さが感じられます。

「当山橋」は、長さ約6m、幅2.7mの大きさで、かっては木の橋だったものを大正時代に石橋に改築したようです。
その後、石橋は沖縄戦で大きな被害もなく今日まで残ったようです。



「当山橋」を渡り、振り返ってみた景色です。
向かって右手に石垣で囲まれた一段高い場所に広場があります。

手前に見える石碑には「普天間街道」と書かれていました。
このあたりの道は、首里城から宜野湾間切にある「普天間宮」への参拝の道でもあったようです。

「普天間宮」は、王府から特別の扱いを受けた「琉球八社」と言われる神社のひとつで、15世紀中頃に古来からの御嶽に熊野権現を合祀したと言われています。

「琉球八社」は、金武宮(金武町)、普天満宮(宜野湾市)、末吉宮・安里八幡宮・天久宮・識名宮・沖宮(以上那覇市)とあります。八幡神が、祀られている安里八幡宮以外は、熊野権現を祀っているようです。



「当山の石畳道」北端への最後の坂道の景色です。
何の花かわかりませんが、道端に赤い花が咲いていました。



「当山の石畳道」の北側の出口にたどり着きました。
突当りの建物に「田場商店」の看板が見えます。

出口は、十字路になっていて、「田場商店」の前を通り、真直ぐ北に歩くと住宅街が続いているようでした。
東に向かう道の先には当山小学校がありましたが、休日のため静かでした。



「当山の石畳道」の北側の入り口です。
南側入り口と同様に車止めが立っています。

陽射の強い日でしたが、所々にある木陰の道にはさわやかな風がながれ、気持のよい散策ができました。



「当山の石畳道」の北側の入り口から高く積上げられた「浦添ようどれ」の石垣が見えます。
山頂に近い目立つ場所で、付近からも遥拝できるよう考えられたのかも知れません。

浦添グスクにある御嶽「ディーグガマ」

2008年07月21日 | 沖縄の旅

浦添グスクの中をを進むと木々に囲まれた御嶽「ディーグガマ」があります。
「ディーグガマ」は、丸い窪地にある御嶽で、下りて行く石段があります。

■上の写真に白い案内板があり、説明文を転記します。
「ディーグガマ」
浦添グスク内の御嶽(拝所)の一つ。「琉球由来記」にある渡嘉敷嶽(とかしきたき)とされ、「渡嘉敷」は浦添の古い地名と考えられている。
かって大きなデイゴの大樹があったことから、ディーグガマと呼ばれるようになったという(ガマは洞穴のこと)。



ディーグガマの横にあった「浦和の塔」です。
一段上の写真の向って左側にあります。

■又、一段上の写真に向って右側にブルーの案内板があり、「浦和の塔」の説明がありましたので転記します。
「浦和の塔」
浦和の塔は、沖縄戦で散華した人々ほ祀る慰霊の塔です。
1952年に市民の浄財と本土土建会社の協力によって建立されたもので、納骨堂には浦添城跡を中心に市内各地で散華した軍人や民間人5,000人全柱安置されており市では毎年10月には、慰霊祭を催し英霊を慰めています。
 浦添市役所



コンクリートの階段を下りた「ディーグガマ」の景色です。
一段下に降りて見るとなぜか落ち着いた気持ちになります。



「浦和の塔」の真下に深い洞窟(ガマ)があり、中は納骨堂になっているようです。
急な階段があり、下りていけるようになっていました。



「浦和の塔」の真下の「納骨堂」を見下ろした様子です。
3m以上の深さはあるようでした。


「納骨堂」の洞窟(ガマ)入口の横に石碑がありました。
ここにも「浦和の塔」について書かれています。


丸い窪地の中央付近にタマゴのような形の石が立っています。
台座には、「地蔵菩薩」と書かれていました。

正面突当り付近に真四角のオリのように見えるのが「御嶽」(拝所)のようです。



「ディーグガマ」の中に「浦添王子遺跡」と刻まれた石碑がありました。
「浦添王子遺跡」は、どんな遺跡かまったくわかりません。

「浦添王子」と言えば、第二尚氏王朝三代尚真王の長男だった浦添王子朝満(あさまん)=尚維衡(しょう いこう)を思い出します。
四代目の王となれず、廃嫡され浦添城に住み、曾孫の尚寧が七代の王となった歴史があります。

