瀬崎祐の本棚

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詩集「夜明けの月が」 小柳玲子 (2019/07) 空とぶキリン社

2019-07-12 20:39:07 | 詩集
 第14詩集。77頁に17編を収める。
 詩誌「みらいおん」に載っていた作者の作品の感想に、「こちらにいながら西側とのあわいに身を溶けこませようとしているようだ」と書いた。この詩集の作品もそのようで、「黒い家」は借りた古いアパートに(ボクだよ)が住んでいたお話であるし、「夜回り」では黒い家から軍服姿の男が夜回りに出てくる。
 「夢びと」では黒い、しかし私の家ではない家に「私のようなものがうようよと群れている気配」がするのだ。そして「わたしはコヤナギ あなたはだあれ」と尋ねてくるのだ。

   (略)なんでもないからっぽのものが好き
   からっぽの馬鹿げて無駄なところへいくところ
   裸足で 老いぼれて ひとりぼっちで
   一緒にいこうよ

 それにしても、どうして逝ってしまった人の思い出はこんなにも切ないのだろうと、しみじみ感じさせられる。 後半の作品には逝った人の具体的な名前も出てくる。石原吉郎、北村太郎、那珂太郎、などなど。

 「沼の家」では、若い頃の私の背後から澤村光博さんが引き戸を開いて入ってくる。そこにいるのは、詩誌の投稿欄の選者を一緒にした頃の私らしいのだ。その頃には作者には軽く跳ねているような日々があったのだろう。

   せめて澤村さんにお礼を言おうと 年老いた私はバラックの部屋を
   覗いているが 困ったことに老いた私はしゃがみこみ 靴の紐を結
   んでいるのだった 若い私はとうに消えていて 澤村さんの古い詩
   句を口ずさもうとしているのだった

 その時はなんでもなく通りすぎたようなことでも、今になれば改めて気づく意味もあるのだろう。作品には村嶋正浩、故・相生葉留美ご夫妻の名前も出てくる(私(瀬崎)が学生だった頃にお会いした相生さんが自分のお名前を、これ本名なのよ、宝塚みたいでしょ、と言われたことをなんの脈絡もなく覚えている)。最終部分は「賑やかなさざめきの中で 私は笑いながらひとり 沼/の家に眠っている」。

 「支路遺耕治の詩集に躓き」。作者は「とても暗い顔をした青年」だった支路遺耕治には一度だけ会ったとのこと。私(瀬崎)が学生だった頃に彼は関西のスターだった。後年になって、支路遺さんが病床に伏せっている、いつどうなるか判らない状態なので今のうちにお見舞いに行きませんかと、これも今はもう亡くなった女友達に誘われたことがあった(彼女は薄汚く狭い私の下宿に金石稔を連れてきたりした人物だ)。しかし実は私は支路遺氏には一面識もなかったので断ったのだった。閑話休題。この作品の最後は、

   もう身罷って久しい支路遺耕治。もう一度くらい、きれいな朝にで
   も私を訪ねてください。私の時間は無くなろうとしている。

 「あとがき」で「私の最後の詩集となります」とあったが、そんな宣言はあっさりと踏みにじって欲しいものだ。
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みらいらん 4号 (2019/07) 神奈川

2019-07-09 17:38:54 | 「ま行」で始まる詩誌
 「洪水」が終刊となった後、池田康が編集発行している192頁の詩誌。

 今号の特集は「田村隆一」で、吉増剛造と城戸朱理の対談「彗星のように回帰する火」が中心になっている。田村隆一を読む上での戦争体験、アメリカ体験の重さが伝わってくるものだった。
 新倉俊一、田野倉康一など8人のエッセイも載っているのだが、八木忠栄が、もう時効だろう、ということで書いている「田村隆一の〈作品〉を離れて」はすこぶる愉快だった。

