桑の海 光る雲

桑の海の旅行記・エッセー・書作品と旅の写真

礼文島断章18・94年の礼文の話③

2005-04-27 22:08:31 | 旅行記
この年私は就職し、夏場は研修の連続で、長い休みが取れなかった。そこで、この年は8月に2回、前半に6日間礼文のみ飛行機で、後半に9日間道東方面へ車で出かける予定を立てた。

この年は酷暑の年で、炎暑の羽田を飛行機で飛び立ち、稚内に到着して、これで避暑できる、と思いつつタラップを降りると、むわっとする暑さに包まれた。酷暑は全国的なものだったのである。さすがに外にいられないほどの暑さではなかったが、冷夏だった前年に比べれば、大変な暑さに感じられた。

香深港に到着すると、前年48時間コースで一緒だったTさんと一緒だった。星観荘に到着すると、48時間コースで一緒だったKさん、GWに一緒だったPさん、お嬢(Iさん)、前年6月に一緒だったMさんはヘルパーをやっていた。

私はすぐにブラックホール行きとなり、入っていくと、長髪の、陽に焼けた顔の濃い、ちょっと気むずかしそうな男性が一人、たたんだ布団に寄りかかって本を読んでいた。年上の人に見えたので、挨拶をして荷物を置いた。その人も挨拶をしてくれたが、話しぶりもとても落ち着いていて、やはり年上の人のようである。荷物を置いて、すぐに母屋の方へ行った。

母屋に戻りアルバムを見た。GWの時の写真がもう整理されている。まだ3ヶ月しか経っていないのに、何だかものすごく前のことのように思われる。まぁ、この日まではそう思えるくらいいろいろなことがあったのだから仕方がない。夕食からブラックホールのミーティングにかけ、知り合いの人に加え、岡崎から来ているSさん、お嬢の友達のおもちゃ、高校の先生をしているTさんなどと話した。そして、ブラックホールの先客だった男性はFさんといい、なんとGWに一緒だったFリンの大学の後輩だという。Fリンは私より一つ年下だから、何とFさんは私より年下の、しかも学生なのだそうだ。私も年より老けて見られるクチだが、これにはびっくりしてしまった。どう見ても三十路を越えているようにしか見えないのだから・・・(Fさんは九州大学在学中ということで、その直後からQちゃんと呼ばれるようになったので、これ以降Qちゃんと呼ぶ。)このQチャンも、見かけに似合わず気さくな人で、すぐ打ち解けて話をするようになった。

お客さんの多い時期にもかかわらず知り合いが何人もいて、それだけでも嬉しかったのに、初めて会った人も面白そうな人が多いようで、この先の6日間がとても楽しみだった。しかも、明日の夜、男性のSさん、Hさん(実はお二人は私の実家の近所の方だった)、岡崎のSさんが24時間コースに出発するという。到着早々24時間コースの出発と到着に立ち会えるのも楽しみだ。何だかとてもわくわくしてきた。


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礼文島断章17・94年の礼文の話②

2005-04-26 22:25:51 | 旅行記
まずは、夜間登山の様子を撮したビデオを見た。礼文岳は、中腹から上が雪に覆われていた。予定ではご来光を山頂で見るために登り始めたのだが、空はどんよりと曇っており、結局山頂でご来光を見ることはできなかった。皆が周囲を囲む中、神父役を務めたNさん(現在では神父様と呼ばれている)が口上を述べ、彦さんとえみりさんがそれに答える。山頂のケルンの上で婚姻届にサインをする。立会人のKさまとNさんが署名をする。格好は皆防寒着なのに、何だかとても厳粛な感じがした。下山途中で雲間から朝日が射し、海面を輝かせた。ほんの一瞬だったけれど、二人を祝福するかのような輝きのように思えた。ビデオでさえそう思えたのだから、実際に目にした人はいっそう思えたことだろう。

パーティーのための準備も始まった。花飾りの代わりに、花紙(高級チリ紙)を使って花を作った。保育所に通っていた頃に作って以来で、とても懐かしかった。階段の踊り場でそれを作っていると、にわかに西の空の雲が切れはじめ、そこから夕陽が姿をのぞかせた。ほんの数十分のことだったけれど、二人の門出を祝福するかのように、輝かしい夕陽が島を照らし出した。そんな眩しい光に照らされながら、私達は飾りを作った。

夜のパーティーには、仲人として、最北端の牛乳でお馴染みの道場さんご夫妻もやってきた。そして、総勢20人で、にぎやかな宴となった。そのほとんどが知り合いだったので、とても和やかで楽しい会だった。