この「ディーグガマ」にある施設、「御嶽」「浦添王子遺跡」「納骨堂」等を見渡すと沖縄独特の精神文化を感じます。



「和光地蔵尊」と書かれた石仏がありました。
沖縄戦の慰霊と思われます。

浦添グスクないには沖縄戦の慰霊碑と思える石碑が数多くありました。

「浦添」は琉球王都「首里」の原型だった

2008年07月17日 | 沖縄の旅
「伊波普猷の墓」にお参りの後、浦添グスクを散策をしました。

「浦添グスク」は、首里城から北北東約4Kmの位置にあり、琉球王朝の英祖王統(1260~1350年 5代 約90年)、察度王統(1350~1405年 2代 約56年)の王宮があったグスクと言われています。



「浦添グスク」の駐車場近くの案内板に書かれていた地図です。
グスクの石垣は、沖縄戦で破壊されましたが、長期間かけて修復を行う計画のようです。

■案内地図の横にあった説明板を転記します。
国指定 浦添城跡(うらそえじょうあと)
平成元年八月十一日指定
浦添グスクは首里城以前の中山(ちゅうざん)王城として知られています。
発掘調査から、十四世紀頃の浦添グスクは、高麗系瓦(こうらいけいかわら)ぶきの正殿(せいでん)を中心に、堀や石積み城壁で囲まれた巨大なグスクで、周辺には王陵・寺院・大きな池・有力者の屋敷・集落などがあったと考えられています。のちの王都首里の原形がここでできあがっていたようです。
王都が首里に移された後、浦添グスクは荒廃しますが、一五〇〇年頃から一六〇九年の薩摩藩の侵攻までは浦添家の居館(きょかん)となりました。
去る沖縄戦では、日米両軍の激しい戦闘により、戦前まで残っていた城壁も大部分が破壊されましたが、これまでの発掘調査によって、石積み城壁の基礎や、敷石遺構、建物跡などが良好に残っていることが確認されています。浦添市では現在、史跡浦添城跡復元整備事業を進めているところです。



「浦添グスク・ようどれ館」のビデオ放送で見た浦添グスクの空からの全景です。
ほぼ南から撮られています。

細長い高台に「浦添グスク」が造られ、最近の発掘調査で、広い範囲に石垣が発見され、首里城や、今帰仁グスクに並ぶ大規模なグスクだったことが分かったそうです。

又、「浦添グスク」の周辺には集落跡、屋敷跡、池などが発掘されており、首里城とその周辺で構成される王都の原型があったと考えられています。

近年、「浦添グスク」の周辺では14~16世紀の遺跡が発掘されています。
「当山東原(とうやまあがりばる)遺跡」(豪族の屋敷跡)の他、「浦添原(うらそえばる)遺跡」(集落跡)、「仲間後原(なかまくしばる)遺跡」(屋敷跡)などです。
又、「イユグムイ(魚小堀)」という池の跡が確認され、首里城の近くの「龍潭池(りゅうたんいけ)の原型だった可能性もあるようです。



日の出・日の入りの方角が、年間で最も南寄りになる冬至の日には、首里城や、浦添城から「久高島」から上る太陽が見えるそうです。
上の地図は、首里城・浦添城・斎場御嶽・久高島の位置関係を描いてみました。

「久高島」は、沖縄創生神話の女神アマミキヨが初めて沖縄に上陸した所で、島にある「クボー御嶽」は沖縄最高の聖地と言われています。

沖縄では古くから「太陽は、東の穴から出て、西の穴に入る」と考えられ、「久高島」は、「太陽(てだ)の穴」に最も近い島とされていたようです。
又、祖霊のいる楽土「ニライカナイ」は、辰巳(東南)の方角にある久高島の彼方にあると信じられており、太陽(てだ)の穴は、その「ニライカナイ」にあるものとされていたようです。

