94頁に18編を収める。詩集タイトルにあるように、愛知・奥三河に伝わる”花祭り”をモチーフとした作品を集めている。
土着している人々にとっての祭りは、観光客のようにその土地を通り過ぎる人にとってのそれとは、根本的に異なるものだろう。その祭りが支配している土地で育てば、祭りはその人の細胞の中に染み込んでいる。
祭りの御本体らしい”御珠(おたま)”をモチーフにした「お玉」では、幼いわたくしに話しかけるでもない婆さまの言葉が印象的だ。わたくしは「ちいさな狐のお玉を背負っていた」のだ。うしろを歩いている婆さまは「(お玉はかわいいのん」と言って背を撫でてくれる。すると、お玉は「眠い目を開けて婆さまの手を舐め」るのだ。これはどうしたことだ?
(にゃんこもお玉もそれはそれはかわいいぞん
(たぬこもわんこもかわいいぞん
(鳥んぽもばんどりも 白山のてんとうさまの真ん前で舞っとるがね
(向こうとこっちを行き来できるながあい橋がおりてくるんだわ
(それはそれはかわいいぞん
この、かわいいぞん、という婆さまの言葉には、いったいどれだけの事柄が含まれているのだろうか。それは、生きるものに対する感情と同じ次元で”橋”や”衣装箱”、”地下足袋”にも投げかけられるのだ。生と死のあわいにあるものすべてを愛でているのか。やがてそれは、厳かな宣言ともいえる終連のわたくしの言葉へつながっていく。
姉さま 妹さま 兄さまとわたくしのお玉は億年のなかのひと日
木漏れ日に照らされた晩秋のひと日
花は
わたくしの背に埋まっているきつねいろのお玉でございます
実際の御珠は箱に入れられていて、誰も見たことはないとのこと。祭りは人々の想像力までを支配している。そうやって祭りは生も死もつなげるような力を得て、土地を支配しているのだろう。
詩集を閉じても、花祭りのかけ声「テーホヘ! テホヘ!」が、いつまでも耳に残るようだ。
土着している人々にとっての祭りは、観光客のようにその土地を通り過ぎる人にとってのそれとは、根本的に異なるものだろう。その祭りが支配している土地で育てば、祭りはその人の細胞の中に染み込んでいる。
祭りの御本体らしい”御珠(おたま)”をモチーフにした「お玉」では、幼いわたくしに話しかけるでもない婆さまの言葉が印象的だ。わたくしは「ちいさな狐のお玉を背負っていた」のだ。うしろを歩いている婆さまは「(お玉はかわいいのん」と言って背を撫でてくれる。すると、お玉は「眠い目を開けて婆さまの手を舐め」るのだ。これはどうしたことだ?
(にゃんこもお玉もそれはそれはかわいいぞん
(たぬこもわんこもかわいいぞん
(鳥んぽもばんどりも 白山のてんとうさまの真ん前で舞っとるがね
(向こうとこっちを行き来できるながあい橋がおりてくるんだわ
(それはそれはかわいいぞん
この、かわいいぞん、という婆さまの言葉には、いったいどれだけの事柄が含まれているのだろうか。それは、生きるものに対する感情と同じ次元で”橋”や”衣装箱”、”地下足袋”にも投げかけられるのだ。生と死のあわいにあるものすべてを愛でているのか。やがてそれは、厳かな宣言ともいえる終連のわたくしの言葉へつながっていく。
姉さま 妹さま 兄さまとわたくしのお玉は億年のなかのひと日
木漏れ日に照らされた晩秋のひと日
花は
わたくしの背に埋まっているきつねいろのお玉でございます
実際の御珠は箱に入れられていて、誰も見たことはないとのこと。祭りは人々の想像力までを支配している。そうやって祭りは生も死もつなげるような力を得て、土地を支配しているのだろう。
詩集を閉じても、花祭りのかけ声「テーホヘ! テホヘ!」が、いつまでも耳に残るようだ。