翌日には早くも4人の人が島抜けとなった。見送りをした後、久種湖周辺を周遊した。水芭蕉がまだけっこう咲いている。一部は霜にあたって茶色くなっていた。ザゼンソウもたくさん見られた。その間に、キバナノアマナの黄色や、エゾエンゴサクの水色が映えている。

この日は山菜取りということで、久種湖周辺で、イタドリの芽、シャクの若芽、エゾエンゴサクの花を採取した。これらはこの日の夕食に、彦さんのお母さんの田舎から送って寄越されたタラノメとともに天ぷらにして、夕食の膳に上った。山菜はどれも初めて口にしたが、野趣あふれる味で、とても美味しかった。

翌日も久種湖周辺の散策だった。この日は久種湖の奥にある沢に、エゾノリュウキンカの群落を見に行った。久種湖の奥の草地をそのまま分け入っていくのだが、礼文でこうした草地を歩くのは初めてで、なかなか面白かった。途中、Fリンがバードウォッチング用の望遠鏡を設置してくれ、皆で覗いてみた。これが素晴らしくよく見える。これで羽の色や姿の美しい、しかも珍しい鳥を見てしまったら、それこそ”とりこ”になってしまうのではないかと思われた。

エゾノリュウキンカの群落も見事だった。群落と言っても、密集しているのではなく、沢沿いのあちこちに咲いている、という感じだった。あちこちに黄色い花の咲いている沢のほとりでお昼にした。えみりさんが彦さんのために作った特製のお弁当を、彦さんが恥ずかしそうに隠しながら食べていたのがおかしかった。

食後は、今日の夕飯の材料になるギョウジャニンニクの採取をした。今日の夕食は、Mさんら、お馴染みの面々が強く主張して、ギョウジャニンニク入りのジンギスカンとタコカレー、ニンジンサラダである。沢沿いの湿ったところに、”ぞっくり”という言葉がピッタリするくらい、たくさんのギョウジャニンニクの生えている場所があった。ギョウジャニンニクは食べたことがないのだが、とにかく美味しいらしい。彦さんに摘み方を教わり、手早く採取した。摘み取るそばから、すごいニンニク臭が漂ってくる。食べた後のニオイも気になると聞いたが、これは相当なものになりそうだ。

必要量を採取した後、彦さんが眺めのいいところに行こうと提案した。そして、久種湖の東岸にある丘に登った。登ってしばらくすると、久種湖と船泊湾、そしてトド島が一度に眺められる場所に出た。船泊湾と久種湖の間に砂が打ち寄せられ砂州となり、久種湖と船泊湾が隔てられた様子がよくわかる。空にはうっすらと雲がかかっており、水面も海面も灰色だったが、これが青空であれば、どれほどきれいだろうと思われた。

夜はお待ちかねのギョウジャニンニクのジンギスカンだった。これは美味しかった。私は、星観荘で食べたもののナンバー1に挙げている。ギョウジャニンニクは、肉と油がとてもよく合うと本に書いてあったが、まさにその通りであった。また、ニラやネギ、ニンニクの芽にはない、独特の甘さと、甘やかな香りがある。これがたまらない。しかもご飯はタコカレーときている。食が進まないわけがない。最後の夜でもあったからアルコールも入り、お腹一杯になった。

この日はPさんの誕生日でもあり、ケーキが振る舞われた。彦さんのギターと歌も披露された。この日泊まっていた人も皆知り合いの人ばかりで、前の晩と同じく楽しい時を過ごした。

翌日は私も島抜けである。この日は星観荘に残る人の方が少ない。GWも明日で終わり、ということで、フェリーは満員である。寒い通路で、皆で楽しく話をしながら、稚内までの時間を過ごした。稚内に着くと、皆は空港へ、私だけは列車に乗るため稚内駅に向かった。

星観荘には2泊だけだったけれど、充実した楽しい旅だった。切符を無くしたショックも、最後にはすっかり帳消しにされていた。のっけから楽しいことが続き、この夏の礼文行きも、きっと楽しいものになるのではないかと予想された。

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礼文島断章16・94年の礼文の話①

2005-04-25 21:28:23 | 旅行記
94年の礼文は、印象深いものだった。その思い出を書いてみようと思う。

最初はGWだった。まだ北海道ワイド周遊券があり、何と後輩に学割を取らせ、それで購入するという、姑息な手段でチケットを入手した。(仕事を始めたばかりで金がなかったので・・・しかし、こういうことをすると、しっかり天の神様は見ているのである。その後、私は大変な目に遭う。)