琉球歴代の王たちは、テダコ(太陽の子)と呼ばれ、浦添グスクの位置は、宗教的にも重要な場所だったようです。

古代日本(大和)の太陽信仰とのつながりを感じます。



「浦添グスク」北側の断崖の城壁だったと思われる石垣です。
青いシートが掛けられており、修復工事中でしょうか?



爆撃で破壊されたのでしょうか、城壁の痕跡はありません。



ここも断崖の上で、城壁の修復が待たれます。



「浦添グスク」内の道を進むと城壁が修復されている場所がありました。
真新しい石が積まれていました。



「浦添グスク」内の道端に木の根が網のように地面に広がっていました。



「浦添グスク」から北側に「牧港」が見えます。
王都が首里に遷されるまでは「牧港」が、貿易港「那覇」と同様の機能を果たしていたものと推察されます。

浦添グスクに「おもろと沖縄学の父 伊波普猷」の墓

2008年07月12日 | 沖縄の旅
「浦添ようどれ」の次に「浦添グスク」の中にある「伊波普猷の墓」にお参りしてきました。


浦添城(グスク)の駐車場の近くにある案内板です。



案内板の見取り図を拡大したものです。
「現在地」から「浦添ようどれ」に曲がらず、直進すると右手に「伊波普猷の墓」があります。



浦添グスクの遊歩道を進むと、右手に「伊波普猷の墓」の案内板が立っています。
この案内板に沿って右に入ると墓のある広場があります。
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■「伊波普猷の墓」の案内板の説明文を転記します。
伊波普猷(いは ふゆう)の墓
伊波普猷は、明治9年(1876)に那覇に生まれました。沖縄尋常中学(首里高校の前身)を退学処分された後、本土に渡り三高(後の京都大学)から東京帝国大学に進んで言語学を修めました。東大在学中から、浦添が首里以前の古都であったことを最初に論じた「浦添考」なと、すぐれた論文を発表しています。
帰郷して県立図書館長となった伊波は、歴史研究のかたわら、琉球処分後の沖縄差別で自信を失った県民に自信と誇りを回復する啓蒙活動を行います。大正15年に再び上京しますが、戦争で米軍に占領された沖縄の行く末案じつつ東京で亡くなりました。その後、伊波の研究にゆかりの深い浦添の地に墓が作られ、永遠の深い眠りについています。
 浦添市教育委員会
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「伊波普猷の墓」と、顕彰碑がありました。
お墓の正面にはヒンプンのような石の壁がありました。

お墓の後ろは小高く土地が盛り上がり、横穴式古墳を想像しました。



顕彰碑です。
「おもろと沖縄学の父 伊波普猷」と刻まれていました。
一見、文字はこれだけと思ってしまいますたが、よく見ると少し小さい文字がたくさん刻まれています。

「おもろ」とは「おもろさうし」のことで、16~17世紀にかけて琉球王朝(第二尚氏王朝)が編纂した歌集で、沖縄の古い歌謡によりその時代を知る手がかりになるようです。

沖縄県尋常中学校時代、師であった田島利三郎の影響を受けて「おもろ」の研究を始めた「伊波普猷」のその後の人生は波乱に満ちたものだったようです。



友人で、歴史家の東恩納寛惇(ひがしおんな かんじゅん)が「伊波普猷」を讃えた言葉が刻まれていました。

彼ほど沖縄を識った人はいない
彼ほど沖縄を愛した人はいない
彼ほど沖縄を憂えた人はいない
彼は識ったが為に愛し、愛したために憂えた
彼は学者であり愛郷者であり予言者でもあった



上の文字とは別に、下の方にこんな文字が刻まれています。
向って右下の文字は、「伊波普猷」の生年月日と、亡くなった日のようです。

向って左の文字はよく読めません。
顕彰碑の建立に関係する日などでしょうか?



