第6詩集。161頁に36編を収める。
詩集全体が亡くなっていった人たちへの鎮魂のものとなっている。「正しい礼儀作法」では、死者に会う部屋に入る際の作法が書かれている。「死者は須弥壇を上り下りしては/記憶を確かめ合って」いたりするので、逝った者たちを驚かせてはいけないのだ。戒名も順序正しく唱えなければならないのだ。
この詩集の中核を成しているのは「骨考」の共通タイトルを持つ10編だろう。父母や姉など、血縁者との別れを残される骨に託して詩っている。そこにはもちろん哀惜の念があるのだが、肉親ならではの生前の確執への恨み言なども混じってくる。
「骨考 -拾う」は1連7行の4連からなる作品。1、2連は「わたしは あなたを 拾えない」とはじまり、遠い昔に別れたために骨を拾うことができない人への想いを詩っている。あなたとの関係は明らかにされないが、3連目は「あなたは わたしを 拾えない」と逆の立場を詩う。ここは巧みな展開だった。そして最終連は、
あなたが わたしを 拾えるなら
私は極上の一片(ひとひら)となり
あなたのポケットで眠るだろう
骨という形あるものは、いつまでもその人の肉体の一部として認識される。まるで立ち去ったその人の意識まで宿っているようにも思われてくる。最終部分は「あなたは沈黙を忘れ/私だけの饒舌の人となるだろうか」。
もちろんこの詩集であらわされている別れは親兄弟に向けられたものだけではない。限られた命を持つ人すべてに向けられた別れでもある。
「雨あがり、そして風」。雨があがり風が吹いてくると、逝った人の気配が戻ってくるような感じになるのだ。言葉が甦り、最終部分は、
この地にもどったあなたが
雨あがりを楽しみ
終着駅で眠る終電車のように
体を休めることができますように
天では もう
あなたの転出届が出されただろうか
「後書きに代えて」には、「終の日に、手をのばせば、先に彼岸へ渡った血縁者や大切な人達が、すっと手を取り、力を貸してくれそうな気もする」とあった。作者と同年代の私(瀬崎)にも実感として伝わる思いだった。
詩集全体が亡くなっていった人たちへの鎮魂のものとなっている。「正しい礼儀作法」では、死者に会う部屋に入る際の作法が書かれている。「死者は須弥壇を上り下りしては/記憶を確かめ合って」いたりするので、逝った者たちを驚かせてはいけないのだ。戒名も順序正しく唱えなければならないのだ。
この詩集の中核を成しているのは「骨考」の共通タイトルを持つ10編だろう。父母や姉など、血縁者との別れを残される骨に託して詩っている。そこにはもちろん哀惜の念があるのだが、肉親ならではの生前の確執への恨み言なども混じってくる。
「骨考 -拾う」は1連7行の4連からなる作品。1、2連は「わたしは あなたを 拾えない」とはじまり、遠い昔に別れたために骨を拾うことができない人への想いを詩っている。あなたとの関係は明らかにされないが、3連目は「あなたは わたしを 拾えない」と逆の立場を詩う。ここは巧みな展開だった。そして最終連は、
あなたが わたしを 拾えるなら
私は極上の一片(ひとひら)となり
あなたのポケットで眠るだろう
骨という形あるものは、いつまでもその人の肉体の一部として認識される。まるで立ち去ったその人の意識まで宿っているようにも思われてくる。最終部分は「あなたは沈黙を忘れ/私だけの饒舌の人となるだろうか」。
もちろんこの詩集であらわされている別れは親兄弟に向けられたものだけではない。限られた命を持つ人すべてに向けられた別れでもある。
「雨あがり、そして風」。雨があがり風が吹いてくると、逝った人の気配が戻ってくるような感じになるのだ。言葉が甦り、最終部分は、
この地にもどったあなたが
雨あがりを楽しみ
終着駅で眠る終電車のように
体を休めることができますように
天では もう
あなたの転出届が出されただろうか
「後書きに代えて」には、「終の日に、手をのばせば、先に彼岸へ渡った血縁者や大切な人達が、すっと手を取り、力を貸してくれそうな気もする」とあった。作者と同年代の私(瀬崎)にも実感として伝わる思いだった。
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