この時は、彦さんとえみりさんの入籍パーティーに参加するべく、上司に適当に理由を付けて仕事を1日休み、往復夜行という強硬手段で島にやってきた。本来はもう1日前から島に入って、礼文岳山頂で行われた婚姻届の記入にも立ち会いたかったのだが、どうしても仕事を休めず、やむを得ずその日の夕方のパーティーからの参加となったのであった。

新幹線やまびこで出発し、盛岡で特急はつかりに乗り換え、青森で夜行急行はまなすに乗り換えた。仕事の後で出発したので、すっかり眠りこけてしまい、目が覚めるともう札幌目前で、私はかなり慌てて荷物をまとめ、終点の札幌で下車した。ところが私は、この時周遊券を落としたまま下車したことに全く気付いていなかったのである。

そのことに気付いたのは、札幌から乗った特急オホーツクの車内であった。車内検札の時、ポケットや荷物を捜してみたが、どうしても見つからない。車掌から、はまなす号が回送された札幌の電車区に問い合わせてもらった。列車は旭川に着き、私は急行礼文に乗り換えた。礼文号の車内で車掌から呼び出され、車掌室に行った。車掌は、切符は見つからなかったと告げた。私はすっかり落ち込んでしまった。車掌が札幌・稚内の、急行券付きの往復の切符を売ってくれ、何とかその場をしのいだ。「天網恢々疎にして漏らさず」の言葉を身にしみて感じた瞬間であった。

そんなこんなで到着した稚内は、こちらの真冬の寒さだった。急ぎ足で(当時は喫茶・お天気屋の存在は知らなかった)港に向かった。フェリーの中で知り合いに会ったような気もするのだが、よく覚えていない。

香深港に到着すると、何と小雪がちらついていた。予約の電話をした時「寒いよ。」とは言われていたが、これほどとは思わなかった。出迎えはみゆきさんが来ていた。みゆきさんは、下見と本番とで、今日一日で礼文岳を二往復もしたという。さすがみゆきさん、という感じである。山登りの話を聞かせてくれながら、車は星観荘に到着した。到着すると、知っている顔、顔、顔。前年の秋の48時間コース以降も、in東京@サンシャイン水族館、温泉ツアー@舘山寺温泉、花の旅@鎌倉と、イベントにまめに参加して、いろんな人と知り合ってきた甲斐があった。今回の旅の初めは大きく躓いたけれど、どうやら楽しいものになりそうである。

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礼文島断章15・24時間コース

2005-04-23 21:57:18 | 旅行記
星観荘には24時間コースという企画がある。初めてその存在を知ったのは、星観荘を初めて訪れた時、その2年前に小さな旅の博物館で出会ったKさんが書いた旅の思い出ノートを目にした時である。そこでKさんは「次に来る時は、必ず24時間コースに挑戦します!」と書いていた。その後2日間を星観荘で過ごし、私は次に来る時は24時間コースにチャレンジしようと決めていた。そして、翌年の6月に、花咲く礼文を一回りしたのである。この時のことはすでに書いた。

私が歩いた時の様子はビデオに収められ、夜のミーティングで放映されたそうである。私が7月に再訪した時、泊まり合わせていた人が「あ、24時間を歩いた鉄人さんだ!」と話しかけられたのにはびっくりしてしまった。ちょうど私が行く直前に、KさんとSさんという男性がそれぞれ一人で24時間コースを歩き、ともに鉄人と呼ばれていて、私は鉄人1号であった。私のようなひ弱な人間がそんな風に呼ばれるのは、何とも恥ずかしかった。

私が24時間コースの出発に立ち会ったのは5回ある。2回は自分の、あと3回は他の人の出発である。初めて立ち会ったのは、私が7月に訪れた時の最後の晩である。歩いたのはMさん。私からMさんまでずっと男性一人であった。私は出発だけ立ち会い、ゴールには立ち会えなかったのだが、夜中に皆で激励に行った時、泊まり合わせていたSさんが、ハーモニカを吹いてくれたのがとても印象深かった(Sさんはとても印象深い人なので、いずれ書こうと思っている。)。

2回目は、その翌年である。この時は男性3名と女性1名であった。出発にもゴールにも立ち会い、激励にも行った。何だか皆とてもハイテンションで、すごいな、と思った記憶がある。男性のKさんと、女性のSさんが、帰ってきた後イイ感じだったのを覚えている。

