正方形の判型で117頁に19作を収める。作者によれば、フィンランドでは宿り木を「風の巣」と呼び習わしているとのこと。
この詩集の根幹は9編の「樹下連祷(原文は旧字体)」連作であろう。それぞれの作品題には「凪」「坤」「芒」「昏」などの文字が添えられている。
「樹下連祷(凪)」。「空をゆらしつづけている木の枝」の庭には毀れた椅子があり、泥にうもれた空き瓶がある。そこには自分だけがいて、自分だけと向き合っている。すると、
ぼくの内部で
少しずつ傾いていく天秤があり
かすかに揺れている
これから暮れようとしている庭は、話者が生きて来た道程が積みかさなってできているのだろう。そして決してこの庭を踏み越えることができないことを知っているのに、それでもここから歩きはじめようとする決意がある。最終連は「空の奥から ぼくの眼のまえに/光の梯子がおりてくる」
「樹下連祷(劫)」。庭では小さなものたちの生命が懸命に営まれている。そして木々もまた風に揺れたりしているのだろうが、根が枯れた古木は大きく傾いているのだ。生命は交代して受け継がれていくものなのだろう。
ぼくの内側で
ふいに
一本の木が裂ける
ぼくの口から
木の悲鳴が洩れる
舌から
青い樹液が滴る
両眼を
落ち葉がふさぐ
生命が溢れていて、その受け継ぎにもあふれている庭で、話者はおのれの生命の限りについて感じるものがあるのだろう。それは、庭の中に在ることによってより一層切実なものとして感じるものなのだろう。やがて「ぼくは/ぼくのなかで/行き暮れる」のだ。
詩集最後に置かれた作品「曠野」の最終連は、「空は どこまでもひろく/風が その生まれたところにもどっていく」だった。
この詩集の根幹は9編の「樹下連祷(原文は旧字体)」連作であろう。それぞれの作品題には「凪」「坤」「芒」「昏」などの文字が添えられている。
「樹下連祷(凪)」。「空をゆらしつづけている木の枝」の庭には毀れた椅子があり、泥にうもれた空き瓶がある。そこには自分だけがいて、自分だけと向き合っている。すると、
ぼくの内部で
少しずつ傾いていく天秤があり
かすかに揺れている
これから暮れようとしている庭は、話者が生きて来た道程が積みかさなってできているのだろう。そして決してこの庭を踏み越えることができないことを知っているのに、それでもここから歩きはじめようとする決意がある。最終連は「空の奥から ぼくの眼のまえに/光の梯子がおりてくる」
「樹下連祷(劫)」。庭では小さなものたちの生命が懸命に営まれている。そして木々もまた風に揺れたりしているのだろうが、根が枯れた古木は大きく傾いているのだ。生命は交代して受け継がれていくものなのだろう。
ぼくの内側で
ふいに
一本の木が裂ける
ぼくの口から
木の悲鳴が洩れる
舌から
青い樹液が滴る
両眼を
落ち葉がふさぐ
生命が溢れていて、その受け継ぎにもあふれている庭で、話者はおのれの生命の限りについて感じるものがあるのだろう。それは、庭の中に在ることによってより一層切実なものとして感じるものなのだろう。やがて「ぼくは/ぼくのなかで/行き暮れる」のだ。
詩集最後に置かれた作品「曠野」の最終連は、「空は どこまでもひろく/風が その生まれたところにもどっていく」だった。