桑の海 光る雲

桑の海の旅行記・エッセー・書作品と旅の写真

書道について48

2008-05-10 22:03:23 | 日記・エッセイ・コラム

○3年生の頃⑨

学外演習も無事終わり、いよいよ学生時代も終わりに向かって進み始めた。4年生になると卒業研究もしなくてはいけない。教員免許を取得するための教育実習もしなくてはいけない。

卒業研究には、私の出身の群馬にある、奈良時代に作られた古い石碑について研究しようと、古書店で見つけた高価な研究書を購入してあった。あるいは、一山一寧という鎌倉時代の禅僧の墨蹟にも関心があったので、資料も集め始めていた。一方で、2年生の時に取り組んだ張瑞図の書にも関心があった。さらに言えば、陳鴻壽という清朝の文人の書にも心惹かれるものがあった。

夏休み、実家に帰省していた時に、私は帰省前に参加した雪心会展座談会のテープ起こしをしようと、県立図書館に出かけた。家にはクーラーがなかったので、作業はどうしても夜になってしまう上に、家ではテレビの誘惑に勝てなかったからである。

作業をしようと、高校生で一杯の学習室を避け、閲覧室の空席を探していると、目の前に大学で教わっている中村先生が読書しているのを見つけてびっくりしてしまった。聞けば、先生は群馬出身の奥さんの帰省に合わせて一緒に群馬に来ており、暇なので図書館に来たとのことだった。

先生は私にお茶をしに行こうと誘い、図書館の向かいの喫茶店に入った。そこでいろいろな話をしているうちに話題は翌年に書く卒論のテーマになった。私は現在考えている上記のテーマを挙げると、先生は即座に「陳鴻壽が良いでしょう。他のテーマは難しいかあるいは陳腐です。」と言われた。

私はその場で陳鴻壽をテーマにしようと決めたのだった。ちなみに陳鴻壽との出会いは、大学の資料室に無造作に置かれていた、陳鴻壽の作品の複製を見てふと心惹かれ、手に取って見たことによるものであった。夏休みが終わって大学に戻ると、私は陳鴻壽と名の付く資料は集められるだけ集め始めた。

教育実習のことも気になり始めていた。筑波大の教育実習は、付属高か近隣の協力校で行うことになっていた。しかし、付属高の様々な面での悪評は高く、近隣高も進学校はほとんどなくほとんどが実業高で、先輩は皆苦労していた。まして付属高は東京都内にあるので、ここで実習することになった場合はウィークリーマンションを借りなくてはいけない。唯でさえかつかつの生活をしている私には厳しい話である。まして実業高などという未知の環境での実習なんて到底信じがたいことである。

そこへ耳寄りな情報が入ってきた。何と来年の実習から、一定の条件を満たせば母校で実習できることになったのである。これまでも母校で実習する人はいたそうだ。でも、それは高校側から要請があった場合に限られ、体育などの特別な技能を持つ人に限られていたそうだ。それが来年からは、授業料免除等を受けているにもかかわらず、東京でウィークリーマンションを借りて実習をしなければならならなかったり、近隣の協力校へ行くための移動手段がなかったりするケースには、手続きはすべて自分で行うという条件付で、母校での実習を認めるというものであった。

幸い私は授業料免除を受けているという条件に当てはまるので、実習高決定にあたっては意図的に付属高を希望した。また、母校での教育実習の申し込みは、3年生の4,5月に行うことになっていたが、私の場合は書道という特殊な教科であるとともに、幸いなことに高校時代の恩師がまだ母校に勤めており、私のひどく遅くなった申し込みにも対応してくださったので、私は書コースで初めて、母校での教育実習を行うことと相成ったのであった。

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書道について47

2008-05-07 21:26:42 | 日記・エッセイ・コラム

○3年生の頃⑧

今井先生のお宅でコレクションを拝見し、一番大きな制作室で皆で先生を囲んで記念撮影をした。この時の写真は、今井凌雪・村上翠亭という、「書道に親しむ」という番組を通じて、私を書の道に導いた大恩人の両先生と一緒に写った唯一の、そしてそんな意味で私が最も大切にしている写真である。

今井凌雪先生との出会いは、実はその時が始めてではなかった。3年生の夏に、大学の先生の中村伸夫先生から「今度雪心会展が上野の森美術館であるんだけど、そこで筑波の学生も交えて座談会をしたいと先生が言っている。できれば雪心会員ではない学生がいいとも言っているので、できれば君に行ってほしいんだけど。」と言われた。私は彼の今井先生と直に接することができると聞き、即座に承諾した。

座談会の前に一通り作品を鑑賞し、印象をメモするなどしたが、今井先生に会えるという緊張感で、個々の作品の細かな感想はまとめられなかった上、それも座談会では少しも役に立たなかったのだった。

控え室で座談会は始まった。私は何と今井先生の向かいにOさんと並ぶことになった。先生は病気が回復されたばかりであったが、テレビで見たのと同じ、にこやかな表情をたたえておられた。座談会には、今井先生と中村先生、西橋香峰先生、中国からの留学生の鄭さん、大学の先輩の池田さん、そして在学中の先輩であるOさんと私。私は最年少で、しかも居並ぶ方々は錚々たる面々で、私は緊張しきってしまった。

座談会の前半は、半分以上が先生の独演会で、それに他の先生方が一言二言コメントを加えるという感じで、私とOさんは出る幕がなかった。しかし、後半に入って先生から直にコメントを求められ、思いつくことをぽつりぽつりと話し始めた。すると話したことの10倍くらいのコメントが先生や先輩方から返ってくる。それに対してコメントを求められると、私は答えに窮してしまった。(後で座談会の内容が「新書鑑」にまとめられたが、私はろくな発言をしていない。)

ただただ冷や汗と顔を赤らめるばかりの座談会は2時間ほどで終わったが、全体としてやはり先生の独演会で、後で中村先生に頼まれ、私が文字に起こしてみると、今井先生と中村先生のやり取りだけで座談会全体の4分の3以上を占めていたのだった。

座談会は私自身にとっては極めて不十分なものに終わってしまい、大変心残りなことであった。しかしその3年後、私もOさんもともに雪心会に入会し、今井先生に師事することになるのである。思えばこの座談会が、今井先生に私が師事する大きなきっかけとなっていたのだった。

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