「伊波普猷」のお墓です。
小さな花が供えられています。

「伊波普猷」は、東京帝国大学で当時大学の助手であった鳥居龍蔵(とりい・りゅうぞう)と知合い、意気投合して沖縄諸島の調査を手伝ったようです。

日露戦争が始まった1904年6~7月、鳥居龍蔵は、沖縄本島や、八重山諸島を調査したようです。調査の結果、チヌヒンチヤ貝塚(沖縄県うるま市石川伊波座武次原=現在「伊波貝塚」)などを発掘、八重山では川平貝塚などを発掘しているようです。
短期間にこれらの偉業が実現できたのは「伊波普猷」の協力が大きかったものと推察されます。

今年春、鳥居龍蔵の足跡を見に「徳島県立鳥居記念博物館」へ行きました。
多くの展示物があり、感激しながらデジカメで撮影してきました。
またの機会に掲載したいと思います。

再現された「浦添ようどれ」№4 英祖王の墓室

2008年07月08日 | 沖縄の旅

写真は、「浦添グスク・ようどれ館」です。
入館料は100円ですが、「浦添ようどれ」の洞窟の墓、西室(英祖王陵)が再現され、遺物・資料の展示、歴史の紹介ビデオなどもあり、じっくりと見学したいスポットです。

年配の係りの方に「浦添ようどれ」までの道を尋ねたら親切に教えて頂きました。
写真に向かって右に駐車場があります。

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■「浦添グスク・ようどれ館」のパンフレットの案内文です。
古写真や発掘調査成果のパネル、出土遺物などから浦添グスクし浦添ようどれの歴史がわかりやすく学べます。
実物大で再現されたようどれの西室(英祖王陵)は必見!
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ようどれの西室(英祖王陵)内部の見取り図です。
現在では漆喰で塗り固められ入ることはできませんが、ここでは再現された部屋の入り口付近に見取り図が展示されていました。

西室(英祖王陵)の主室には三つの石厨子が安置されています。
図に向かって右下に奥室がありますが、何のための部屋か確認できませんでした。

広さは約50㎡、天井は高いところで3.6mあります。

図の下に「入口」とありますが、実物にあるものではなく、展示室からの入り口になります。



一段上の図で、下側の入口付近から三つの石厨子を撮った写真です。
3号石厨子は、蓋が外されています。

向って左の壁にはアーチ型の墓口が見えます。



上の見取り図にある奥室の入口付近の様子です。

入口の前が、一段高くなって、石厨子の蓋が置かれています。
蓋を外された3号石厨子のものと思われます。



1号石厨子を斜め前方から見た様子です。
角の付近が破損していますが、大きさや、側面の彫刻が最も美しく見えました。
英祖王が安置されている石厨子だそうです。



1号石厨子の側面を正面から見た様子です。
5体の美しい仏像が並び、沖縄最古の仏像だそうです。
その下の段にライオンと思われる動物の彫像が見えますが、もしかして、これが沖縄のシーサーの始まりかも知れませんね。

ちなみに沖縄最古のシーサーは、1689年に作られたと言われる「富盛の石彫大獅子」だそうで、2世紀前の彫刻の可能性があるようです。

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■パンフレットにあった説明文を転記します。
「石厨子」
西室(英祖王陵)には建物の形をした3基の石厨子があり、側面には仏像や花、獅子などが細かく浮き彫りにされています。
沖縄に現存する最古の仏像彫刻です。ひとまわり大きい1号石厨子の台座の浮彫には、中国泉州の石彫様式との共通性があります。石厨子がつくられた年代は15世紀前半(尚巴志王代)の可能性が考えられています。
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2号石厨子の側面です。
3体の仏像が彫られており、1号石厨子よりやや短いようです。