3回目は、その2年後。男性2名だった。2回目の時一緒だったQちゃんの大学の後輩で、二人とも植物にとても詳しかったので、皆から”博士と助手”と呼ばれていた。学生ということで、泊まっていた人の中で最年少だったこともあり、体にはマジックでムチャクチャ書かれていたのを覚えている。この時は、スコトン岬から女性二人組が合流し、4人での感動のゴールだったのを覚えている。

後の2回は、自分自身の時である。3年ほど前に久しぶりに24時間コースを歩いたが、この時のことはいずれ書こうと思っている。

24時間コースは本来、礼文でヘルパーや長期滞在者として一夏を過ごした人が、その総決算として行ったのがその始まりだったと聞いたことがある。私自身はどうかと言えば、星観荘に来出していきなり実行してしまったので、そんな意味合いはなかった。私の完歩記念証に彦さんが「24時間コースは人生だ!」と書いてくれたが、その言葉が24時間コースを歩くことの意味を実に端的に表現しているように思う。上述のSさんは、完歩後のインタビューで、「礼文を一周して、自分の小ささを実感した。」と、私には考えも及ばないようなかっこいいことを言っていたが、そのことも当てはまるように思った。

最近は24時間コースにチャレンジする人も、一頃よりずいぶん少なくなっていると聞く。2回歩き、出発やゴールに何度も立ち会っている人間には寂しいことだけれど、これも時代の流れなのかな、と思う。

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礼文島断章14・月遅れの七夕

2005-04-22 21:36:43 | 旅行記
礼文の七夕は1ヶ月遅れで8月7日である。ちょうどこの時に2年続けて泊まったことがある。今日はこの時のことを書いてみようと思う。

礼文の七夕では、内地と同様に、短冊を書いて下げる。しかし、礼文には竹がないので、代わりに柳の枝を用いるのである。これに内地の笹飾り同様、いろいろな飾りをこしらえて取り付け、短冊を下げる。この飾りは、七夕が終わると海に流すことになっている。

94年は大変暑い年で、私はトド島で気持ちよく泳いだし、船泊の海水浴場にはたくさんの海水浴客が見られた。七夕の夜、船泊の町の商店街は歩行者専用になり、舞台や縁台が設けられる。露店がいくつも出て、いろいろな食べ物を売っている。浜鍋やウニ剥きには旅人が並び、焼鳥やチョコバナナなどには、地元の子供が並んでいたのが面白かった。

ここで私は珍しいものを見た。ポン菓子作りである。直径30センチくらいの金属製の筒に米(この年は米不足の年で、タイ米だったのを覚えている)を入れ、ふたをして、根元をガスの火で加熱する。しばらく時間が経つと、筒の先に網製の大きなかごを取り付ける。そして、一気にふたを外すと、大きな音がして、中に入れた米が何倍にも膨張して、かごはポン菓子で一杯になった。ポン菓子は何度も食べたことがあるが、こうして作られるとは知らなかった。

船泊の町で夕方を過ごし、夕食の時間に合わせて星観荘へ戻った。今日は七夕パーティーということで、いろいろと趣向を凝らした料理が出た。しかも、バイキング形式なので、食べたいだけ食べられる。私はこの晩が星観荘での最後の夜だったので、親しくなった人達とそれはそれは楽しく過ごした。

その日の日中は4時間コースを歩いてきた。途中の鉄府の集落の自動販売機で、チョコバナナソーダという見たことのないジュースを見つけ、思わず買ってしまったのである。皆でまわし飲みすると、これがまた何とも言えない不思議な味の飲み物だったのである。私達はこれをお土産に持って帰ることにし、1缶買って帰った。帰るとちょうど彦さんが自動販売機にビールを入れており、当時は何が出るか解らないボタンが一つ設定されていたので、そこにそのジュースを紛れ込ませてもらった。

食後にミーティングを行い、その後、七夕記念一人一曲コンサートが始まった。なぜか小さな旅の博物館に常備されている歌の本が一冊あり、それを見ながら一人一曲歌うことになった。ギターは彦さんである。私は「眠れぬ夜」を、Kさんは彦さんオリジナルの「君に寄せる思い」を歌い、Qちゃんはギターを演奏した。皆の歌を聞いていると、自動販売機の方でQちゃんの素っ頓狂な声が上がった。何と、あのチョコバナナジュースを自ら引き当ててしまったのである。事情を知る我々は、腹を抱えて笑ってしまった。こういう偶然もあるのである。