 その他の記事としては、巻頭詩に小柳玲子「握り飯」。
 部屋に入ると、誰だったかは思い出せない彼がいたのだ。一個しかない握り飯を勧めるがいらないと言われてほっとしている。「そうかそうか あんたはもう要らない人だったっけ」なのだ。もちろん西側から来た人なのだろう。

   答えはなかった
   それはあたりまえなんだ
   彼はどこにもいないのだし
   私はただ誰でもない人でもいいので
   喋ってみたかったのだ
   そうやって夜は深くなっていくのだった

 飄々としていて、それでもどこか人恋しがっている。こちらにいながら西側とのあわいに身を溶けこませようとしているようだ。

 対談としては野村喜和夫、福田拓也「『安藤元雄詩集集成』をめぐって」も載っていた。今年は2回も安藤氏の講演を聴いていたので、興味も深かった。

 終わり近くに「poemuseum」というコーナーがある。これは、池田が惹かれたという他誌掲載の作品を転載するもの。冨上芳秀、北川朱実、吉田義昭各氏の作品とともに、私の「泳ぐ男」が「ERA」から転載されていた。拙作がいろいろな人に読んでもらえる機会が増えるのは嬉しい。
 
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詩集「約束」 葉山美玖 (2019/07) コールサック社

2019-07-07 12:57:02 | 詩集
第3詩集。127頁に32編を収める。鈴木比佐雄の解説が付いている。
この詩集の作品には、作者のこれまでの自分、今の自分が飾らずに投げ出されている。それは自分をどのように認識して生きてきたかという道程の記録でもある。

 句読点なしにびっしりと性急な感じで提示される散文詩「収穫祭」は、その基調を伝える。

   もともとその頃なにかに失敗すると母親に納戸に連れ込まれてお仕置きに悪戯されて
   いたからそんなことかとおもって泣きもしなかったらなお怖い目でにらまれたわたし
   はまだ産まれていない母親は料理を作ってどんとならべて夜はてきとうにふとんをひ
   くだけだったから弟とふたりで適当にその辺で寝た

 もちろん書かれた事柄が事実である必要はないのだが、少なくともそこには作者がこのように書かなければならなかった家族環境や親子関係があり、そのなかで作者は育ってきたのだ。前詩集「スパイラル」でまとっていた寓話のような意匠を取り払ってもいる。それだけ作者が強くなったということかも知れない。

後半に収められた「成長」は、家族関係の呪縛から抜けだして新しい人間関係のなかで生き始めている話者がいる。あなたが背筋をしゃんとしてくれて、スーパーマーケットで疵のないアボガドを買い、LINEでのメッセージも届くのだ。

   女友だちがいて
   世間体がなくて
   深夜に泣けて
   親をもう必要としない

   危うさを孕みながら
   生きている

詩は誰のために書くか、詩を何のために書くか、といった根本的な問題を考えることがある。この詩集にはその答えがある。詩は自分のために書くのであり、詩は自分が生きるために書くのだ。それ以上でもそれ以下でもない。

 巻末に「あとがきに代えて」と添え書きされた「天窓」という文が載っている。電車の窓から「あれきり戻っていない実家の屋根が一瞬だけ見えた」のである。20年間閉じこもっていたという部屋の天窓が小さかったことに、作者は今さらながらに驚いている。そう思えるこの地点へ、詩を書きながら作者はやってきたのだ。
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詩集「伝令」 山田隆昭 (2019/06) 砂子屋書房

2019-07-04 22:15:14 | 詩集
 第5詩集。Ⅰに行分け詩、Ⅱに散文詩という二部構成で、128頁に29編を収める。

 作者ご本人の風貌を思いうかべながら作品を読むことは邪道なのだろう。しかし、作者の深く優しげなそれを知っていると、そんなことを考えてしまうほどに作品世界は奔放にひろがっていく。
 巻頭の「春・幻」では、街角での夢うつつのような彷徨が詩われている。児童公園の深い池には多くの眼球が漂っていたりするのだ。そして「こころの眼はひとつで/水は幻を見ない」というのだ。