2号石厨子の上部を撮った写真です。
蓋のてっぺんにには「宝珠」と思われる丸い飾りがついていますが、そこにも仏像が彫られています。



2号石厨子の屋根の角に付いていた装飾が面白く、写真に収めました。
屋根の角には海亀と思われる彫刻があり、その後ろになにやら得体のしれない動物の彫刻があります。



3号石厨子の側面の写真です。
3体の仏像が見えますが、2号石厨子の彫刻とほぼ同じような構成です。



蓋のない3号石厨子を上から見た様子です。
照明の当った遺骨のレプリカは、極めて本物に近く、感心しました。

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■「浦添グスク・ようどれ館」に展示されていた資料を転記します。
「遺骨の特徴」
各石厨子には成人、未成人、男性・女性の10体以上もの遺骨が納められています。そのうち、復元された成人男性の頭骨(2号石厨子)には、中世日本人の特徴とされる歯槽性突顎(出っ歯)がはっきりと認められます。また、東室(尚寧王陵)の4号石厨子のDNA分析では、母方が中国南部~東南アジア系という王族がいたこともわかりました。
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頂いたパンフレットに掲載されていた東室の様子です。
尚寧王陵は、大きく黒い石厨子に安置されているようです。

「浦添ようどれ 一番庭」の見学№3

2008年07月05日 | 沖縄の旅

上の写真は、前回の案内板にあった案内図の一部です。
今回は、「浦添ようどれ」の王陵のある「一番庭」の様子を書きます。

上の案内図に二つの王陵が並んでいます。
向って左が、「尚寧王陵」、左が「英祖王陵」です。

英祖王(1259-1299年)は、5代続いた英祖王統の初代です。

尚寧王(1564-1620年)は、第2尚氏王統の7代目で、江戸時代の初め、薩摩藩に攻められて降伏し、江戸に連行されて将軍徳川秀忠に謁見したとされています。



「中御門(なーかうじょう)」です。
アーチ型の石造りの門は、かなり厚みのある石塀に造られています。
アーチの周辺の石の組合わせなどには、伝統的な技術が伝えられているものと思われます。



「一番庭」に入り、振り返って「中御門」を見た景色です。

浦添グスクを見上げる断崖から石塀がはじまっています



「中御門(なーかうじょう)」を背にして「一番庭」の突当り方向を見た景色です。
突当たりの石塀も「中御門」のある石塀と似て山側が高く造られています。

写真に向って右側に白い漆喰(しっくい)で固められた二つの王陵が見えます。



中御門(なーかうじょう)から見た一番庭(なー) 昭和9年 撮影:田邊 泰(写真の注釈)
駐車場のそばの大きな案内板にあった「一番庭」の写真です。



「英祖王陵」です。



「尚寧王陵」です。



尚寧王陵のすぐ横に「石獅子」が座っています。
一段上の写真にも、向って左上に小さく見えています。

首をかしげ、ちょっとかわいいシーサーです。


「石獅子」の拡大写真です。
監視カメラが設置され、少し躊躇しましたが、柵の上に立って撮りました。

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■パンフレットにあった説明文を転記します。
「石獅子」
東室(尚寧王陵)の袖石積みには、墓を守るように石獅子が座っています。もとは左右一対でしたが、右側の石獅子は沖縄戦で失われました。
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二つの王陵の入口の中間に小さな石碑があります。
一見、お墓と勘違いしそうです。
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■「浦添グスク・ようどれ館」で頂いたパンフレットの説明文を転記します。
「ようとれのひもん」(極楽山之碑)
尚寧王がようどれを改修工事した記念碑です。(1620年建立)。石碑には、ようどれを立派にしたことや、尚寧が浦添家から国王に迎えられたという内容が記されています。戦後、琉球政府が復元しました。
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この写真は「尚寧王陵」入口に向かって左の山裾の様子です。
写真に向かって左下に小さな屋根のようなものが見えます。

