桑の海 光る雲

桑の海の旅行記・エッセー・書作品と旅の写真

よしなしごと27・陳鴻壽⑤

2005-10-11 20:57:45 | 日記・エッセイ・コラム
資料集めをずっと続け、いよいよ論文の執筆となった。生涯をまとめ、年表にまとめるのに主眼を置いた。なにしろ陳鴻壽の年譜はどこにもないからである。書や篆刻、画作品は、解題を中心にした。資料はもちろん漢文ばかりであるから、漢和辞典首っ引きで苦労しながら読んだ。(この時の経験は今でも生きている。)

卒論の体裁は結局、論文編と作品集編の二部となった。作品集には、書の他、画も掲載した。ともに100ページを軽くこえ、合わせると大変な厚さとなった。後にこれを借り出してコピーした後輩のTさんが、コピーがとても大変だったと話してくれたのを覚えている。

今、手元にあるコピーを読み返すと、もう話にならない。1枚で済むところを10枚くらい平気で費やしている。図版と資料の説明が中心で、先生に「陳鴻壽作品展資料ですね。」と言われたのがよくわかる。作品も、かなりアヤシイものがいくつも入っている。今推敲すれば、半分の分量になるだろう。パソコンを使えば、3分の1になるはずだ。でも、その時はそれで大満足だったのだから、若さとは怖いものである。

大学院に進学した後、友人の紹介で、現在芸術院会員のある篆刻家の先生のお宅を訪問する機会があった。友人が話を付けてくれ、その先生のコレクションを見せて下さるとのことであった。お宅を訪問すると、先生は陳鴻壽の印を初めとする印のコレクションを見せて下さるとともに、押印した印影、側款の拓影を下さった。また、壁には以前西レイ(さんずいに令)印社展で見たはずの草書幅、篆刻美術館で見た隷書対聯、それに伊秉綬の隷書幅を見せて下さった。いずれもよく知られた作品ばかりで、大いに感動した。

友人が先生の指導を受けている間、先生のコレクションである「種楡仙館詩鈔」を見せていただき、1年遅れたが、念願の詩集を目にすることが出来た喜びで一杯になり、慌ててページをめくりつつ、目に付いた詩を書き写した。家に戻って清書したが、たくさん書き写したわりには判読できない文字が多くて、我ながら困った。

大学院の修士論文では、西レイ八家の印人の書を取り上げたが、印の側款から見る八人の交流と、側款の書法について言及した以外は、単なる図版・資料集成に終わった。

陳鴻壽はそれ以降も一番好きな書家でい続けている。幸いなことに数年前、中国でも発行されたことのない、陳鴻壽の作品だけを集めた図録「陳鴻壽の書法」が発行された。そこには、初見の作品が多数収められるとともに、篆刻家の先生に見せていただいた「種楡仙館詩鈔」が付録として掲載されていたのである。発行元の二玄社には後輩のR園が勤めていたし、編集には大学院での同期のE藤さんがきっとかかわっておられただろう。私が陳鴻壽の詩集を見たがっていたのを二人は知っていたと思うので、ひょっとすると配慮してくれたのかも知れない。私は早速それをコピーにとり、冊子の形に作り、書作品の題材として愛用している。

坂本直行に関する文章でも書いたが、いつかは陳鴻壽の本物の作品を入手し、日々飽かず眺めていたいと思っているが、これは坂本直行の絵以上に夢のまた夢の話だろう。展示される機会を狙って眼福に預かる他はない。



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よしなしごと25・陳鴻壽④

2005-10-09 20:39:15 | 日記・エッセイ・コラム
調査を続けて行くにあたり、指導教官の先生に、陳鴻壽が生きた地方の地方誌を調べてみるように言われ、実際に様々な資料を見つけることができた。中でも、陳鴻壽が政務を執ったリツ(さんずいに栗)陽県の役所の当時の様を描いた図版を見つけ、その中に陳鴻壽が建てた「桑連理館」の名が記されていたのには感激した。それ以降は、夢の中まで資料集めを続け、実際には存在しない陳鴻壽の伝記を見つけた夢や、陳鴻壽に会えることになり、その寸前で目が覚めてしまったことも一度や二度ではなかった。

調査は行き詰まりを見せ始めていた。もう、陳鴻壽の詩集や印譜を手にする他なくなっていた。でも、いずれも稀覯本で、そう簡単には手に入らない。京大人文科学研究所にも、友人の郭リン(鹿に吝)や従兄弟の陳文述の詩集はあるのだが、陳鴻壽の詩集はない。もうお手上げか、と思っていたところへ、思いも寄らない情報が入ってきた。

現在では発刊されていない「書道研究」という雑誌には、冒頭に文藝春秋と同じような、書家によるコラムが掲載されていた。その中で、K氏という書家が、陳鴻壽の詩集「種楡仙館詩鈔」と印譜「種楡仙館掌印」を持っていて、書作には陳鴻壽の詩をよく書いているとのことであった。これは耳寄りな情報であった。すぐに書作家名鑑で氏の住所を調べ、丁重に手紙をしたため、発送した。

すると、間もなく氏から手紙が来て、都内で行っているお稽古場でコピーをくれるとのことだった。早速その日に出かけると、喫茶店で話をしてくれ、詩集と印譜のコピーをくれた。ただし、どちらも序文のところのみだった。詩集と印譜そのものはもう持っていないとのことだった。嘘は見え見えだったが、ここで何とか全文のコピーが欲しいと食い下がっても失礼なので、序文のコピーだけを有り難く頂戴して帰ってきた。