コンサートが終わり、まったりタイムになった。ここで私達は「斜陽ごっこ」を始めた。トド島に行った時、一緒だったRちゃん(♀)がトイレに行きたくなり、ちょうどよい場所が見つからなくて困った話をしてくれた時、私が太宰治の「斜陽」に次のような一節がある話をした。

お母様は、つとお立ちになって、あずまやの傍の萩のしげみの奥におはいりになり、それから、萩の白い花のあいだから、もっとあざやかに白いお顔をお出しになって、少し笑って、
 「かず子や、お母さまがいま何をなさっているか、あててごらん」
 とおっしゃった。
 「お花を折っていらっしゃる」
 と申し上げたら、小さい声を挙げてお笑いになり、
 「おしっこよ」
 とおっしゃった。
 ちっともしゃがんでいらっしゃらないのには驚いたが、けれども、私などにはとても真似られない、しんから可愛らしい感じがあった。

すると、Rちゃんは、「じゃあ、あたしも今度からはそれと同じような格好をしようかな。」と答えたのである。
話題がそのことになったので、部屋から緑色の毛布を持ってきて、KさんとQちゃんが二人でその両端を広げて持った。その向こう側にRちゃんがしゃがみ、すっと立ち上がる。Rちゃんが「かず子や、お母様が今何をしているか、当ててごらん。」
と言う。私が「お花を折っていらっしゃる。」と言う。するとRちゃんが「おしっこよ。」と答えた。事情を知っているのは、我々数人だけなのだが、そんなくだらないことでも大爆笑であった。この日は皆異常にテンションが高く、その後もブラックホールに場所を移して、空が白み始める頃まで騒いでいた。今思うと、この時のメンバーが、星観荘で出会った最高のメンバーだったように思う。

七夕記念一人一曲コンサートも、七夕記念特別ディナーも、その年が最後であった。現在では、この日は夕食がなく、船泊の屋台で夕食を済ますことになっている。

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礼文島断章13・「忘れないで」

2005-04-21 22:51:35 | 旅行記
旧星観荘のブラックホールに「忘れないで」という歌の歌詞を書いた紙が貼られていた(今も貼られているかも知れない)。「忘れないで」は礼文で以前から歌われてきた歌で、作詞・作曲とも不明だとのことである。

「忘れないで」を初めて聞いたのはいつのことだったろうか。彦さんがギターを弾きながら歌ってくれたのも覚えているし、香深港の見送りの時に歌われていたのを聞いた記憶もある。桃岩荘の閉館にやってきたついでに星観荘に泊まりに来た、G子とDでんというキョーレツな女性二人組が歌ってくれたのも覚えている。でも、初めて聞いたのがいつだったかは覚えていないのである。

この歌を聞くと、何とも言えない寂しさに襲われる。
「忘れないで 忘れないで この島のことを」
もちろん礼文のことなんか忘れるはずはない。でも、この歌を聞くと、礼文での楽しい時間が本当に終わってしまうんだ、ということをいやが上にも実感させられてしまう。
「巡り会えた旅人達の 子供のような目を」
そう、礼文に来るたびに、いろいろな印象深い人と出会うことができた。みな、礼文で過ごす一時を無邪気に楽しんでいた。礼文に来たのが何回目か忘れてしまっているくらいの最近の私は、そんな「子供のような目」を失ってしまっているのではないだろうか。
「野山を飾る花よりも美しいものがある それは花に囲まれた飾らない君の笑顔」
そんな人との出会いもあった。熱に浮かされたようにメールを送ったり、手紙を書いたり・・・でも、「愛とロマン」にまで発展することはなかった・・・

二番。
「旅立つ船が見えなくなるまで ちぎれるほど手を振ろう」
礼文で何人の人を見送り、何人の人に見送られただろう。そのたびに大きく手を振り、大きな声を張り上げた。「行ってらっしゃい、また来いよ。」「行ってきます、また来るぞ。」手を振る時の寂しさ、そして、手を振られる時の、後ろ髪引かれる思いは、何とも言い難いものがある。
「最果ての海の色より澄んだものがある それは船のデッキの上で手を振る君の涙」
旅立つ女性の涙ぐむ顔を幾度目にしただろう。流す涙の量は、礼文に残した思いに比例するような気がする。そう言えば、ここ数年涙のうちに出発する人って、見なくなったなぁ・・・

そんな風に、礼文での様々な思い出をそのまま重ね合わせることができるこの「忘れないで」を、何とかして書作品にしたいと考えるようになった。そんな時、ちょうど終了制作計画書の提出期限が迫っていた。6年間の学生生活を締めくくる作品の題材に、最後の一年間入れ込んだ礼文の歌「忘れないで」の歌詞を取り上げようと決意した。