これは、「焚字炉(ふんじゅるー)」と呼ばれ、字を書いた紙を焼く小さな施設で、中国から伝わったようです。

中国では古来、文字には不思議な力が宿るものと信じられており、文字が書かれた紙を捨てたり、粗末に扱うとバチが当たるとされているようです。
文字が書かれた紙は、まとめて「焚字炉」で焼かれていたようです。

日本でも神社・お寺で頂く「護符」は、むやみに捨てないで、お返しして焼却処分されるようです。
「言霊(ことだま)の文化」と言われる日本では、文字より言葉に対して神秘的な力を信じてきたようです。

13世紀末の「英祖王」を偲ぶ、「浦添ようどれ」の見学№2

2008年07月02日 | 沖縄の旅

駐車場から「浦添ようどれ」へ向う途中にあった大きな案内板です。
前回も部分的に掲載しましたが、年表や、戦前の写真などがあり、ずいぶん丁寧な内容になっています。
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■案内板にあった説明文を転記します。
浦添ようどれは琉球王国初期の王の墓で、極楽殿ともいいます。咸淳年間(1265-1274年)に英祖王が築いたといわれ、その後、14世紀後半~15世紀前半に石垣がめくらされました。さらに1620年には、浦添出身の尚寧王が改修し、自らもここに葬られました。
ようどれの頂(現在地)から墓庭へは、まず急坂の石畳道を下り、かってはトンネル状の通路であった暗しん御門を通って二番庭(なー)にでます。そして中御門と呼ばれるアーチ門をくぐり抜けて、墓室のある広い一番庭にいたります。
墓室は、岩盤に大きな横穴を二ヶ所掘り、前面を石積みで塞いだつくりです。西室(向って右側)が英祖王、東室(左側)が尚寧王の墓といわれています。墓室の中には、中国産の石で作られた骨を納めるための石厨子があり、仏像などが巧みに彫刻されています。
去る沖縄戦で、浦添ようどれの石積みは大きく破壊されましたが、戦後、琉球政府によって墓室が修復され、平成12~17年には墓庭の石積が復元されました。
「ようどれ」とは琉球の言葉で夕凪(ゆうなぎ)のことで、「ユードゥリ」と発音します。
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一段上の写真にある案内板の「浦添ようどれ」の見取り図の一部です。
向って右上の道から下り、「前庭」「暗しん御門(くらしんうじょう)」「中御門(なーかうじょう)」と進んでいきます。

石段の道をそのまま下っていく道は、かって琉球最古の寺院「極楽寺」があったと伝わる場所につながっています。

向って左の「中御門」をくぐると広い「一番庭」があり、断崖に掘られた墓がありますが、今回は、「前庭」までを掲載します。



案内板を過ぎると、下り道が始まる所に看板がありました。
いよいよ「浦添ようどれ」に下って行く道のようです。

看板には、「開園 9:00、閉園 18:00」とあり、夜間は、この下り口で、通路をふさぐのかも知れません。



かなり急な斜面に沿って造られた長い石段の坂道を下りて行きました。



下り坂が終わる辺りで、正面に「浦添ようどれ」の石垣と、前庭に上がる階段が見えてきます。

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■銅版に刻まれた碑があったので転記します。
「尚裕氏の浦添ようどれ復元の功績を称える」
琉球王国尚王家の陵墓・浦添ようどれは、国宝候補とされながらも沖縄戦で破壊され、その復元が大きな課題でありました。
浦添ようどれを含む浦添城跡一帯が平成元年に国史跡に指定されたことから、本市が整備を検討していたところ、はからずも尚家第二十二代当主・尚裕氏から、3,629平方メートルの陵墓を浦添市民に無償贈与する意向が伝えられ、平成7年12月19日、贈与契約が交わされました。
尚裕氏の英断をうけて、本市では平成9年から文化庁補助で復元事業に着手し、8年の歳月をかけて、ここに静謐な雰囲気の琉球王陵を蘇らせることができました。尚裕氏は復元完成をまたずして薨去るされましたが、復元された浦添ようどれが再び戦禍にあうことなく、尚裕氏の功績とともに永久に残ることを記念します。
平成17年4月29日
浦添市長 儀間光男
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「前庭」から「暗しん御門」を見た景色です。
沖縄戦で、壊滅的被害を受けた「浦添ようどれ」は、完全には復元できていませんでした。
岩のトンネルを復元するのは困難だったと思われます。

