瀬崎祐の本棚

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詩集「ほしくび」  岡島弘子  (2013/05)  思潮社

2013-07-09 19:16:19 | 詩集
 127頁に30編を収める。
 詩集のタイトルは”干し首”の意である。著者は「蒸気となって存続する私の霊のために私も干し首を作ろうと思いたった」とのこと。
 「トンネルをぬける」は、母に連れられて山梨へ疎開した幼い日々から始まる作品。そして「やってくる人」には復員してきた父がいて、続く作品には風や水、火とおさななじみになっていった著者がいる。およげるようになり、自転車に乗れるようになり、逆上がりもできるようになる。自分の世界が広がるにつれて、今の自分に少しずつ近づいてきているわけで、その検証を自らに課しているようだ。
「レントゲン写真」は、生命維持のための根本的な動作である呼吸をモチーフにしている。病を見つけるためのレントゲン写真撮影時には、この動作が意識的におこなわれ、それに伴ってこれまでの人生のひとこまの映像が切りとられる。

   はい らくにして
   私はせわしなくすったりはいたり
   さんそをすって たんさんがすをはいて
   わざわいを知る知恵をすってはいて
   わざわいとたたかう勇気をすってはいて

 こうして著者は「にがい大人」(「逆上がりができた」より)になってきた。書きとめることによって、今の自分がどのような存在であるのかを自らに問い直しているのだろう。干し首になるためには、どんな首であるかをしっかりと見極めておかなければならないのだろう。立派な首である。
 巻頭に置かれた10行の短い作品「みあげると」も、詩集のはじめにふさわしく、喜びと不安が表裏一つになったような広がりのある作品だった。

   天上の沖に小舟もあるのかもしれない
   舞いあがった小鳥も
   まだ一羽もおりてこない
   さえずりが また
   空のふところを押しあげる
                  (「みあげると」後半部分)
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詩集「ネワエワ紀」  池田康  (2013/06)  洪水企画

2013-07-05 20:53:29 | 詩集
 「詩人の遠征」と題したシリーズの第1冊。同シリーズでは「詩の営為ではあるけれど必ずしも一般的な詩歌の形にはなっていない言語作品」などを紹介していくとのこと。
  77頁に「ネワエワ紀」「気聞日記」の長編作品2編を載せてる。各作品は、散文形式の断章を集めたものとなっている。著者自身が「どちらも妙な形をした作品」とも言っているのだが、「詩の試行は形の思考である」とのこと。
 「ネワエワ紀」のネワエワというのは河の名前らしく、ニウアークという島国もあるようだ。断章はその地での出来事、あるいはその地で起こっているであろう出来事を、物語の断片のように記している。話者は新宿の街を彷徨い、探偵に会い、乞食姿の占い師に会い、ネワエワへ行くことを夢想している。

   ああネワエワ。おまえは一体どこを流れているのだ。ニウアークから出て、ニウアークを
   抱き、そしておそらくはニウアークへ還り。いつか大洪水となってニウアークを滅ぼし、
   出発する地も帰還する地も失くしてただただ流れる天の川のような虚しい景観になるの
   か。心臓をネワエワが流れる音がする。

 ネワエワは、記述されることによって形づくられていくものなのだろう。その地で話者は偽札を作り、女と一緒に逃げたりもする。ネワエワは、著者と共に新宿の街を流れているのだろう。これらの記述を映像として生かしても面白いものになりそうな気がした。
 「気聞日記」は気分、運命、欲望などについて断片的に思いを巡らす。気分は「宇宙的に広が」り、気分は自分の内にあり運命は自分の外にあると思い込みがちだが、それは正しいのかという問いかけは新鮮だった。
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詩集「この片隅の夕暮れに」  岩井昭  (2013/06)  なずき書房

2013-07-03 07:32:44 | 詩集
 第9詩集。67頁に16編を収める。ソフトカバーの装丁なのだが、本文部分は袋とじ状態になっていて、ペーパーナイフで開ける体裁になっている。
 この詩集の作品には他者はほとんど現れない。ただ自分の感覚が捉えたものだけが差し出されている。描かれる世界はそれこそ庭の片隅であり、そこの木々や草花、鳥、虫などが静かに何かを伝えてくる。巻頭の11行の短い作品「木というもの」では、木がどこかへ出かけてしまう。

   いっしゅんの目くばせだったが

   いまごろどんなかぜのいんぼうを
   たくらんでいるのか

   葉がそよぎ
   いつもの場所にあるにはあるが
   木というものはいなかった

 形だけは残っているのだが、木の中身のようなものを風が吹いてどこかへ持って行ってしまったのだろう。理屈では何も判らないのだが、感覚としては判るものがある。
 「静かないちにち」も庭の片隅の情景である。鳥のえさ場に落ちていた羽根、隣の工場のエアコン室外機からの風に揺れているイチジクとナンテン、そんな庭の片隅では「静かに昼間が揺れてい」るのだ。

   なつかしさを生きているのでしょうか
   生きる場所を間違えてしまいました
   雨や風を敵にまわしてしまいました

   (それでも 静かな夕暮れです

 主語もよくつかめないままに読んでいるのだが、それでも伝わってくるものがあって、それは、厳密な意味が伝わることなんかどうでもいいやといった心地よさでもある。
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