★隠密調書『土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)』にみる赤穂藩・浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)行状記。元禄三年(1690)頃。
長矩、智有テ利発也。家民ノ仕置モヨロシキ故ニ、士モ百姓モ豊也。女色好事、切也。故ニ奸曲ノ諂イ者、主君ノ好ム所ニ随テ、色能キ婦人ヲ捜シ求テ出ス輩、出頭立身ス。況ヤ、女縁ノ輩、時ヲ得テ禄ヲ貪リ、金銀ニ飽ク者多シ。昼夜閨門ニ有テ戯レ、政道ハ幼少ノ時ヨリ成長ノ今ニ至テ、家老之心ニ任ス。
長矩は智があって利発である。家臣領民の政治もよろしい、故に、士も百姓も豊かである。しかし、女色を好むこと也である。故に、奸曲(かんきょく)のへつらい者が、主君の好むところに随って、色よき婦人を捜し求めて、御側に出すような輩(やから)が、立身出世する。いわんや、長矩の目にとまった女の縁者などは、時を得て、禄をむさぼり、金銀にまみれる者が多い。長矩は、昼夜、閨房(けいぼう)にあって女とたわむれ、政道は幼少の時より成長の今に至るまで、家老(大石内蔵助・藤井又左衛門)の心に任せている。
「謳歌評説」
此将ノ行跡、本文ニ不載。文武之沙汰モナシ。故ニ無評。唯女色ニ耽ルノ難而已ヲ揚タリ。淫乱無道ハ傾国・家滅ノ瑞相、敬ズンバアルベカラズ。前漢書ノ李延年ノ歌ニ、北方有佳人、絶世而独立、一顧傾人城、再顧傾人国、寧不知傾城與傾国、佳人難再得トアル。次、家老ノ仕置モ無心許、若年ノ主君、色ニ耽ルヲ不諫程ノ不忠ノ臣ノ政道無覚束。
この将(長矩)の行跡は本文にない。文武についての話もない。故に、論評はできない。ただ、女色にふけるの難のみを挙げている。淫乱(いんらん)無道は国を傾け、家を滅ぼす前兆である。慎まなければならない。『前漢書』の李延年(りえんねん)の歌に「北方に美人があり。絶世の美女。ひとたび彼女が振り返れば、城が傾く。ふたたび彼女が振り返れば゜、国が傾く。城や国が傾くのはわかるが、美人はふたたび得られない」というのがあるように、女好きは城を傾け、国を傾ける基といえる。次に、家老の政治も心もとない。若年の主君が色にふけるのを諫(いさ)めないほどの不忠の臣(大石内蔵助・藤井又左衛門)の政道だからおぼつかない。 (史料:東京大学史料編纂所所蔵)
『諫懲後正(かんちょうこうせい)』 元禄十四年(1701)春
長矩、文道ヲ不学、武道ヲ好ム。生得小気ニシテ律儀ナリ。尤淳直ニシテ、非義ナシ。家士・民間ヲ憐ムト云ニハ非ズ。国家ノ政道厳シク、仁愛ノ気味ナシ。不奢シテ民ヲ貪リ、軍学儒道ヲ心掛アリ。公勤ヲ不怠、世間ノ出合専ラニテ、其気質ハタバリナク、智恵ナク、短慮ニシテ、行跡宜シト云々。
長矩は文道を学ばず、武道を好む。生まれつき気が小さく、律儀である。しかも淳直(じゅんちょく)な性格で非義はしない。ただ、家士や民間を憐(あわ)れむというわけではない。国家の政道は厳しいだけで、仁愛の気味がない。贅沢はしないが、民からむさぼっている。軍学と儒道の心掛けはあり、公の勤めは怠らない。世間の交際に専心するが、その気質は幅がなく、智恵がなく、短慮である。ただ、行跡はよいといわれている。
「評説」
凡主将ノ可嗜ハ文道ナリ。文ナキ将必ズ所行ニ付テ疎カルベシ。況ヤ、此将文道ナク、智恵ナク、気ノハタバリナク、小気ニシテ律儀ナリト云ヘドモ、短慮ナレバ、後々所行ノ程覚束ナシトナリ。去ドモ長矩、淳直ニシテ、行跡不義ナク、不奢、公勤ヲ重ジ、世間ノ出合宜シクセラレルトナラバ、悪キニ非ズ。先年奥方ノ下女ニ付テ、少々非道ノ沙汰有之、其比専ラ世間ノ唱ヘ不宜、既ニ此家危キ事ナリト批判セシカドモ、何ンナク事治リヌ。元来長矩仁政少キ故、民ヲ貪リ、所行ニモ少々不宜アリシ歟ト云ヘリ。然レバ、此将行末トテモ覚束ナシトナリ。
将の嗜むべきは文道である。文なき将は必ず所行が疎かになる。長矩は文道なく、智恵なく、気質は威張らず、小心にして律儀とはいえ、短慮なれば、後々所行については、おぼつかなくなるだろう。されども、長矩は、淳直(じゅんちょく)にして、日常の行いは義に背くことがない。奢らず、忠誠心を重んじ、世間との付き合いもよいということならば、悪いとはいえない。先年、奥方の下女について、少々、非道のやり方があって、この頃もっぱら世間の聞こえがよくない。すでに、この家は危うきことなりと批判していたが、なんなく事がおさまった。元来、長矩はいい政治が少ないので、領民からむさぼり、所行にも少々よくないことがあるのではないかといえる。そうなれば、長矩の行く末はとても危ぶまれる。