向って左の石柱に戦前の「暗しん御門」の写真が展示されていました。



一段上の写真の案内板に展示されていた昔の「暗しん御門」の写真です。

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■「暗しん御門」の説明文を書きに転記します。
昭和9年頃の暗しん御門    撮影:田邊泰
暗しん御門は、加工した岩盤と石積みでできたトンネル状の通路のことです。薄暗くひんやりとしていて、地下通路をとおつて「あの世」に行くような雰囲気でしたが、沖縄戦で天井の岩盤は崩れてしまいました。
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駐車場から「浦添ようどれ」へ向う途中にあった大きな案内板に戦前の「暗しん御門」の写真が展示されていました。
一段上の写真より手前から撮影したものです。
二段上の写真と比べるとトンネルの上の壁が崩れ去ったことがよく分かります。



「暗しん御門」を過ぎて「二番庭」に出ました。
石段を上り「中御門」をくぐるといよいよ最後の「一番庭」があります。

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■この「二番庭」の下から「金属工房跡」が発掘されたそうで、「浦添グスク・ようどれ館」に「金属工房跡」の写真と、説明書きがありましたので転記します。
「金属工房跡」
二番庭の下から銅製品や鉄製品をつくる作業場の跡がみつかりました。
炭のまざった黒い土の中から、製品をつくったときに出たカス(鉄滓、鍛造剥片、粒状滓)や、鉄や銅を溶かしたり、溶けた金属を注ぐ容器(坩堝または取瓶)、炉に風を送る送風管(鞴の羽口)などが出土しています。
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「中御門」の前の傾斜のある石段は、「勝連グスク」でも見たことがあり、このブログで2007-03-13掲載した「勝連城三の郭の変な階段」に写真があります。
実際に歩いてみると、少し登りにくくい感じでした。(下りはそうでもなかった)

坂道と、階段を組み合わせためずらしい構造ですが、何かねらいがあったのかも知れません。

沖縄本島旅行の1日目は、「浦添ようどれ」の見学 №1

2008年06月28日 | 沖縄の旅
4月9日、数ヶ月前からプランを練っていた2泊3日の沖縄本島の旅行に行きました。
今回は、沖縄本島南部の史跡を中心に観光しました。

10時過ぎに那覇へ到着、レンタカーを借りて那覇市の北、沖縄県浦添市仲間にある史跡、「浦添ようどれ」を目指しました。
これまでの旅行で、行きたくて行けなかったスポットです。
今日は、「浦添ようどれ」の歴史と、概要をまとめましたが、資料の写真や、情報量が多く、数回に分けて掲載を予定しています。



「浦添ようどれ」の外観写真です。
浦添城(グスク)の北斜面に造られた琉球王朝のお墓です。

きちんと面を切揃えた白い琉球石灰岩で築かれた石垣が、とても雄大で、美しい曲線を描いています。
このような石垣の技術は少なくとも700年以上前にあったことがうかがえます。

首里城のそばにも世界遺産となっている王陵「玉陵(たまうどぅん)」がありますが、それより200年以上古い時代に築かれたようです。



14世紀頃の沖縄本島にあった主な城(グスク)と、勢力地図です。
「浦添グスク・ようどれ館」に展示されていた資料「首里城以前の琉球王城」の一部を抜き取ったものです。

1406年、山南の東部の豪族で佐敷按司(地方領主)だった尚巴志が浦添城(グスク)を攻め、中山の察度王朝武寧王を滅ぼしたそうです。
その後尚巴志は、居城を浦添城(グスク)から首里城(グスク)へ移したそうです。