決意までは早かったが、制作には大いに苦労した。歌詞に対する思いが深すぎるあまり、その思いを充分に書作品に表現することができないのである。両者の溝は結局最後まで埋まることはなく、全く不満足なままに作品を提出した。しかし、後から振り返ると、出品作品だけでなく、そこに至るまでの格闘も合わせれば、歌詞への思いは充分につなぎ止めることができたのではないかと思う。



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礼文島断章12・久種湖

2005-04-19 22:49:53 | 旅行記
利尻島には、姫沼、オタドマリ沼といった沼があるが、礼文島にもれっきとした淡水湖がある。それが久種湖である。観光スポットに入っていないせいか、観光バスは湖の横をどんどん通り過ぎるだけで、ツアー客にはさほど知られていないことだろう。そんな久種湖にも魅力はある。今日はそのいくつかを書いてみよう。

○久種湖一周
久種湖は元々湾の一部であったものが、打ち寄せられる砂がたまって海から切り離され、次第に淡水化したものであるという。だから湖そのものが平地にある。周囲には遊歩道が整備されていて、のんびり歩いても30分ほどで1周できる。湖越しに見る礼文岳の姿が印象的である。

○水芭蕉群落
久種湖の奥は湿原になっており、GW頃には水芭蕉の群落が一斉に花開く。私はまだ一度しか見たことがないが、水芭蕉は霜にやられやすく、まだこの時期は霜が降りることもあるので、満開の時期に巡り会うのは難しいそうだ。ちなみに、かつてこの辺りは牛の放牧場となっており、これらの牛たちから採乳された牛乳は、「最北端の牛乳」として売られ、星観荘でも飲めたのだが、現在では牧場はなくなっており、水芭蕉の群落の中で、牛がのんびり草をはむ様子を目にすることはできない。

○森の丘コース
最近整備されたコース。久種湖の脇から、久種湖西側の丘陵へ登り、丘陵の上をのんびり歩き、船泊か、大備の集落に下るコースである。このコースでは、南には礼文岳と利尻山を同時に眺めることができ、来たには久種湖と船泊湾、トド島を同時に見ることができ、大変風光明媚なコースであると言える。現在はほとんど人がいないので、まさに穴場と言えるだろう。

○久種湖の奥の沢
ここは地元の人がたまに入る程度の場所である。私も山菜取りに連れて行ってもらった時に一度入っただけである。草原と沢、森林が入り交じった、礼文ではほとんど見かけない景色が広がっていたのを覚えている。

○冬の久種湖
冬になると久種湖は全面結氷する。かつて一度だけ年末年始に礼文を訪れたことがあるのだが、この時、結氷した久種湖の湖面を歩いたことがある。がちがちに凍っているのではなく、雪の下はショリショリした感じでちょっとスリルを感じたのだが、夏場では貸しボートもなく、久種湖の湖面に出ることはできないので、これは実に得難い体験であったと思っている。天気が良ければ言うことなしだったのだが・・・



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礼文島断章11・Hさんのこと②

2005-04-18 21:18:00 | 旅行記
結局その時、Hさんと一緒にどこかに出かける、ということはなかった。翌日もお互いに思い思いの場所をまわり、YHに戻ってきた。Hさんは、明日から南下し、仙台の道中庵YHに泊まるとのことだった。私もこの後遠野、唐桑とまわり、最後に道中庵に泊まるつもりだったので、夕食の提供のない日などの情報を聞けてありがたかった。翌日、Hさんに見送られ、YHを出発した。

その翌年から、6~7月に星観荘を訪れると、毎年Hさんに出会った。Hさんはいつもたくさんの女性ファンに囲まれ、いつもご機嫌だった。中でも一番印象的だったのは、言葉の不自由な女性が泊まっていた時のことである。彼女はいつも小さなホワイトボードを持ち歩き、筆談をしていたが、Hさんは花のことや島の見所を懇切丁寧に説明していた。さらにHさんは、彼女が島に滞在している間、ずっと一緒に行動してあげていたのである。彼女は山から帰ってくると、とても楽しそうな表情をしていた。Hさんがいなければ、彼女はあれほど楽しそうな表情をすることはもなかったかも知れない。

私の方はどうかと言えば、ゲンゲの丘&召国コースを一緒に歩いたのが忘れられない。確か、Mさん、Iさん、Sさんと一緒だったように思う。ゲンゲの丘で、満開のゲンゲを眺めながら昼食を食べ、Hさんの案内で、一面ピンク色で埋め尽くされたゲンゲの丘を下から眺め上げた時の素晴らしい光景は、今も印象深い。