しかし、この序文は陳鴻壽の生涯や子孫のことを知るにはとても大切な資料となった。こうなると、ますます詩集の全文が欲しくなったのだが、それが手に入るのは、それから数年後のことである。

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よしなしごと23・陳鴻壽③

2005-10-06 21:09:58 | 日記・エッセイ・コラム
陳鴻壽の作品を初めて目にしたのは、今師事している先生のご自宅だった。先生は私が在学している大学で、かつて教鞭を執っておられたことがあり、学外演習で関西を訪れた私達を自宅に招いて、所蔵の書画を見せて下さることになったのである。

拝見した作品はどれもものすごかった。王鐸、張瑞図、呉昌碩、伊秉綬、董其昌らの肉筆作品や、龍門二十品、石鼓文などの拓本が四つの部屋に所狭しと広げられていた。しかも、いずれもほとんど公表されていない作品ばかりであった。

その中に、清朝の文人達の尺牘を集めた大部の集帖があった。著名な文人のものを選んで広げてあったが、その中に、図録で何度も目にしていた書風のものがあった。これが陳鴻壽の尺牘だったのである。

尺牘は全部で十通ほどあった。枚数で数えると約20枚。いずれも朱色や緑色、あるいは美しい模様が刷られた信箋に、例によって丁寧な筆致で書かれていた。もちろん初めて見る肉筆であるから、写真に撮りながら、丁寧に観察した。条幅作品の大きな文字に見られる、首をかしげたような独特の文字結構も共通して見て取れる。また、やはり一通一通で微妙に書風が異なる。とくに白い信箋に書かれたものは他のものと書風も筆遣いもかなり異なるように思えた。おそらく、書かれた時代の違いによるものなのであろう。

この日はもうお腹一杯になって宿に戻った。あの時見た信箋とその上に書かれた文字の美しさは、今でも忘れられない。(そして今年3月、その尺牘に15年ぶりに再会したのである。)

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よしなしごと22・陳鴻壽②

2005-10-05 21:30:10 | 日記・エッセイ・コラム
作品の図版を集めるうち、いろいろな発見があった。

まずは、表現の幅がとても広いということ。楷書、行草書、隷書、印篆書と、様々な書体を良くし、同じ書体でも表現に違いがある。

次に、作品の数が多いということ。さすがに何紹基や趙之謙、呉昌碩のようにはいかないが、図録ごとに違った作品が収められているほどである。

そして、どの作品も瀟洒で気の利いた味わいがあるということ。上述の3人のようなあくの強さは全くなく、爽やかなキレのある線とちょっと首をかしげたような文字の結構が小気味よい。

さらに、絵も書と同様の味わいがあるということ。文人達は詩・書・画・篆刻をいずれも良くしたが、篆刻にも書や画と同じような味わいがあり、おそらくは詩も同様ではないかと思われた。(その時点では陳鴻壽の詩は目にしていなかった。)

卒業研究にあたり、自分の研究する書家や作品を臨書の題材とすることが高く評価されていたのを以前見聞きしていたので、私も早速やってみた。題材は、陳鴻壽晩年の行草書六幅と尺牘である。特に尺牘は数も多く残されているので、繰り返し臨書した。その時の影響は現在に至るまで強く残っているほどである。

研究するからには作品の現物も見たいと思った。大学入試の帰りに東京で行われていた西レイ(さんずいに令)印社展で草書幅を見ていたのだが、当時は全く印象に残っていなかった。ところが、作品の図版を集め始めて間もなく、作品を実際に目にする機会がやってくるのである。

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よしなしごと21・陳鴻壽①

2005-10-04 20:39:47 | 日記・エッセイ・コラム
3年になると、そろそろ卒論のことを考えなければならなかった。そのテーマを考えていた時、ふと思いついたのが陳鴻壽だった。他にも、一山一寧の書や、上野三碑などにも関心があったのだが、卒論のテーマとして広がりが期待できるのは陳鴻壽しかなかった。テーマに迷っていた時、たまたま地元の図書館でばったり会った(奥さんの出身地が私の実家のすぐそばだった)大学の先生と話した時に勧められもしたので、これに決めた。そもそも陳鴻壽の名前は、書道の教科書や二玄社「書道講座」で知っていたが、魅力は感じていなかった。私がその書の魅力を感じたのは、ふとしたきっかけによるものだった。

大学2年の時、先生方の研究室の隣の資料室で、夜、一人で仕事をしたことがあった。資料室にはいろいろな面白い資料があり、仕事に飽きるとそれを眺めていた。中に、聯落くらいの大きさの紙に、書作品を原寸大とおぼしき大きさで印刷したものがあった。それは行草書の作品だったのだが、何とも気の利いた、味わいのある書だったのである。落款には「陳鴻壽」とある。篆刻と隷書が著名な陳鴻壽が、こうした美しい行草書を書いているとは知らなかった。しかもその行草書は、それまで親しんできた明末清初の強くはなやかな行草書とは全く異なるもので、その瀟洒な味わいに、はっきり言えば私はひとたまりもなく参ってしまったのである。

図書館で先生と話し合った夏休みも終わり、2学期が始まると、私の資料集めが始まった。様々な図録をある限り開いては、陳鴻壽の作品の図版を集めていった。

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