瀬崎祐の本棚

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詩集「シアンの沼地」  高谷和幸  (2014/07)  思潮社

2014-08-18 19:21:08 | 詩集
 115頁に16編を収め、倉橋健一の栞が付く。
 生き続けている肉体と思考の動きを言葉で書きとめている。時間とともに揺れ動くそれは断片化されて差し出されてくる。当然、そこに説明はないわけだから、断片化された言葉たちは他者への意味の伝達を担ってはいないだろう。個々の細かいことではなく、作者まるごとの総体としての生き様を浮きあがらせようとしているのだろう。
 に収められた2篇、そしての「Cyanの沼地」はそれぞれ180行から300行余りの長い作品であり、上記のたたずまいが著明にあらわれている。一部を引用することは、その全体を掴むためにはさほどの意味はないのだが、

   ・遠く離れる。自分の残してきた半身を定着させ
   るために、自分に向かっての歩み。さようなら。

   ・私の庭は全体になろうとして失敗するので/す。

   ・一方で、「完璧な庭」を受けとる。毎日を漂流
   物が打ち上げられる波打ち際に立っているのかも
   しれない。空へ遡行しようとする渚。漂流した日
   用品から可笑しな忠誠心と不死が顔をのぞかせて
   いる、そこから。
                         (「若草色に根を忘れる」より)

 の13篇は動きを止めての発語であるのだが、やはりその場で言葉は渦巻いている。
 「ふとんの前と後ろに雨が降っている」という魅力的な詩行ではじまる「ふとんの前と後ろ」。

   もしも虹をわたるあなたたちならば、多元の末路
   交差する人の早さの、それぞれの荷電体に名前
   をつけようとされるでしょうか? 疑いもなく、
   水面に浮かぶ波紋のような、あれは小鳥たちの鳴
   き声ですよ。ふとんの前と、それから後ろに。


 総体としての作者は、名指しをした日常に絡め取られてもがいているように思える。名指しをしなければその日常は空虚なものとなるわけだが、名指した瞬間に裏切られるのだ。その状態はかなりに必死なことなのだ。
コメント
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