Hさんは、旅の様子を、「礼文島花と人の旅by風転乃平(どらじい)」とまとめ、私にも数年間毎年送って下さった。どれも時間をかけてとても丁寧にまとめてあり、毎年それを読むのが楽しみだった。また、私が礼文で幻の花の一つに数え上げられているトチナイソウを見てみたいと話した時、実はHさんはその年トチナイソウを見に来ており、しかも、実際に目にして写真に収め、その写真を送って下さった。何気ない一言だったのに、そのことを覚えていてくれたのが、何とも言えず嬉しかったのを覚えている。

そんなわけで、2000年をはさんだ数年間の私の礼文行きの写真には、必ずと言っていいほどHさんが写っている。花の時期に星観荘に行くとHさんがいるのは自然なことに感じられるほどだった。

そんなHさんも、体調を崩されたのか、花の時期の星観荘に来ない年が続いた。私とも、年賀状のやりとりだけになった。そんなHさんが、昨年久しぶりに星観荘に長期滞在した。私は昨年は8月に訪れたので、Hさんに会うことはできなかった。年の年賀状には「体調を崩したりで」とあって、ちょっと心配したが、礼文に長期滞在できたのだから、そんなに問題でもないのだろうと思っていた。

そこへ、突然Hさんの訃報が飛び込んできた。星観荘の掲示板においてである。あまりの突然の知らせに、しばし茫然としてしまった。私の星観荘の思い出の重要な要素の一つが欠け落ちてしまったような気がしたのである。

平沼さん、天国でもいい旅を続けて下さい。ご冥福をお祈りします。

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礼文島断章10・Hさんのこと①

2005-04-17 21:12:45 | 旅行記
花の咲く時期の星観荘(主として6,7月)に、数年前まで毎年のように長期連泊をしているHさんという年配の男性がいた。私も4,5年ほど続けて5~7月の花の時期に礼文を訪れていたが、行くたびに必ずHさんが泊まっていて、時には一緒に山を歩いたりした。

Hさんは年齢に似合わずフットワークが軽く、ある年には星観荘まで自転車を持ってきて、島のあちこちをその自転車で走り回り、あちこちの野山に分け入って、珍しい花や美しい景色などを実際に目にし、写真に収めてきた。写真は毎年アルバムにきれいに整理して星観荘にプレゼントしていた。

そんなわけで、礼文の花や見所に詳しく、カメラのことにも詳しく、その上、記憶力も抜群で、一度でも一緒に野山を歩いた人はほぼ全員記憶していたようだし、気さくな人柄ゆえに、女性達を中心にHさんのファンはたくさんいた。筆まめな人で、写真を送ったり送られたり、ということもこまめに行っていたようである。そして、見習わなければ、と思ったのは、そうして得た知識や経験を、決して他人にひけらかさない、ということである。見所を教える時も、Hさんからひたすら話して聞かせる、というのでなく、相手から聞かれたことに丁寧に答えてあげる、という話し方だった。自ら山に分け入って、素晴らしい花々の群落や、珍しい花を見てきたのだろうが、それを誇るようなことは決してしなかった。やはり、年齢にふさわしい自制をわきまえた人であったように思う。

私がHさんと初めて出会ったのは、十数年前、初めて秋の大雪山に登った時の、赤岳山頂でのことであった。この時ゆわんと村に泊まり合わせ、一緒に山に登っていた人で、層雲峡YHでHさんと一緒だった人がいて、Hさんが声をかけてきたのである。ちょうど私達が記念写真を撮ろうとしていた時で、写真に割り込んでこようとしてきたように思え、私は実はちょっと不満だった。でも、その後話をするにつれ、とても気さくな人であることがわかり、名前は聞かなかったけれど、印象に残る人であった。

星観荘で一緒になったのは、その数年後の6月の礼文においてであった。この時は、赤岳の上で一緒に写真を写したことは思い出せなかった。帰った後、赤岳の写真を見返した時に、実はあの時のあの人がHさんであることに気付いたのである。

その年の8月の終わり、私はふと思い立って、宮澤賢治生誕100周年で盛り上がる花巻を訪れようと思い立った。出発前にYHに予約を入れ、そのまま花巻に向かった。花巻に到着し、国道を外れ、地図を見ながらYHに向かって車を走らせていると、道ばたを歩いている人がいる。きっと国道沿いのバス停からYHまで歩いていく人なのだろう。横を通り過ぎる時、何となく顔をのぞき込んでみると、Hさんのように見えた。でも、まさかこんなところでHさんに会うはずはないと思い、そのまま行き過ぎてしまった。

