桑の海 光る雲

桑の海の旅行記・エッセー・書作品と旅の写真

書道について61

2009-03-31 19:46:03 | 日記・エッセイ・コラム

○大学院1年の頃④

この年の学園祭で、私はあることを計画していた。それは高野切第一種の巻一の復元である。昨年の学園祭の書展で、ある先輩が、現存する巻一の断簡を全部臨書して一巻にまとめた巻物を出品しており、それを見て連続部分がとても多いことを知り、これはひょっとすると巻一全部の復元が可能なのではないかと思うようになった。

また、その学園祭の後に受験した大学院入試で予想を覆して高野切第一種のマイナーな部分が臨書課題として出題され、その出来を仮名担当のM先生から暗に揶揄されるということがあり、それ以外にも、大学院入試のための仮名の持ち込み作品においても色々と意に反する指導をされたために、私は何とかしてM先生の鼻を明かして、ずたずたにされた自分のプライドを回復したいと考えていたのである。

幸い先生はこのような作業について相当関心を持っているらしいというのは、1年半接してきてよくわかっていた。大学院の授業でも、古筆の失われた部分を倣書で補うという課題に取り組んでいた。そこで、大学院に進学した4月以降、少しずつ資料を集め、1学期の終わり頃からは実際に臨書と倣書を始めた。夏休み中には一通り全巻を書き上げ、9月のある日、4年生の学生2人がいろいろな相談で研究室を訪れているところへ、まだ未完成ではあるものの、出来上がった巻物を持ち込み、先生に見ていただいた。

その時のM先生の表情は今でも忘れられない。M先生の「してやられた!」といったような表情。私はこの顔を見たくて、4月からずっと、私には似合わない細かな作業を続けてきたのだ。私はその表情を見て、先生に対して”復讐”できたと確信した。

先生は口元をぷるぷる震わせつつ、いくつかのアドバイスをしてくださった。もちろんその作品はまだ不十分なところばかりだったので、私は内心勝ち誇りつつも謙虚にそのアドバイスに耳を傾けた。特に墨法については私は工夫が及んでいなかったので、ありがたいアドバイスだった。その後完成作品を書き上げ、表具に出し、完成した巻物を学園祭に出品したのである。

しかし、私の”復讐”はそこでは終わらなかった。学園祭が終わった後、今度は修了制作には巻一同様に断簡が多く残る、高野切第三種巻十八の復元をしようと決めていたのである。それを完成させることで初めて、M先生に対する”復讐”が完結すると思っていたのである。

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書道について60

2009-03-16 21:31:27 | 日記・エッセイ・コラム

○大学院1年の頃③

夏休みが開けると、学園祭の準備に入る。この年は色々考えた結果、陳鴻壽の行草書八屏を参考にし、書風も真似て四屏の作品に仕立てることにした。詩文は陳鴻壽の師である阮元の詠んだ詩で、しかも陳鴻壽の書斎を「桑連理館」といったことにちなみ、「秋桑」と題した連作の詩の中の四首を選んだ。陳鴻壽の文字を集めて倣書から入り、次第に書き込んでいって統一感を出すように努めた。しかし、先生方からの評価は今ひとつだった。

学園祭の書展では、陳列に気を使う。基本的には学生がざっと並べたものを、後から先生方の指示で掛け替えるという手順を取る。以前伊藤伸先生が生きておられた頃は、会場全体にぴりぴりした空気が張り詰めていたのを覚えている。そして、一番奥の、先生方の作品が展示される部屋に作品が展示されるのは、学生にとって名誉なことであった。しかし、ある年は学生だけで展示したこともあり、その時は大分不満も出たりして大変だったのだが、この年と翌年は、先生方が全面的に指示を出してくれ、無事に陳列は済んだ。私も初めて一番奥の部屋に展示されたのだった。

学園祭が終わると、いよいよ台湾研修旅行へと気持ちが向かっていく。三年生と留学生の人達は皆準備に大わらわだった。中に四人ほど参加しない学生もいた(しかも企画運営する三年生にも一人いた)が、何故こんな得難い機会に皆と一緒に出かけようとしないのか、とても不思議だった。

旅程は、三泊四日で台北に滞在し、一般的な観光地の他に、故宮博物院と中央研究院を訪れることになっていた。私も一度は出かけてみたいところだったので、とても楽しみにしており、夏休みには三越のお中元のアルバイトに精を出して資金を貯めた。

