第7詩集か。100頁に25編を収める。
これまでの詩集で、作者は異国の地を貪欲に歩きまわり、好奇心旺盛に異国の食を食べ歩いていた。本詩集でも話者は中国を歩き、そしてミャンマー、マレーシアなどの東南アジアを歩く。インドも訪れる。
「旅の作法」でも話者は長江のあたりを普通慢車に揺られ、「言葉のみだりな運動に巻き込まれに」行っている。
青パパイヤを積んだリヤカーが急ぐクロントイの巨大スラム
安ホテルの三階から振りだした雨の横顔を見ている
さみしいはからだの思うことどうしようもない
作者の作品は、語弊を怖れずに言うのであれば、居丈高であり、その裏側に寂しさが貼りついている。 その寂しさは感情が、というよりは肉体が担っている。どこまでも彷徨う肉体が寂しがっているのだ。話者の肉体はどこまで行ってもその地を通り過ぎるだけであり、その地の風景にはなり得ないのだ。
「アロイ」でも話者は肉体に固執する。肉体の根源には食べることがあるのだろう(”アロイ”はタイ語で美味しいという意味)。
食べるものはどこかエロい、エロアロイ
そしていつだって政治的だ
うまいものを食べているとからだのどこかさみしくなる
この読む者に向かって突き進んでくる言葉の迫力はどうだ。感嘆してしまう。
本詩集にも”艸”はあちらこちらであらわれてくる。というよりも、どの作品の根のところに”艸”があるようなのだ。
自分のものではないことばの動き、拒み
艸にはそういう作用がある
(「六尺棒」より)
詩集「艸の、息」以来視てきたことばだが、正直なところこれがなにであるのかは掴めないでいる。おそらくは作者も別のことばで説明されるようなことは望んでいないだろう。
艸に立たされているのか
おもちちの黙(もだ)をこそ生きろということか
わたしはひりひり傾いている
許される道理がない傾いている
(「かたむいている」より)
これまでの詩集で、作者は異国の地を貪欲に歩きまわり、好奇心旺盛に異国の食を食べ歩いていた。本詩集でも話者は中国を歩き、そしてミャンマー、マレーシアなどの東南アジアを歩く。インドも訪れる。
「旅の作法」でも話者は長江のあたりを普通慢車に揺られ、「言葉のみだりな運動に巻き込まれに」行っている。
青パパイヤを積んだリヤカーが急ぐクロントイの巨大スラム
安ホテルの三階から振りだした雨の横顔を見ている
さみしいはからだの思うことどうしようもない
作者の作品は、語弊を怖れずに言うのであれば、居丈高であり、その裏側に寂しさが貼りついている。 その寂しさは感情が、というよりは肉体が担っている。どこまでも彷徨う肉体が寂しがっているのだ。話者の肉体はどこまで行ってもその地を通り過ぎるだけであり、その地の風景にはなり得ないのだ。
「アロイ」でも話者は肉体に固執する。肉体の根源には食べることがあるのだろう(”アロイ”はタイ語で美味しいという意味)。
食べるものはどこかエロい、エロアロイ
そしていつだって政治的だ
うまいものを食べているとからだのどこかさみしくなる
この読む者に向かって突き進んでくる言葉の迫力はどうだ。感嘆してしまう。
本詩集にも”艸”はあちらこちらであらわれてくる。というよりも、どの作品の根のところに”艸”があるようなのだ。
自分のものではないことばの動き、拒み
艸にはそういう作用がある
(「六尺棒」より)
詩集「艸の、息」以来視てきたことばだが、正直なところこれがなにであるのかは掴めないでいる。おそらくは作者も別のことばで説明されるようなことは望んでいないだろう。
艸に立たされているのか
おもちちの黙(もだ)をこそ生きろということか
わたしはひりひり傾いている
許される道理がない傾いている
(「かたむいている」より)