武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

西勝造伝(3)

2013年02月11日 | Weblog
★西医学の真実(3)

 学 問

 先生は外国書を丸善から買う点に於いて、当時徳川義親侯と並び称せられたものである。徳川俣は図書館用のものが多いが、先生のは一冊と雖も飾りにするものはない。直ちに読まれるのである。その読み方もまことに早い。西川医学博士は、昭和の初頃、先生が丸善で九百頁もある部厚い洋書を買い込んで、大阪につくまでの間に読み通し、一々頁をさして内容を批評されたのに眼をまわしているが本の買い方も亦特色がある。丸善の係りの話によると、大抵休みの時間とか退庁後に自動車でやって来て、四五十分間新刊書を物色してかえられる。その物色ぶりも非常に綿密で、今日は生理の棚、明日は医書の棚、明後日は博物の棚、その翌日は又違った棚という風に丹念に調べられる。だから本屋が間違って、例えば、生理の本などを他の棚に入れておくという様な事があると、先生は直ちに発見して本屋の方で恐縮している様な恰好である。大抵電気専門の人は電気の本、動物学の人は動物の本という風であるが、先生は今日医書を買われたかと思うと明日は博物の本、その翌日は心理学の本という様に非常に範囲が広く、あまり例のない買方である。専門によっての本の売行はちがう。医者は不勉強で他の専門に比べて洋書の買方は少いのであるが、先生の医書の買入は圧倒的である。
 先生は地方を廻わられても、一寸暇があれば書店古本屋へ入られる。稀観書などは本屋へたのみ、或は特別な伝手で必ず手に入れられる。アメリカから今後十年位は新刊書稀観書が心配なく届くことになっているという。何分博学で、着眼慧敏故、専門家すら知らぬ珍書秘語を手に入れ、それが又奇想天外の着想を産むのである。

 先生の書籍は七万三千巻。内一万巻は東洋の書籍だという。奥の方の書籍は一杯で床が落ち、奥座敷も十畳の問も堆く積み重ねられた本でやっと通れるが、之も床が落ちそう。縁側から応接間へもつみ重ねられ先ずその辺の図書館などはかなわない。否、おそらく先生の博学を表徴する先生の図書は、その量においては兎角、その質からみた場合、珍書秘籍がかくも豊かにあつめられている図書館は世界にもないでのではいかと思われる。
 犬戦争中、犬切なものはキャビネットに入れて地下に埋められ、一部は浸水のため水びたしになっだけれど、その他に被害のなかったのは幸な事であった。
 ところが先生は、その書籍の中に鎮座して著述や読書に専念されるが、抜粋ノートをたよりに必要の書籍をさぐり出される。
 図書館の様な索引カードのあるわけでない。唯傍若無人に積み重ねられた本ではあるが、先生にとっては正しい場所におかれ、何時でもその欲するままにとり出す事が出来る様におかれてある。それで他人が手をふれるのを好まれぬ。令夫人、令息といえども禁令厳重である。終戦直後であったが、私が家内をつれて訪問の時、生憎先生が不在で令夫人が応接され、四方山の話の折話が本の事になったら夫人の曰く、「何しろゴッタ返しですから大抵自分丈はわ、がる様になっていますけれど、それでもあまり多すぎるので、朝早く他所へ行きます時など本がないかと騒ぐことがあります。私共が一寸でも手をふれるのが大嫌いです。そこでボロボロの本や雑書など時々知らぬ顔してタキツケに燃してしまいます。なに、あの調子ですからチョッとも知らんでいるですよ」と朗らかな令夫人の笑話をきくと、時に先生宅へまぎれ込んだ雑書は令夫人がたいてしまわぬと、その中寝る場所もなくなるだろうと思われる。
 博識と慧敏な着眼の先生によって集められた珍書秘籍は貴重なものであり、今回の大戦争によって失われなかったのは何よりも喜ぶべきことであるが、此の程先生親近のもの達加コンクリート造りの書庫を寄贈し、特に貴重なもののみは此の書庫に所蔵し火難より守る事となった。
 先生が、若き頃より家も借家で鋭意あつめられた書籍は、先生を通じて全世界に光被する人類の真実の智慧の宝庫となっている。 (田中宋太郎「西勝造伝 乾巻」昭和26年)
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 養神館合気道宗家 異変 | トップ | 合気道技法(120) »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事