師匠・今井凌雪先生が亡くなりました。2年以上前から病気療養中で、しかも先頃にはかなり病状が進行しているとの連絡を受けていたので、もはや時間の問題かと覚悟はしていたのですが、それにしても、今日仕事先で兄弟子からその話を伝えられた時は、一瞬言葉を失いました。
私が本格的に書の道に進むきっかけを作ってくださったのが今井先生でした。私が中2の時にNHK教育テレビで放映された「書道に親しむ」を見たのが、先生との出会いでした。その番組の冒頭で先生が「塗鴉」(とあ・書の別称)という2字を書いた大字作品(たぶん畳1枚くらいの大きさ)を制作する様子を見て、私は雷に打たれたような衝撃を受けました。今まで私が目にしてきたのは”書”ではなく単なるお稽古事としての”書道””習字”に過ぎないということを思い知らされました。
そして私は先生が書を書かれる姿を、毎週毎週テレビで目にして、テレビを通して次々に開かれていく様々な書の姿に夢中になりました。先生の筆先から生み出される線、文字、そして作品。関西人である先生の軽妙な語り口と共に、目が離せませんでした。番組が終わった時は、もうこれで終わってしまうのかと思って呆然としてしまったのを覚えています。
その後、先生の友人である村上翠亭先生が同じ「書道に親しむ」の仮名編を担当し、これまた毎週欠かさず見て大きな衝撃を受けた後、私は大学でも書を学ぼうと、縁あって今井先生がかつて教鞭を執っていた筑波大学に進学したのです。そして当時教授として在職していた村上先生にも直接指導を受けました。
大学2年の時、同級生が今井先生に師事した話を聞き、たまらなくうらやましくなり、私も先生に師事しようと画策したのですが、その時はいろいろな人から話を聞いた結果、その話は沙汰やみになりました。そして大学3年生の秋、学外演習で関西に出かけ、先生のご自宅を訪れ、先生の所蔵される名品を鑑賞する機会に恵まれました。テレビでしかお会いしたことのない先生に直にお目にかかれて、感激もひとしおだったのを覚えています。
MC1年生の時は、今私が所属している雪心会という書道会の展覧会についての座談会が催され、会員でない学生の意見を聞きたいという先生からの提案で、私が学生代表ということで、1人の先輩と共に呼ばれ、座談会に参加し、その場で先生と初めて親しくお話しする機会を得たのでした。先生のお話はどれも的確に問題点を突いており、生半可な知識しか持ち合わせていない私などはとうてい太刀打ちできるはずもなく、若さに任せて先生にぶつけた疑問もあっさり論破され、先生の偉大さにただただ圧倒されるばかりでした。 (ちなみにその先輩も現在は雪心会に所属しています)
MCを修了し就職する段に至って、今後どのような形で書を続けていこうかと考えた時、できれば最高の先生に最高の指導を受けたい、自分が尊敬できる先生に師事したい、その先生が書く作品を私が好きな人であるのがいい、様々な書風を良くし、弟子達にもそれを勧めている人がいい、師事するに当たってつてがある人がいい、と考えた結果、それに該当するのはやはり今井先生しかいないという結論に達しました。当時大学に勤めていて、私の恩師でもあり、今井先生の愛弟子でもある中村伸夫先生にその旨を話し、晴れて1994年4月から、今井先生のご指導を受けるようになり、先生の主宰される雪心会にも入会しました。私が書の道に進む原点となった今井先生に直接指導を受けることになるとは、もう運命の不思議さと言うほかありません。
就職してからは仕事と遊びの忙しさに任せて、東京でのお稽古に毎回欠かさず出かけるというわけにはいきませんでしたが、それでも、テレビで見た先生が私の目の前に座って話し、筆を運んでいるのを目にしているのは、何だか夢を見ているような感じがし、それは東京でのお稽古が終わるまでの十数年間ずっと続きました。
私は先生の弟子とはいっても末席も末席で、先生は私のことなど名前も顔も覚えてはくださいませんでしたが、それでも筑波の学生だということだけは理解してくださり、大学の話しを一言二言話したことはあります。お稽古の時に一緒に食事をさせていただいたこともありましたが、奥様と私や他のお弟子さん達が楽しそうに話しているのを目にしながらゆっくりと食事をしていたのを覚えています。
何より忘れられないのは、先生が北京で開いた個展です。この時人民大会堂で記念のパーティーが開催され、先生は席上揮毫をされました。先生が大字を揮毫されるのを拝見したのはこの時が最初で最後でしたが、細字を書く時と同様、懸腕直筆でゆったりとおおらかに筆を運ぶ姿が印象的でした。
また、その2年後に、雪心会の南京と北京を巡るツアーに参加させていただいた時は、比較的少人数でのツアーだったこともあり、先生と接する機会も多くありました。中でも北京のホテルで、骨董品屋が持ち込んだ拓本を会員の人達が大枚はたいて買う中、先生は鄭羲下碑の拓本を十分吟味されて購入されました。先生がこうした買い物をする場面を見たのはこの時一回限りでしたが、先生の膨大なコレクションは、こうして先生が過眼されたものが選ばれて形作られていったものであろうと思われました。
