桑の海 光る雲

桑の海の旅行記・エッセー・書作品と旅の写真

書道について56

2009-01-21 22:14:12 | 日記・エッセイ・コラム

○4年生の頃⑥

卒業制作は1学期の段階で書類で内容を申請しなくてはいけないので困った。実際は後で変更も可能だったらしいが、結局その申請時点で書いてみたい作品を決め、それをそのまま制作に移した。

書コースの卒業制作は3点の作品を提出することが求められる。しかも1点を創作、2点を臨書にしなくてはいけない。また、3点とも同じ分野にしてはならず、漢字・仮名・篆刻・漢字仮名交じり書から複数の分野を含んでいなくてはいけない。

私は漢字が専門だったから、漢字2点仮名1点にしようと思った。漢字作品のうち1点を創作にし、1点を臨書にした。

創作はその頃たまたま陳舜臣の本で読んだ中国・北宋の林逋のことが気に留まり、「梅妻鶴子」で知られた林逋の漢詩の中から、卒業制作を発表する卒業制作展の時期にふさわしい梅の花を読んだ七言律詩を、全紙を縦に二枚継いだ紙に行草書・三行で書くことにした。普段書いている二尺×八尺の紙よりも大きく、筆もいつもより大きいものを使って書いたが、なかなか迫力が出ず困っていたところへ、見かねた岡本政弘先生が極上の二層紙を一反下さり、そこで何とか制作意欲を取り戻し、何とか書き上げた。しかし、出来上がった作品を見るとやはり弱々しく、二層紙故に筆を取られて線に流れがなく、全体として量感にも乏しいものに終わってしまった。

漢字の臨書は平凡社「中国書道全集」に掲載されていた中国・清代の何紹基の隷書四幅が大変気に入って、是非書いてみたいと前々から思っていた。(4年生になってから何紹基の隷書に心惹かれ、臨書を繰り返し、その年の学園祭に出品した作品も、この何紹基の書風を取り入れた隷書作品であった。)この作品はちょうど小画仙半折とほぼ同じ大きさだったので、岡本先生から頂いた紙を使って仕上げた。線の量感は出せたと思うが、量感や豊かさの奥に秘められた強さや風趣までは表現できず、表面的な模倣に終わってしまった。

仮名の臨書は一種のレジスタンスであった。4年生では前任の村上翠亭先生が例年「元永本古今集」を授業で扱っていたので、私もそれを勉強できるものと思って楽しみにしていたのだが、新任の森岡先生は、私の同学年ではたった1人しか受験しない教員採用試験対策と称した授業や、仮名の成立の講義ばかりで、そうした実習をほとんどさせてくれないのを、私は不満に感じていたのだった。だから、あえて元永本古今集に取り組んでみようと思ったのだった。しかし、卒業制作とするには、元永本古今集はあまりに大部であるとともに、何しろ料紙が高価である。また、当時は元永本古今集全部をカラーで印刷した本はまだ出版されていなかったので、料紙の色がわからない。これではどうしようもないので、資料や料紙がそろえやすい、元永本古今集と同じ人の手になる「筋切古今集」の一節を臨書することにした。ただ、清書用の料紙はやはり高価で、1そろえしか入手できなかったので、事前に練習をしておいて、本番は一発勝負となった。実は3点の中で一番良く書けたような気がする。村上先生に教えていただいたやり方で表紙を作り、粘葉装に仕立てた。

こうして出来上がった作品を、3月に開催された卒業制作展に出品した。

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書道について55

2009-01-11 20:51:16 | 日記・エッセイ・コラム

○4年生の頃⑤

大学院入試が終わり、いよいよ卒論に本格的に取り組むこととなった。タイトルは「陳鴻壽」。ただ、陳鴻壽については、日本や中国でまとまった形での論考が発表されたことはなく、難航が予想された。それでも、とにかく作品を中心に、その他断片的な文献資料を少しずつ積み重ねて整理し、その人物像に少しでも迫っていこうと考えた。

4年になる前の春休みから、とにかく図書館に足繁く通い、陳鴻壽の作品の図版を集めた。また、作品の図版に掲載された参考文献を元に、主として中国清朝時代に編纂された地方誌を当たって、陳鴻壽関係の資料を集めた。

そうする中で、陳鴻壽の芸の多彩さ、交友関係の広さが見えてきたし、役人としての経歴や治績も少しではあるが見えてきた。また、砂壺という茶器についてはかなり多くの資料が残されており、これについても述べる必要があると思われた。

結局卒論では、陳鴻壽の生涯(年表も作成)、交友関係、作品解題(書・砂壺・篆刻)を主な内容とし、資料収集において見つかった作品の図版を作品集としてまとめることとした。

卒論と言えば、よく後輩達に作業を手伝わせるという伝統があり、私も2人の先輩の卒論を手伝った。しかし、それを行いながら、どこか間違っている、という印象はぬぐえなかった。私自身は、自分の卒業論文なのだから、全部自分で行いたかったし、他人に任せれば、たとえば図版のレイアウトなど、私の意にそぐわないものが出来上がってしまう恐れもある。だから私は、後輩に下請けに出している同級生達を尻目に、すべてを自分で行った。

卒論は無事提出されたが、作品集も合わせるとものすごく分厚いものとなってしまった。しかもその3分の2以上が図版である。卒論発表会では「陳鴻壽展図録ですね。」と言われてしまったのも無理はない。今手元にあるそのコピーを見ると、文章も極めて稚拙で、原稿用紙1枚で述べられる内容を2枚も3枚も費やしたりしている。一方で、難しい発展的な思考を必要とするところは、あっさり飛ばしてしまっている。その後見つかった新資料を付け加えても、今の私なら、きっとこの半分くらいの分量で、もっと良い論文が書けるのではないかと思われるほどだ。若気の至りとはまさにこういうことを言うのだろうと今では思う。

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