YHに着いて荷物を下ろしていると、私が泊まっている大部屋に入ってくる人がいた。それが何とHさんだったのである。Hさんも宮澤賢治に関する旧跡を見に、花巻を訪れていたのである。再会を喜び、早速これまで見聞きしてきたことを話してくれた。その日は宮澤賢治の旧家を訪れ、偶然にも当時まだ存命中であった宮澤賢治の弟に話を聞くことができたのだそうである。宮澤賢治ファンなら信じがたい素晴らしい経験だったろうが、宮澤賢治ファンでもないわたしには”すごいこと”くらいにしか思えなかった。でも、Hさんのことだから偶然にもそういうチャンスに巡り会えたのではなかろうかと思われた。

夕食後、Hさんは早速泊まり合わせた人達にその話をして聞かせた。でも、決して自慢たらしい態度ではなかった。宮澤賢治ファンの女性達はそれはそれはうらやましがっていた。どうやら、その日まで泊まり続ける中で、女性達はすでにHさんのファンになってしまっていたらしい。さすがだな、と思った。

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礼文島断章9・カレイ釣り

2005-04-16 21:57:08 | 旅行記
かつて星観荘は船泊港の横にあった。船泊港は、サケやカレイが釣れるので知られている釣りの穴場でもあった。中でも忘れられないのは、カレイ釣りのことである。実は、カレイ釣りは二度しか目にしたことがないのだが、二度とも私の知人がカレイを釣り上げたのである。

一度目は11年前のGWだった。彦さんとえみりさんが礼文岳の山頂で婚姻届にサインする、というイベントが行われたのだが、私は仕事の都合で、その夜のパーティーからしか参加できなかった。パーティーが始まるまでの時間、皆は思い思いに過ごしていた。私は手持ちぶさたなので、その辺をぶらぶらしていると、Yさんが港に置いてある釣り竿を、どうせ釣れていないだろうから片づけに行くという。私も後について見に行くことにした。竿は3本置いてあった。初めの2本は2本とも海藻がかかっていた。Yさんは、3本目もどうせそうだろうと思って適当に引き上げた。引き上げた感じも前の2本と同じようだった。

ところがである。糸が引き寄せられるにつれて、何やら黒いものがこちらに近づいてくる。しかもそれは動いている。Yさんもそれに気付いた。そう、何と3本目の竿には、見事に立派な黒ガレイがかかっていたのである。Yさんの喜びようと言ったらなかった。私もびっくりした。黒ガレイは星観荘に持ち帰り、早速さばかれて刺身となり、その夜の食卓に並んだ。ぷりぷりしてとても美味しかった。

二度目は8年ほど前の6月である。この時は花を見に行った。以前、星観荘in舘山寺温泉が行われた時、雪で新幹線が止まり、高速道路も不通になっていた時、東海道線の普通列車で一緒に東京まで帰ったKさんが泊まり合わせていた。他の人が皆花を見に出かけるのを横目に、KさんはO川の奥までヤマメを釣りに行ったりして、釣り三昧の日々だった。そんなKさんもやはり船泊港でカレイを釣ろうとしていた。しかし、お目当てのカレイはかからず、空しく海藻を引き上げることが続いていたのである。

ある日の夕方、KさんもYさん同様、仕掛けておいた釣り竿を引き上げに行くという。夕食を待っていて手持ちぶさただった私は、Yさんの時と同じく、後をついていった。Kさんは釣り竿を1本しか置いていなかった。それを引き上げると、何とYさんの時と同じことが起こった。海の中に黒い小さな影が見え、それがだんだんと近づいてくる。「Kさん、釣れてますよ!」と思わず声を上げた。Kさんも、引き具合からそれを実感しているようだ。

釣れたのは、Yさんの時とほぼ同じ大きさの黒ガレイであった。私が、「実はYさんも以前、今日と同じく、僕と一緒に竿を引き上げに来て、カレイを釣り上げたんですよ。」と言うと、Kさんは、「なぁんだ、Yと一緒ってのが気にいらんなぁ。」と、満面に笑みを浮かべて答えた。ちなみに、Kさんが釣り上げたガレイは、星観荘の食卓に上ることはなかった。きっとKさんのお宅の食卓に上ったのだろう。

今日は、カレイにまつわる偶然を書いてみた。

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