先生は80歳を過ぎてからは老人性の傾向も見られましたが、書を書くことや批評に関しては衰えることなく、お稽古で拝見する筆遣いは、まさに神技と言ってもよいものでした。作品の批評も、私が一番言われたくないことを間違いなく指摘され、毎回冷や汗をかいていました。東京でのお稽古も修了し、先生にお会いするのも3月の雪心会展と奈良での日展の下見会だけになってしまいましたが、先生はいつもそこにお元気な姿を見せていました。
最後に先生にお会いしたのは3年前の8月の、天理で行われた日展の下見会でした。私は当初隷書を2尺×8尺の紙に三行で書いて出品するつもりで作品を書き始め、会場にも持参していたのですが、ふと思うところあって一枚だけ巻物に行草書で作品を書き、それも一緒に持参していました。下見会の様子を見ていて、壁面作品に対する先生の評価は厳しく、どちらかというと巻物や冊子作品の評価が高いようです。私は思いきって本来見せるつもりのなかった巻物を床に広げ、先生に見ていただきました。先生は「これはなかなかよくできていますね。行の上下の空間が狭すぎますね。もうちょっと広くした方が良いですね。それにしても良くできています。」と言われました。この下見会での先生の評価の中では最も良い評価だったので、後ろに控えていた先生はなにやら慌ててメモを取り、私の批評が終わるやいなや、中村先生は私を呼んで、巻物の細かい書式についてアドバイスしてくれ、できたら筑波まで再度作品を見せに来るようにとも話してくれました。
結果的にその先品は私に2回目の日展入選という結果をもたらしてくれました。それには先生のあの批評が力になったとともに、私にとって励みにもなったことは間違いありません。
その年の暮れに先生は病に倒れ、これまでずっと闘病生活を続けてこられたのです。その間、この時が来ることはずっと覚悟してきたつもりです。でもやはり、前にも書いたように、私の書の原点である先生が亡くなったことは、私にとって計り知れない衝撃を与えたことは間違いありません。まだ今の段階では現実として受け入れられていないというのが本当のところですが、様々な機会を通して先生の不在に接するたびに、そのことを受け入れていくとともに、先生の存在の大きさ、そして先生の偉大さを実感していくのだろうと思います。
ここまで長々と書いてきたけれど、先生には”感謝”の一言しかありません。安らかにお眠りください。
私が本格的に書の道に進むきっかけを作ってくださったのが今井先生でした。私が中2の時にNHK教育テレビで放映された「書道に親しむ」を見たのが、先生との出会いでした。その番組の冒頭で先生が「塗鴉」(とあ・書の別称)という2字を書いた大字作品(たぶん畳1枚くらいの大きさ)を制作する様子を見て、私は雷に打たれたような衝撃を受けました。今まで私が目にしてきたのは”書”ではなく単なるお稽古事としての”書道””習字”に過ぎないということを思い知らされました。
そして私は先生が書を書かれる姿を、毎週毎週テレビで目にして、テレビを通して次々に開かれていく様々な書の姿に夢中になりました。先生の筆先から生み出される線、文字、そして作品。関西人である先生の軽妙な語り口と共に、目が離せませんでした。番組が終わった時は、もうこれで終わってしまうのかと思って呆然としてしまったのを覚えています。
その後、先生の友人である村上翠亭先生が同じ「書道に親しむ」の仮名編を担当し、これまた毎週欠かさず見て大きな衝撃を受けた後、私は大学でも書を学ぼうと、縁あって今井先生がかつて教鞭を執っていた筑波大学に進学したのです。そして当時教授として在職していた村上先生にも直接指導を受けました。
大学2年の時、同級生が今井先生に師事した話を聞き、たまらなくうらやましくなり、私も先生に師事しようと画策したのですが、その時はいろいろな人から話を聞いた結果、その話は沙汰やみになりました。そして大学3年生の秋、学外演習で関西に出かけ、先生のご自宅を訪れ、先生の所蔵される名品を鑑賞する機会に恵まれました。テレビでしかお会いしたことのない先生に直にお目にかかれて、感激もひとしおだったのを覚えています。
MC1年生の時は、今私が所属している雪心会という書道会の展覧会についての座談会が催され、会員でない学生の意見を聞きたいという先生からの提案で、私が学生代表ということで、1人の先輩と共に呼ばれ、座談会に参加し、その場で先生と初めて親しくお話しする機会を得たのでした。先生のお話はどれも的確に問題点を突いており、生半可な知識しか持ち合わせていない私などはとうてい太刀打ちできるはずもなく、若さに任せて先生にぶつけた疑問もあっさり論破され、先生の偉大さにただただ圧倒されるばかりでした。 (ちなみにその先輩も現在は雪心会に所属しています)
