125頁に28編を収める。表紙カバーや本文中に著者の銅版画が載っている。
巻頭の「海町」は20頁、270行に及ぶ作品。「かまくらの先」にある町を舞台にして、叔父をはじめとした人々が時の流れも超越したように交差する。印象的なこの作品については詩誌発表時にも感想を書いている。
岩佐の作品では不気味なユーモア感覚も至るところで顔を出している。「×」という作品では、「朝おきると」「つかわないじぶん」と「つかえないじぶん」があるというのだ。だから毎朝「ひらがなを書くふうにさすって」「いのちを吹き込む」のである。
いつかの朝ほんとうに
つかわなくなったじぶんを
丁寧にさすってやると
黄金色に全身が輝くこととなり
それこそがさいごのひかりだろう
だがいまは
ふしぶしを揃えほねを整え
にくを着る
肉体的な感覚ではよく判るものがある。しかし理屈で説明しようとすると全く判らなくなる。岩佐の作品の魅力、面白さははそんなところにある。
こうして作品はどこまでもぐいぐいと押し出されてきて、どこまでもぐいぐいと進んでいく。表現されたいものが発散する傍若無人な迫力がある。それにひきかえ共に在る銅版画はどこまでも繊細である。双方が一つになって指し示す地点は、やはりどこか不気味だ。
巻頭の「海町」は20頁、270行に及ぶ作品。「かまくらの先」にある町を舞台にして、叔父をはじめとした人々が時の流れも超越したように交差する。印象的なこの作品については詩誌発表時にも感想を書いている。
岩佐の作品では不気味なユーモア感覚も至るところで顔を出している。「×」という作品では、「朝おきると」「つかわないじぶん」と「つかえないじぶん」があるというのだ。だから毎朝「ひらがなを書くふうにさすって」「いのちを吹き込む」のである。
いつかの朝ほんとうに
つかわなくなったじぶんを
丁寧にさすってやると
黄金色に全身が輝くこととなり
それこそがさいごのひかりだろう
だがいまは
ふしぶしを揃えほねを整え
にくを着る
肉体的な感覚ではよく判るものがある。しかし理屈で説明しようとすると全く判らなくなる。岩佐の作品の魅力、面白さははそんなところにある。
こうして作品はどこまでもぐいぐいと押し出されてきて、どこまでもぐいぐいと進んでいく。表現されたいものが発散する傍若無人な迫力がある。それにひきかえ共に在る銅版画はどこまでも繊細である。双方が一つになって指し示す地点は、やはりどこか不気味だ。