桑の海 光る雲

桑の海の旅行記・エッセー・書作品と旅の写真

「モスモス」のこと・その6

2005-02-27 19:12:56 | アート・文化
それは突然やってきました。そう、モスモス編集部からの電話や手紙はいつもそうでした。座談会の案内、大賞の名刺、そして、投稿のお礼と掲載のお知らせ、採用記念で送られてくるモスモスetc。

話は前後しますが、14号ではつぼにはまった課題が多く、例によって各コーナーにいくつもの作品を送りました。その結果、「弁慶のドラゴン」「しがらみ村」「自画展」に計3作品が掲載されました。絵は下手だったのですが、平安時代の絵巻物の顔をまねて描いたら面白いんじゃないか、思って応募してみたら、見事に採用となりました。でも、実物とは似ても似つかないものです。

で、その14号が発行されて間もないある夜のことです。編集部の女性からの電話でした。
「○○(本名)さんですか?」
「はい、そうですが。」
私はまた座談会か何かの案内か、あわよくば15号の大賞受賞か、と思って色めき立ちました。
「実は、ついにお願いすることになったのです。」
「へ?」
「MVPです。」
「え、えむう゛いぴーですか?!」

MVPと言えば、123456さんをはじめとして、歴代の名投稿家達を紹介(表彰?)する、表紙をめくって最初のページに位置する最も栄誉あるコーナー(私が思うに、です)です。毎号紹介される投稿家達の顔を見て、すでに大賞も受賞し、
投稿回数ではさくらさんに匹敵するであろうとの自負もあった私は、MVPに登場したい!と考えていなかった、と言ったら嘘になります。そこで、私はすぐに、

「わかりました。で、どういうふうに紹介されるんでしょうか?」
と答えました。すると、
「○○さんは、14号から本名をペンネームに変更されましたよね。その辺のいきさつをふまえてご紹介したいのですが。いかがでしょうか。」
「え、とういうことは、本名も、そして、顔もばっちり載っちゃう、ってことですか?」
「そういうことです。」
(まずいなぁ・・・それじゃあペンネーム使い始めた意味がないなぁ・・・しかも顔が出ちゃうし・・・顔はまずいよ、やっぱ・・・見せられるもんでもないし・・・)
「あ、あのぅ、いつぞやの123456さんのように顔を探させたり、NORさんのようにデジタル処理して、顔がよくわからないようにしていただくことはできないでしょうか?」
「出来ればぜひ顔も出していただきたいんですよ。何かまずい事情がおありでしょうか?」
「いやぁ、そんなことはないんですが・・・あ、あのぅ、申し訳ないんですが、2,3日考えさせていただけないでしょうか?場合によってはダメ、ということでもいいでしょうか?」
「わかりました。お返事はできるだけ早くお願いできますか?」
「はい、そうします。」
と言って私は電話を切りました。

さて、どうしよう、どうしよう・・・私は考え続けました。モスモスには、確かに本名で投稿していました。しかし、これはお遊びだから特に本名を隠す必要もないし、モスモスに投稿していることで、遠く離れて住んでいる学生時代の友人達に「俺ってこんなことやってんだぜーっ!」っていうメッセージを送っているつもりだったのです。そのために、本名で投稿することはそれなりの意味を持ってました。でも、社会人となって、それなりの責任や人間関係も生じました。その一方で、モスモスに投稿する作品を作ったり、作品が掲載されたモスモスを見ながら一人悦に入っていたりしていると、何だか自分の中にもう一人の自分がいて、そのもう一人の自分がモスモスという場で何やら作って掲載されて楽しんでいる(別に二重人格、ということではありませんので念のため)ような気がしてきたのです。そうなると、無理に素性や素顔を明かす必要はないんじゃないか、123456さんのように、謎なままの存在でいるのもかえって楽しいんじゃないか、と思うようになってきたのです。本当に2,3日考えて、以上の様なことを書いて編集部にFAXを送りました。電話をするのは、編集部の方に申し訳ない気がしたからです。

