桑の海 光る雲

桑の海の旅行記・エッセー・書作品と旅の写真

書道について35

2007-10-15 21:57:28 | 日記・エッセイ・コラム

○2年生の頃③

村上先生の授業で他に忘れられないのは、何と言っても料紙加工である。

先生が師事されていた先生の1人、桑田笹舟先生は、仮名書道の大家であるだけでなく、平安時代の料紙を研究され、自らもその制作に携わっておられた。村上先生も桑田先生の影響で、自ら料紙を作られていた。そして、自ら習い覚えた技法を、学生達にも教えておられた。大学のある教室が料紙加工部屋になっており、ある時の授業では、先生は料紙加工に取り組ませてくださった。

仮名書道を書かれる先生の技は、全く魔法と言ってもいいものだったが、料紙加工もそうであった。用紙や膠、版木や金箔・銀箔等の加工用具を、まるで日常的に扱っておられるかのように使って、料紙加工のごく基本を見せて下さる。

私達も先生の指導のもと、ごく簡単な加工に取り組んでみるが、全くうまくいかない。もちろん、先生が見ている目の前であるから、緊張していることもあろうが。でも、絵の具を塗り、箔を加工して撒き、といったことは何とかできるようになった。でも、授業での料紙加工は結局その一度だけだった。

先生の授業での提出作品は、料紙加工を自分でした場合は評価が高いと聞いていたので、私は料紙加工の得意な先輩に頼んで、「秋萩帖」「関戸本古今集」の料紙を加工してそれに書いて提出した。「本阿弥切古今集」の料紙は、最難関の料紙なのに、自分で見よう見まね作って、書いて提出した。先生のご退官後も、「高野切古今集」の料紙を加工した。

さらに先生は、「綴葉装(てっちょうそう)」という、平安時代によく用いられていた装丁の技法も教えて下さった。学生の見ている前で、手際よく料紙を切って穴を開けて糸で綴じていかれる。これまた魔法を見ているようだった。出来上がった冊子は抽選で1人の学生の手中に収まった。もちろん私ではない。

私は先生から料紙加工や装丁を教わったのはたった1回きりである。しかし、その後1人でそうしたことをしてみたところ、容易にできてしまった。私はそれくらい先生の作業を集中して見ていたと思われる。

大学院修了直前には、はがきを大量に加工した。その時もいろいろな技法を試してみたりして、楽しく作った。幸いにして今でも、道具さえあればそうした料紙加工や装丁をすることができる。それだけ先生のご指導は強烈で、しかも1度見ただけで私の身についてしまうほど的確なものだったのだろう。

ちなみに先生が去られた後の料紙加工の部屋は、寂しくほこりをかぶっているだけの模様である。寂しいことである。

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書道について34

2007-10-03 21:51:57 | 日記・エッセイ・コラム

○2年生の頃②

村上先生の授業は、先生の著書「かなのレッスン」を用いて行われた。

最初はもちろん「いろは」の単体の練習から。幸い村上先生の「いろは」は、高校時代に使った教科書に掲載されていて、親しんだものであったので、容易に書くことができた。

筆は、仮名の好きな友人が使っていたのと同じく、ミンクの毛で作ったものを使った。本当は、先生が授業で教えてくださった「上代様仮名書」を使うべきなのだが、どこで買えばいいのかもわからないので、仕方なくそのミンクの筆を使った。

紙は、高校時代は改良半紙を使っていたが、先生はロール紙にしなさいとのことだったので、それを1反、1,000枚買ってきておいて使った。

先生の授業は、まず初めにあらましを簡単に話し、その後すぐに実習に移り、実習の時間を多く取るようにしていた。先生は全員の席を回り、1人1人のためのお手本を書いて見せて下さった。初めて私の目の前で「いろは」を書いて下さった時の感動を、今も私は忘れない。中学生の時、テレビの画面で見た筆遣いを、現実のものとして、目の前に見ているのである。先生は私の安い筆を使って書いているのに、不思議なことにお手本の「いろは」と全く同じ線質、そして字形なのであった。「弘法筆を選ばず」という言葉があるが、私はまさにそれを現実のものとしてまざまざと見せつけられたのであった。

先生は、若くして日展で特選を受賞し、かつては将来を嘱望される若手書家であった。その頃同年代で活躍していた人達は、現在では中央書壇で大幹部として活躍している。しかし、先生は40歳代で感ずるところあって書壇を離れた。当時の書壇の幹部からは「お前を書壇で生きていけなくようにしたる。」とまで言われたそうである。事実、書壇を離れた直後は厳しい生活を強いられたと後でうかがった。その後先生がどうやって現在の地位を築かれたのか。それは黙して語られることはなかった。

もちろん、先生の豊かな才能と、その気さくなお人柄を世間が放っておくことはなく、我が筑波大学で教鞭を執られ、NHKの趣味講座の講師を務められ、著書も何冊もおありである。授業でも、そうした大幹部達を、親しみを込めて呼び捨てにして、当時のいろいろなエピソードを紹介して下さるのが、時に授業の良いアクセントになると共に、書壇に対する痛烈な批判が込められていることも、学生ながらに聞き逃さなかった。

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