 「河畔」は、「思いのほか早い流れ」の川面を見つめる情景である。寄せる小波の様子や、水際の生き物の様子が静かに詩われたあとに、3連で様相はぐるっと転換する。

   頭髪は白く短い
   毛根ごと引っこ抜いて
   幼年時代に帰る
   さもなくばこのまま葦になる
   肉もこそげて骨のいっぽんいっぽん
   水に濡れた河畔に突き刺さる

 水面に自分の顔が映ったのだろうか、今の我が身がふいに激しく揺れている。この気持ちはどこに向かうというのだろうか。無駄のない記述が緊張感を保っている。最終部分は「八月の水はごぼごぼと/喉仏を拝んでいる」

様々な事象が我が身に引き寄せられてくる。時には「大漁」「抽斗」などのように怪異譚ともなり、また「くう」のように飄々とした物言いともなる。しかしそのどれものうしろに佇んでいる作者は、非常に真面目に事象が抱えているものに迫ろうとしている。
 我が身があらゆる事象に挟まれながら辛うじて生きていること、その意味を捉えようとしているようだ。それは少し滑稽に見えたり、あるいは惨めに見えたりするようなことかも知れないのだが、それは真摯になればなるほどにそのように見えるものなのだろう。

「黄昏」は、「夕暮れの不安定な空気やひかりのなか」を彷徨している作品。昼食のことを思い出そうとしたりしていると、「時間が不規則に流れて 子どもの時代が背後/から吹いてくる」のだ。

   奥行きのない店の外には 知らない顔ばかり
   が歩いている ひとりひとり咎めるように覗
   いてゆく 歩いているのは影だった 影が立
   ち上がり体を従えている

 時の流れが薄く重なり合っているようだ。そして、今の自分が奈辺にいるのかを問いなおす場に来てしまっている。黄昏にはそういう場が潜んでいるのだろう。
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詩集「やあ、詩人たち」 八木忠栄 (2019/06) 思潮社

2019-07-01 20:54:31 | 詩集
 楽しい詩集をいただいた。正方形に近いコンパクトな判型の80頁で、69編を収めている。
 作品は、長く編集者として活躍してきた著者が交流を持った物故詩人69人に捧げるもので、詩人の名前を行頭に読み込んだ折句となっている。作品タイトルもすべて詩人の名前を平仮名表記したものとなっている。
 たとえば「あゆかわのぶお」は、それぞれの音を行頭に持ってきた7行の作品となっている。「あらいとよみ」は6行、「そうさこん」や「なかたろう」は5行の作品である。(「にしわきじゅんざぶろう」では「じゅん」「ろう」は1行に使って8行となっている。)

そのような制約を課して書かれているのだが、どの作品もその詩人を作者がどのように捉えていたかということが伝わってくるものとなっている。その詩人の代表的な作品へのリスペクトもなされている。
 たとえば「かとういくや」は次のような作品。

   かけこみ寺の裏口から
   とんでもない江戸っ子どもが
   馬どもをワッセとかつぎ込んでは
   幾夜か寝つる。
   くりからもんもんの吟難も加わって
   やい、荒れるや!

 「あとがき」で作者は「これらを書いている時間は、至福のひとときだったことを白状します。」と書いているが、その通りだったであろうことが容易にうなずける。この詩人については作者はこのように描いたという思いが、読んでいる者にも暖かく感じられてくる。

 もう1編、「よしもとたかあき」を紹介しておく。

   夜が遡って夕刻に転換するとき
   幸せな街は声をかぎりに
   もう歌いはじめているさ。
   鳥たちは純情で みな素っ裸になって
   たそがれの河べりにならび
   かわいいのどをしごいている。
   アジアの果てのわいせつな路地で
   君は最期の笑いを舐めて凍らす。

「著者 八木忠栄/発行者 小田久郎/発行所 思潮社」と並んだ奥付けが、かっての「現代詩手帖」投稿欄(作者が同誌の編集長だった頃だ)に熱い想いを寄せていた私にはまぶしい。


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