風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせむ 長矩
長矩、智有テ利発也。家民ノ仕置モヨロシキ故ニ、士モ百姓モ豊也。女色好事、切也。故ニ奸曲ノ諂イ者、主君ノ好ム所ニ随テ、色能キ婦人ヲ捜シ求テ出ス輩、出頭立身ス。況ヤ、女縁ノ輩、時ヲ得テ禄ヲ貪リ、金銀ニ飽ク者多シ。昼夜閨門ニ有テ戯レ、政道ハ幼少ノ時ヨリ成長ノ今ニ至テ、家老之心ニ任ス。
長矩は智があって利発である。家臣領民の政治もよろしい、故に、士も百姓も豊かである。しかし、女色を好むこと也である。故に、奸曲(かんきょく)のへつらい者が、主君の好むところに随って、色よき婦人を捜し求めて、御側に出すような輩(やから)が、立身出世する。いわんや、長矩の目にとまった女の縁者などは、時を得て、禄をむさぼり、金銀にまみれる者が多い。長矩は、昼夜、閨房(けいぼう)にあって女とたわむれ、政道は幼少の時より成長の今に至るまで、家老(大石内蔵助・藤井又左衛門)の心に任せている。
「謳歌評説」
此将ノ行跡、本文ニ不載。文武之沙汰モナシ。故ニ無評。唯女色ニ耽ルノ難而已ヲ揚タリ。淫乱無道ハ傾国・家滅ノ瑞相、敬ズンバアルベカラズ。前漢書ノ李延年ノ歌ニ、北方有佳人、絶世而独立、一顧傾人城、再顧傾人国、寧不知傾城與傾国、佳人難再得トアル。次、家老ノ仕置モ無心許、若年ノ主君、色ニ耽ルヲ不諫程ノ不忠ノ臣ノ政道無覚束。
この将(長矩)の行跡は本文にない。文武についての話もない。故に、論評はできない。ただ、女色にふけるの難のみを挙げている。淫乱(いんらん)無道は国を傾け、家を滅ぼす前兆である。慎まなければならない。『前漢書』の李延年(りえんねん)の歌に「北方に美人があり。絶世の美女。ひとたび彼女が振り返れば、城が傾く。ふたたび彼女が振り返れば゜、国が傾く。城や国が傾くのはわかるが、美人はふたたび得られない」というのがあるように、女好きは城を傾け、国を傾ける基といえる。次に、家老の政治も心もとない。若年の主君が色にふけるのを諫(いさ)めないほどの不忠の臣(大石内蔵助・藤井又左衛門)の政道だからおぼつかない。 (史料:東京大学史料編纂所所蔵)
『諫懲後正(かんちょうこうせい)』 元禄十四年(1701)春
長矩、文道ヲ不学、武道ヲ好ム。生得小気ニシテ律儀ナリ。尤淳直ニシテ、非義ナシ。家士・民間ヲ憐ムト云ニハ非ズ。国家ノ政道厳シク、仁愛ノ気味ナシ。不奢シテ民ヲ貪リ、軍学儒道ヲ心掛アリ。公勤ヲ不怠、世間ノ出合専ラニテ、其気質ハタバリナク、智恵ナク、短慮ニシテ、行跡宜シト云々。
長矩は文道を学ばず、武道を好む。生まれつき気が小さく、律儀である。しかも淳直(じゅんちょく)な性格で非義はしない。ただ、家士や民間を憐(あわ)れむというわけではない。国家の政道は厳しいだけで、仁愛の気味がない。贅沢はしないが、民からむさぼっている。軍学と儒道の心掛けはあり、公の勤めは怠らない。世間の交際に専心するが、その気質は幅がなく、智恵がなく、短慮である。ただ、行跡はよいといわれている。
「評説」
凡主将ノ可嗜ハ文道ナリ。文ナキ将必ズ所行ニ付テ疎カルベシ。況ヤ、此将文道ナク、智恵ナク、気ノハタバリナク、小気ニシテ律儀ナリト云ヘドモ、短慮ナレバ、後々所行ノ程覚束ナシトナリ。去ドモ長矩、淳直ニシテ、行跡不義ナク、不奢、公勤ヲ重ジ、世間ノ出合宜シクセラレルトナラバ、悪キニ非ズ。先年奥方ノ下女ニ付テ、少々非道ノ沙汰有之、其比専ラ世間ノ唱ヘ不宜、既ニ此家危キ事ナリト批判セシカドモ、何ンナク事治リヌ。元来長矩仁政少キ故、民ヲ貪リ、所行ニモ少々不宜アリシ歟ト云ヘリ。然レバ、此将行末トテモ覚束ナシトナリ。
将の嗜むべきは文道である。文なき将は必ず所行が疎かになる。長矩は文道なく、智恵なく、気質は威張らず、小心にして律儀とはいえ、短慮なれば、後々所行については、おぼつかなくなるだろう。されども、長矩は、淳直(じゅんちょく)にして、日常の行いは義に背くことがない。奢らず、忠誠心を重んじ、世間との付き合いもよいということならば、悪いとはいえない。先年、奥方の下女について、少々、非道のやり方があって、この頃もっぱら世間の聞こえがよくない。すでに、この家は危うきことなりと批判していたが、なんなく事がおさまった。元来、長矩はいい政治が少ないので、領民からむさぼり、所行にも少々よくないことがあるのではないかといえる。そうなれば、長矩の行く末はとても危ぶまれる。
風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせむ 長矩