MCを修了し就職する段に至って、今後どのような形で書を続けていこうかと考えた時、できれば最高の先生に最高の指導を受けたい、自分が尊敬できる先生に師事したい、その先生が書く作品を私が好きな人であるのがいい、様々な書風を良くし、弟子達にもそれを勧めている人がいい、師事するに当たってつてがある人がいい、と考えた結果、それに該当するのはやはり今井先生しかいないという結論に達しました。当時大学に勤めていて、私の恩師でもあり、今井先生の愛弟子でもある中村伸夫先生にその旨を話し、晴れて1994年4月から、今井先生のご指導を受けるようになり、先生の主宰される雪心会にも入会しました。私が書の道に進む原点となった今井先生に直接指導を受けることになるとは、もう運命の不思議さと言うほかありません。
就職してからは仕事と遊びの忙しさに任せて、東京でのお稽古に毎回欠かさず出かけるというわけにはいきませんでしたが、それでも、テレビで見た先生が私の目の前に座って話し、筆を運んでいるのを目にしているのは、何だか夢を見ているような感じがし、それは東京でのお稽古が終わるまでの十数年間ずっと続きました。
私は先生の弟子とはいっても末席も末席で、先生は私のことなど名前も顔も覚えてはくださいませんでしたが、それでも筑波の学生だということだけは理解してくださり、大学の話しを一言二言話したことはあります。お稽古の時に一緒に食事をさせていただいたこともありましたが、奥様と私や他のお弟子さん達が楽しそうに話しているのを目にしながらゆっくりと食事をしていたのを覚えています。
何より忘れられないのは、先生が北京で開いた個展です。この時人民大会堂で記念のパーティーが開催され、先生は席上揮毫をされました。先生が大字を揮毫されるのを拝見したのはこの時が最初で最後でしたが、細字を書く時と同様、懸腕直筆でゆったりとおおらかに筆を運ぶ姿が印象的でした。
また、その2年後に、雪心会の南京と北京を巡るツアーに参加させていただいた時は、比較的少人数でのツアーだったこともあり、先生と接する機会も多くありました。中でも北京のホテルで、骨董品屋が持ち込んだ拓本を会員の人達が大枚はたいて買う中、先生は鄭羲下碑の拓本を十分吟味されて購入されました。先生がこうした買い物をする場面を見たのはこの時一回限りでしたが、先生の膨大なコレクションは、こうして先生が過眼されたものが選ばれて形作られていったものであろうと思われました。
先生は80歳を過ぎてからは老人性の傾向も見られましたが、書を書くことや批評に関しては衰えることなく、お稽古で拝見する筆遣いは、まさに神技と言ってもよいものでした。作品の批評も、私が一番言われたくないことを間違いなく指摘され、毎回冷や汗をかいていました。東京でのお稽古も修了し、先生にお会いするのも3月の雪心会展と奈良での日展の下見会だけになってしまいましたが、先生はいつもそこにお元気な姿を見せていました。
最後に先生にお会いしたのは3年前の8月の、天理で行われた日展の下見会でした。私は当初隷書を2尺×8尺の紙に三行で書いて出品するつもりで作品を書き始め、会場にも持参していたのですが、ふと思うところあって一枚だけ巻物に行草書で作品を書き、それも一緒に持参していました。下見会の様子を見ていて、壁面作品に対する先生の評価は厳しく、どちらかというと巻物や冊子作品の評価が高いようです。私は思いきって本来見せるつもりのなかった巻物を床に広げ、先生に見ていただきました。先生は「これはなかなかよくできていますね。行の上下の空間が狭すぎますね。もうちょっと広くした方が良いですね。それにしても良くできています。」と言われました。この下見会での先生の評価の中では最も良い評価だったので、後ろに控えていた先生はなにやら慌ててメモを取り、私の批評が終わるやいなや、中村先生は私を呼んで、巻物の細かい書式についてアドバイスしてくれ、できたら筑波まで再度作品を見せに来るようにとも話してくれました。
結果的にその先品は私に2回目の日展入選という結果をもたらしてくれました。それには先生のあの批評が力になったとともに、私にとって励みにもなったことは間違いありません。
その年の暮れに先生は病に倒れ、これまでずっと闘病生活を続けてこられたのです。その間、この時が来ることはずっと覚悟してきたつもりです。でもやはり、前にも書いたように、私の書の原点である先生が亡くなったことは、私にとって計り知れない衝撃を与えたことは間違いありません。まだ今の段階では現実として受け入れられていないというのが本当のところですが、様々な機会を通して先生の不在に接するたびに、そのことを受け入れていくとともに、先生の存在の大きさ、そして先生の偉大さを実感していくのだろうと思います。
ここまで長々と書いてきたけれど、先生には”感謝”の一言しかありません。安らかにお眠りください。