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平安京探訪

2023年11月23日 | Weblog
 平安京探訪

 平安時代は、桓武天皇の延暦13年(794)の平安京遷都に始まり、鎌倉幕府成立までの約400年間をいう。

 平安京は、朱雀大路(現在の千本通り)を中心に、東西約4.5㎞、南北約5.5㎞の面積をもっていた。
 大内裏は、東西約1.2㎞、南北約1.4㎞の面積があり、天皇の生活空間である内裏と 官衙(役所)からなっていた。場所は、朱雀大路の二条大路にあった朱雀門の北側(現在の千本通丸太町付近)で、現在、大極殿遺址の石碑が建っている(内野公園内)。
 因みに、明治28年(1895)に平安京建都1100年を記念して、第4回・内国勧業博覧会を期に、桓武天皇を祀る平安神宮の拝殿が大極殿を約3分の2に縮小して復元された。そして、同じくして大極殿の西北にあった武徳殿が平安神宮の西側に建てられたのである。
 平安京の人口は約10万人。そのうち律令官人が約1万人である。
 平安京に住む貴族の屋敷の広さは、三位以上の公卿は一町(約120m四方)。四位・五位は二分の一町である。

 「紫式部日記」によると、紫式部は970年頃、藤原為時の娘として誕生した。学者であり詩人でもある父の影響を受け、兄弟とともに漢籍を学んだ。こうした素養が「源氏物語」の下地になった。
 為時が越前国府(現在の福井県越前市)に越前守として就任の折に同行した。これが紫式部の生涯において、唯一、他国で過ごしたところである。
 990年の春に京に戻り、藤原宣孝と結婚して賢子(のちの大弐三位)を産む。しかし1001年に幼子を残して宣孝が急死する。日々の悲しみを慰めるべく書き始めたものが「源氏物語」だといわれている。
 1005年頃、一条天皇の中宮で藤原道長の娘の彰子のもとに女房として出仕する。女房名として「藤式部」と呼ばれていたようで、「紫式部」は死後の呼称と考えられる。「式部」は父の官名「式部丞」に基づく。

 光源氏の邸宅「二条院」は、母の桐壺更衣より伝領したもので、二条大路の西洞院大路(現在の二条通西洞院北西角)にあった。
 「六条院」は、六条御息所から秋好中宮に伝領したもので、六条大路の万里小路(現在の六条通富小路上る)にあった。通常、貴族の邸宅は一町、すなわち約120m四方である。ところがみの六条院はその4倍の四町である。六条院は、春夏秋冬の四つの町に分け、それぞれの季節に合った趣ある御殿と庭園を造らせた。東南の町「春」は紫の上、東北の町「夏」は花散里、西南の町「秋」は秋好中宮、西北の町は明石の君と、それぞれゆかりの女性たちの住まいとした。ところが、春・夏・秋の町には寝殿造りの邸宅と南側に庭と池があるが、冬の町には寝殿はなく南側の庭には池がない。屋敷は対の屋が二棟あるだけの質素なもので、それと屋敷の北側に数棟の倉が立ち並ぶ一画があるだけである。これは、受領の娘である明石の君の出自と財力を現したものと考えられる。
 「嵯峨」は、嵯峨の清凉寺。
 「宇治」は、平等院あたりにあった。京から宇治までは約20㎞。およそ半日、夜明けに御車で出発、東山の法性寺で御馬に乗り換えて、昼前ごろに到着した。
 源氏物語の注釈書「花鳥余情」では、、源融の宇治院は、のちに陽成院が住み、宇多上皇、六条左大臣の源雅信を経て、藤原道長が所有し、頼道の代になって平等院になったとする。

 「源氏物語」の舞台となるのは内裏と貴族の邸宅である。左京の四条以北に貴族の邸宅が集中しており、登場人物の邸宅も、一条から三条に多く設定されている。
 平安京の町割りで、いまに残る通り名は、
 南北の通り。北から一条通、近衛通、二条通、押小路通、姉小路通、三条通、六角通、錦小路通、四条通、綾小路通、高辻通、五条通、六条通、七条通、塩小路通、梅小路通、八条通、九条通。
 東西の通り。東から富小路通、高倉通、東洞院通、烏丸通、室町通、西洞院通、油小路通、堀川通、猪熊通、大宮通、壬生通、坊城通、馬代通、木辻通、西京極通。

 紫式部のお墓は、北区紫野の堀川通北大路下る西側にひっそりと佇む。

資料:宇治市源氏物語ミュージアム館長・家塚智子「源氏物語に誘われて」講演記録
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