昔に出会う旅

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尚巴志の時代の「南山城」を想う

2008年08月23日 | 沖縄の旅
糸満ロータリーから約2.5Km東にある糸満市字大里の「南山城」に行きました。
「南山城」は、14世紀頃の沖縄では「三山分立時代」といわれ、北山(今帰仁城)、中山(浦添城)、南山(大里城)に王が分立していたようです。
この南山城は、別名「島尻大里城」といわれ、琉球王朝の正史「中山世譜」によると、1429年に尚巴志によって三山が統一される過程で最後に攻略されたといわれる城です。



かっての「南山城」だったと思われる辺りには、高嶺小学校や、高嶺中学校が出来て、ごく一部の城(グスク)跡が残っているようです。

写真は、高嶺小学校と、高嶺中学校の間の道に面した「南山城」の石垣です。
3カ所の石段があり、向って左に中学校、右奥に小学校があります。



一番奥の石段を上がると鳥居があり、その奥に「南山神社」の拝殿が見えてきます。

■石段を上がるとすぐ右手に「南山城跡」の案内板があり、転記します。
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南山城跡(なんざんじょうせき)
 糸満市教育委員会  平成十三年三月
南山城は琉球三山分立時代(14世紀頃)に栄えたグスクです。南山は明国と交易を盛んに行い、財源を得たり、明文化を移入したりして城を中心に南山文化を築いていました。
15世紀になって中山王尚巴志に滅ぼされるまでの朝貢回数は22回を数えます。
1984年、発掘調査が市教育委員会によって行われ、中国製陶磁器やグスク系土器の他、備前(びぜん)焼きスリ鉢、鉄鏃(てつぞく)、ガラス製勾玉(まがたま)などが出土しています。これらの遺物から南山城は13世紀頃に築かれ、14~15世紀前半が特に栄えていたことが分かりました。
 南山の東方には水豊富な「カデシガー」、北方には源為朝と王の妹との逢引場所だと伝わる「和解森(わだきなー)」があります。
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向って左に「南山神社」の拝殿、その右に神殿があります。
金網のフェンスで囲われていますが、子供たちのイタズラを警戒しているのでしょうか。
フェンスに囲われた神社は、初めてです。



「南山神社」の奥、高嶺小学校に隣接した場所に石垣で造られた小高い場所があり、本土の墓石のような石碑には「南山城跡」と書かれていました。

高嶺小学校の校庭がすぐ隣にあり、沖縄の歴史に登場する「南山城」の雄大さや、重厚なイメージは感じられませんでした。
期待が大きかったためでしょうか?

石段上り口に石で造られた拝所のような場所が見えます。



「南山城跡」と書かれた石碑の奥に気になるいくつかの石があります。
向って左の三つの石や、中央に四角に整えられた石が転がっているのは拝所と思われます。



一段上の写真にある石を拡大したものです。
何やら文字が彫られています。
何とか読める文字は、「奉納 南山?ノ主御? 西銘」ですが、文字が右から左に書かれており、昭和初期以前に彫られたものと思われます。



「南山城跡」の石碑がある場所の横に石で造られた長い施設がありました。
案内板もなく、長い石の箱のようで、前にお供えの台があることからお墓かも知れません。
とにかく初めて見るものですがよく分かりません。



一段上の写真の施設の横に石段があり、上っていきました。



石段を登った辺りの景色で、正面にガジュマルの木が見えます。
この一段高い場所が「一の郭」だったのでしょうか?

写真に向かって左下に道が見えますが、城としては高くなく、小規模です。
この城(グスク)が、堅固で、大型の「浦添城」(中山)、「今帰仁城」(北山)と対抗した「南山城」と言われてもまったく信じられません。



「南山城跡」付近の地図で、等高線は太線の標高50m、その周囲に標高40mの等高線しかなく、周辺の標高差はせいぜい20m程度と思われます。
やはり地形としてはなだらかで、急峻な断崖の上に立つ今帰仁城、浦添城と比較し格が違い過ぎます。

凸型に似た城跡のマークが「南山城跡」で、隣に高嶺小学校(上)、南側に高嶺中学校(下)があります。
赤い丸印は、「嘉手志川(カデシガー)」と呼ばれる泉です。
沖縄の城(グスク)には、井戸がありますが、この泉の水量は桁違いに豊かでした。



沖縄が三山分立時代と言われた時代の勢力分布の地図です。
ここ「南山城」は、別名「島尻大里城」と言われ、最も南にあります。
又、南山エリア(黄色)には東側にもう一つ「島添大里城」があり、大きな勢力をもち、この南山城と勢力を二分していた時代もあったと言われています。

琉球初の正史「中山世鑑」(1650年羽地朝秀編纂)や、次に編纂された「中山世譜」(1701年察鐸が編纂)では、佐敷城の按司(豪族)尚巴志が、最初に①南山を破って南山王となり、その後②中山③北山と攻略したとしています。
後年1725年に察温が編纂した「中山世譜」で、三山の攻略の順が①中山②北山③南山と変えられ、この順が通説となっています。

この資料を確認し、「やはり、ここは本当の南山城ではない!」と感じました。

沖縄最強の強固な城「浦添城」を攻略した佐敷按司「尚巴志」が、その後に今帰仁を居城とする北山王を破り、最後に、本拠地に近く、最も弱そうな南山を攻略する順は常識では考えられないことです。

この南山城が最後まで残っていたとしたら、名目的に残されたものと推察されます。
当時、中国明皇帝から王と認められ臣下となって朝貢(見返りの大きい)ができるのは、王で、その実務を支えるのは那覇の久米村に住む中国人の集団だったと言われています。
南山王となった尚巴志が、中山を攻略した後、父思招を王としたのも三山分立の朝貢貿易体制の維持が、必要だったのではないかと推察しています。

沖縄の英雄「尚巴志(しょうはし)」の生きた時代には疑問や、想像が次々と湧いてきます。



南城市大里にある「大里城」、別名「島添大里城」の地図です。
この城は、太平洋を望む標高約150mの山に造られた城です。
頂上辺りにグスク跡があり、北西の斜面は断崖や、急斜面が続いているようです。
城の面積は、約2万㎡で、4万㎡クラスの今帰仁城、浦添城には及ばないものの周辺の城を威圧する強固な城だったと思われます。

三山分立時代に南山の按司達を従え、最大勢力の中山王に対抗した「南山王」は、こちらの「島添大里按司」だったものと考えられます。

又、この「島添大里城」に隣接する「佐敷城」の按司「尚巴志」が、周辺按司達を巻き込み南山王「島添大里按司」を倒し、南山全域を制圧して南山王となった説には大いに納得するものです。


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