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書道について59

2009-03-08 21:16:34 | 日記・エッセイ・コラム

○大学院1年の頃②

4年生の頃までは、書専攻を牛耳っているとも言える偉大な先輩方がいたために、その先輩方の采配の元、様々な行事が推し進められていた。私の同級生達もそれぞれに大きな存在だった者ばかりで、そうした存在が一ぺんに去ってしまった後、書専攻をどうまとめていくのか、残された者達の課題であった。そうなると、DCに在籍するNさん、MC2年のSさん、留学帰りでMC1年の同級生となったOさん、そしてMC1年の私と、同級生のS君あたりでその任を負わなくてはいけない。

当座問題なのは、毎年6月に行うのが恒例化しつつあった麦秋展という有志展であった。昨年までは卒業した先輩の号令のもと、後輩達が動いて企画運営を行っていたが、今年はそうした指令期間がなく、仕方なく私があれこれ動いているうちに、いつの間にか主担当となってしまっていた。ここで、学群2年生の時に学園祭書展の、学群4年生の時に卒業制作展の、それぞれ書専攻における主担当をやった経験が役になったのであった。2,4年生の頃はただ押しつけられた仕事を仕方なくこなしただけであったが、その経験がこうして生かされるとは思ってもみなかったことであった。

6月の麦秋展は無難に済み、次の問題は10月に行われる学外演習であった。この年の学外演習は順番としては海外に出かけることになっており、しかも前回北京で予定されていた演習は天安門事件で取りやめとなった経緯もあり、この年の台湾演習は是非とも実現させたいという気運が、書専攻全体の中で高まっていた。その上、学群3年とMC1年、さらには研究生として、台湾からの留学生が3人も来ており、彼らを巻き込んでの台湾行きは先生方によって実現の運びとなることが決定されたのであった。この学外演習の企画運営は学群3年生が担当することになっていた。学群への台湾からの留学生は3年生であったことも好都合であった。

同級生となった、大東文化大学出身で、青山杉雨門下のEさんには、書に関して色々と教わることが多く、また、東京学芸大出身のAさんの、濃墨羊毫の筆運びは初めて目にするものであった。大東文化大学から来て研究生となったT君も含め、他大学から来た人達から良い意味で影響を受けることが多く、ただでさえ狭くなりがちな視野を広げることができたという点でも、MC1年の1年間は大きな収穫であったように思う。

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書道について58

2009-03-07 21:21:39 | 日記・エッセイ・コラム

○大学院1年の頃①

長い春休みの間に、同じ専攻の先輩や同級生、そして別の専攻の親しい友人達とのいくつもの別れがあった。親しい友人のほとんどは、バブル絶頂期にあって、皆一流企業に就職していった。教職に就いたのは同級生の女の子一人くらいだった。

4月になって大学院の入学式があった。同じ専攻には、広島の大学を卒業したばかりのKさんという女性と、D大卒とT大卒の現在では非常勤講師等をしている社会人のEさんとIさんのお二人、そして昨年研究生をやっていた台湾からの留学生Rさん、そして内部進学組の私とS君の計6人が入学したのだった。Kさんはちょっと素性不明だったが、他の人達は皆実力者ぞろいだった。

授業も始まったが、学群時代と変わりないものだった。あえて違っている点を挙げるなら、専攻の授業以外取らなくなったことくらいである。そう、毎日書に関する授業ばかりであった。時間割についても、なるべく何もない日がないように、単位として認められる学群の授業をいくつか入れて、日々の生活にメリハリが付くようにした。

大学院に入って、何と言っても角井先生の講義が始まったのは嬉しいことだった。いろんな事情で、学群時代は角井先生の講義がなかったからである。また、実習の授業も中村、岡本、森岡の全先生の授業があり、特に漢字の実習ではこれまで取り組むことが少なかった篆隷書に、仮名の実習では取り組みたかった元永本古今集や継色紙などに取り組めたのが嬉しかった。

それでもやはり学群時代に比べて時間割のゆとりができたので、図書館に通うことも多くなった。修論のテーマも、どうやら学群時代の連続で、陳鴻壽の周辺をさらに拡大して調べることになりそうなのが、そうする中で定まっていった。

制作の方では、陳鴻壽に加えて何紹基や倪玄璐などに心惹かれ、資料を集めたり、臨書を繰り返したりした。授業で制作するだけでなく、自宅でもこうした人達の作品の臨書を繰り返した。今思うと、この大学院1年の時は、最も書制作に打ち込めた時期ではなかったかと思う。

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