第15詩集。76頁に12編を収める。
3冊前の詩集頃から作者の作品には”死”の気配が漂いはじめていた。前詩集でのすべての作品に”白骨草”があらわれており、私(瀬崎)はその言葉に対して「死後に残されるもの、あるいは死そのものを担っているのだろう」と書いた。この詩集でも「白骨草 もう咲きましたか」とときおり訊ねられている。
「高い空の足音が」では、はるか高みにいる誰かを詩っている。そして、そこに広がっていく波紋(さざなみ)を「ときどきは 夢のお人が/岸辺の それを そっと/ふるまっては/盗み見している」のだ。「魂がやんだのにまだおりてこない」人の足音がきこえると、
その たびに
何故か とおい雨の湖では
この世の
秋の
小さな波紋がたっていたな
愛おしさとも畏敬とも異なる、少し無理をして言ってしまえば懐かしさが、ここにはあるようだ。齢を経てきた作者はすこしずつその足音の位置に近づいている気がしているのかもしれない。そのことを感慨などではなく、自然のこととして受け止めているようだ。
「心の表裏にも」では、そういった心情がより具体的に描かれている。我が身の立ち位置がはっきりしなくなって、風に揺れているようなのだ。女は待合室の刻の草叢から吹かれて出てゆくし、秋に魂もすこし紅葉してくるのだ。
さっき 絵葉書の中の
涼しい宛名を 渉って いった
わたしの「老い」も
もう ひっそり
向こう岸から手を振ってました
ただ それだけ
お変わりありませんか
他の作品でも、やはり老いの自覚と近づいてきている死への思いがうかがえる。、「わたしの年齢を/空のように/涙ぐんでは/見上げているときがあります」(「わたしの年齢を 秋、洛北で」冒頭)、あるいは、「幻のひとの/生きる はなやぎと/死の はなやぎ が/花祭りの提灯のように/淋しくゆれている」(「さくらが散って」より)。
この先、作者は死をどこまで凝視め続けていくのだろうか。
3冊前の詩集頃から作者の作品には”死”の気配が漂いはじめていた。前詩集でのすべての作品に”白骨草”があらわれており、私(瀬崎)はその言葉に対して「死後に残されるもの、あるいは死そのものを担っているのだろう」と書いた。この詩集でも「白骨草 もう咲きましたか」とときおり訊ねられている。
「高い空の足音が」では、はるか高みにいる誰かを詩っている。そして、そこに広がっていく波紋(さざなみ)を「ときどきは 夢のお人が/岸辺の それを そっと/ふるまっては/盗み見している」のだ。「魂がやんだのにまだおりてこない」人の足音がきこえると、
その たびに
何故か とおい雨の湖では
この世の
秋の
小さな波紋がたっていたな
愛おしさとも畏敬とも異なる、少し無理をして言ってしまえば懐かしさが、ここにはあるようだ。齢を経てきた作者はすこしずつその足音の位置に近づいている気がしているのかもしれない。そのことを感慨などではなく、自然のこととして受け止めているようだ。
「心の表裏にも」では、そういった心情がより具体的に描かれている。我が身の立ち位置がはっきりしなくなって、風に揺れているようなのだ。女は待合室の刻の草叢から吹かれて出てゆくし、秋に魂もすこし紅葉してくるのだ。
さっき 絵葉書の中の
涼しい宛名を 渉って いった
わたしの「老い」も
もう ひっそり
向こう岸から手を振ってました
ただ それだけ
お変わりありませんか
他の作品でも、やはり老いの自覚と近づいてきている死への思いがうかがえる。、「わたしの年齢を/空のように/涙ぐんでは/見上げているときがあります」(「わたしの年齢を 秋、洛北で」冒頭)、あるいは、「幻のひとの/生きる はなやぎと/死の はなやぎ が/花祭りの提灯のように/淋しくゆれている」(「さくらが散って」より)。
この先、作者は死をどこまで凝視め続けていくのだろうか。