瀬崎祐の本棚

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詩誌「Down Beat」 22号 (2024/02)  神奈川

2024-03-17 15:20:05 | ローマ字で始まる詩誌
この詩誌、毎号さっぱり訳のわからない作品が少なくない。しかし、とてつもなく面白いのだ。

たとえば「とうぶつ屋」廿楽順治は、「見も知らぬ「かたち」が売られていたのだ」と始まる。タイトルからして謎めいているが、おそらくは”唐物屋”、つまり舶来品を商っている店、ということなのだろう。「犀の襞のようなもの」や「死んだ唐人の記憶のなかの毛布」が売られているようなのだ。

   格子状になっている場所に、外国人の眼の模型が埋めら
   れている。遠い眺めのなかにわたしたちはいる。

売られているものが話者にお前自身は売り物になるのかと迫ってくるようだ。

つづいて「ヒルガエシ」今鹿仙。このタイトルになると、もう思いつくものもない。触れたり見たりするという感覚が言葉を連れてきている。それらは理屈が追いつく前にとっくにどこかへ走り去っている。

   馬だけが河原にあがる世界で
   主観はただ湯気を
   出したりして
   交信することを望むのみだ

言葉をまき散らしておきながら話者は素知らぬ顔をしている。だから読む者も勝手に素知らぬ風を装うのだ。

さらに「家族」小川三郎では、「窓辺に顔が咲いている」のだ。部屋の隅では裸体が眠っていて、夢のなかで裸体を鏡に映している。理屈は通らないまでも、この作品のイメージは伝わりやすいものとなっている。買い物先のスーパーは顔と裸体でいっぱいだったのだ。この作品の最終連は、

   買い物を済ませ
   家に戻ると
   顔と裸体は
   ちょうどひとつに重なっており
   仏具のような見栄えであった

訳のわからないものの面白さとは一体何なのだろう。訳がわからなければ、面白さも判らないのではないか。いや、そんなことはないのだ。作者の言いたいことに律儀につきあおうとするから判らなくなるわけで、そんなことは投げ棄ててしまえばよいのではないだろうか。提示された作品から勝手に自分の光景を見ればよいのであって、今まで描くことのできなかった光景を連れてきてくれる作品が、とてつもなく面白いのだ。
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