「浦添ようどれ」の入り口付近の案内板に年表が掲載されていました。

「浦添城(グスク)」は、舜天王統から始まり、「浦添ようどれ」は英祖王統から始まっていることがわかります。

「浦添城(グスク)」は、第一尚氏王朝が首里城へ移った後は、第二尚氏王朝の尚維衡(尚真王の長男)が浦添城(グスク)に居を構えた記録があります。
尚維衡は、王位に就くことがありませんでしたが、その曾孫「尚寧」が、七代の王となっています。



「浦添グスク・ようどれ館」に展示されていた「浦添城(グスク)」付近の航空写真です。
向って左上に「浦添グスク・ようどれ館」があり、オレンジ色の線で囲まれた森が「浦添城(グスク)」の領域です。
「浦添ようどれ」は中央のやや上に位置しています。



「浦添グスク・ようどれ館」で上演されていた「浦添城(グスク)」のビデオ画面です。
山上に石垣で囲まれた「浦添城(グスク)」が広がり、手前の斜面に「浦添ようどれ」が見えます。
又、「浦添ようどれ」の下に「伝極楽寺跡」と案内されています。

「極楽寺」は、英祖王が建立した琉球最古の寺院と言われています。
一番上の写真を撮る時に、下に寺院が建っていたような場所があったはずですが、分かりませんでした。
いったいどんなお寺があったのでしょうか?



「浦添ようどれ」の入り口付近の案内板に「浦添ようどれ」の全景のイラスト描かれていました。

向って右に赤い字で「現在地」とあり、案内板と駐車場があります。
向って左に三重の石垣に囲まれた一番庭があり、二つの墓の扉が見えています。
向って右の墓は英祖王の墓、向って左は尚寧王の墓です。



この案内板にあるイラストの向かって右下には、古い絵図の写真が掲示されていました。写真の下の注釈に「仲座久雄収集 (仲座巌氏 提供)」とありました。

断崖の上を見ると沖縄では聖なる木とされる「クバの木」が描かれています。
沖縄の信仰は、祖先の霊を崇めるもので、この王陵でも御嶽でも同様の信仰と思われます。



この写真は、「浦添グスク・ようどれ館」に展示されていたものです。
沖縄戦で壊滅的に破壊された「浦添ようどれ」です。

■写真の説明文を転記します。
「沖縄戦で壊滅した浦添ようどれ」
浦添はさる沖縄戦で激戦地となりました。この戦争で、浦添ようどれのみごとな石積みは跡形もなく破壊されました。
墓室の石積みは、戦後、琉球政府文化財保護委員会によって修理されましたが、墓庭を取り囲む石垣は失われたままでした。



この写真も、「浦添グスク・ようどれ館」に展示されていたものです。

■写真の説明文を転記します。
「浦添ようどれの発掘調査」
平成9年度から浦添ようどれの復元のための発掘調査が行われ、沖縄戦で破壊された石垣が残っていることがわかりました。
また、瓦溜まりや金属工房跡が発見され、西室(英祖王陵)では瓦葺き建物の柱をのせる礎石も見つかり、浦添ようどれの変せんを解明する新たな発見もありました。



「浦添グスク・ようどれ館」で頂いたパンフレットに載っていた「浦添ようどれ」の写真です。
上の沖縄戦で破壊された写真や、発掘調査の写真と対比して見ると見事に修復されたことがよく分かります。

■「浦添グスク・ようどれ館」で頂いたパンフレット説明文を転記します。
「浦添ようどれ」
浦添ようどれは、浦添グスクの北側崖下にある琉球王朝初期の王陵で、咸淳年間(1265-1274年)に英祖王が築いたといわれています。
その後1620年に浦添出身の尚寧王が改修し、王自身もここに葬られました。
岸壁に横穴を掘り墓室とし、中には中国産の石で作られた石厨子があります。
向って右側が英祖王、左側が尚寧王の墓といわれています。
「ようどれ」とは琉球語の夕凪(ゆうなぎ)です。