結局、15号のMVPは、座談会でお会いし、私が学生時代には、実はご近所に住んでいたくろこふさんが掲載されました。それを見ながら、ちょっと残念な気もしたけれど、まぁ、これでいいや、と自分を納得させました。モスモスサーカスで、MVPが再録された時も、ちょっと残念な気がしたけれど、その時には、あれだけ作品を掲載してもらって、大賞も2回ももらって、その上MVPにまで登場しては、他の投稿家達に悪いよな、と自分に言い聞かせて納得しました。

15号では、「スイム2003」のみの掲載でしたが、それ以外の課題は今ひとつぴんと来なかったように記憶しています。今回は、”MVP登場お断り事件”を扱ってみました。




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「モスモス」のこと・その5

2005-02-26 18:46:55 | アート・文化
これ以降も私は投稿を続けました。以下、各号ごとに出品と掲載の状況を列挙します。

*10号*
この号では「ピカゲラ」のみ応募しました。例によって筆と墨を使い、水墨画調で、微生物系の「ピカゲラ」を描いてみました。
1点応募1点掲載で、掲載率はこの回が一番です。座談会で一緒だった栗かのこさんも掲載されています。

*11号*
この回では「村田の紙」という、「村田帽子店」という架空の店の包装紙を考えるコーナーにのみ応募しました。和紙に墨と朱墨で何通りか書いて送った中の1点が掲載されました。もうこの辺では私の「和紙に墨」路線がすっかり定着していました。この号では、有名投稿家が写真入りで占いをしてもらっており、呼んで欲しかったなぁ~と指をくわえながら見ていたように記憶しています。

*12号*
この年春に地元へ帰り、就職しました。この号では、編集部からの手紙によればいろいろなコーナーに投稿したらしいのですが、記憶がありません。「お名付け内祝」の周囲の”飾り”の部分に小さく掲載されただけでした。

*13号*
私が本名からペンネームを名乗ることとなったきっかけになったのがこの号でした。まず、この号ではすべてのコーナーに応募しました。10作品くらい送ったと思います。その後、「残念ながら採用されませんでした。」の手紙が届き、いささか落胆したのですが、何といきなり13号が届き、開けてみると、「下敷画集」に掲載されていました。ほんの思いつきだったのですが、掲載されてみると、我ながらなかなかの出来じゃないか、などと一人ほくそ笑んでおりました。

ところが、です。何と、職場の人たちにばれてしまったのです。モスモスに投稿していることは、大学時代の友人達から会うたびごとに言われていたので何でもなかったのですが、職場ではそうはいきません。モスモスの実物を持ってこられて、見せびらかされる始末。もう、困ってしまいました。で、ペンネームを使うことにしたのです。当時はまだネットと縁のない生活をしていたので、もちろんH.N.などなく、同僚の方の「だからだめなんだ」という口癖が面白くて「こんなところに投稿して楽しんでいるなぁ。だからだめなんだ。」と、自嘲の意味も込めて名乗ることにしました。

このことがその後どんな事態を引き起こすのか、その時は知る由もありませんでした。


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「モスモス」のこと・その4

2005-02-25 18:21:04 | アート・文化
大賞をもらったのが93年1月の7号でした。8号では採用されず、と言うか、ぴんとくるテーマではなく、言論の自由相談室と伝言板への投稿で、案の定採用されませんでした。

言論の自由相談室では、「モスモス」の1,2号だけ持っていないのでどうすればいいか、という質問を送ったところ「コピーならお譲りできます」という回答が編集部からありました。コピーでは仕方がないのであきらめましたが、何とこの1,2号と「モヌモヌ」は後日思いもよらないことから入手できることになるのです。

9号の「たこンナーレ」は、テーマ発表の段階でぴんとくるものがあり、水色の下敷きにボンド絵、という構想がすぐ浮かびました。出来上がりも上々で、これは掲載されるんじゃないか(このころはこういう予想もだいたいつくようになってきていました。)
と思っていたところ、掲載と相成りました。大賞は逃しましたが、大賞作品もボンド絵で、同じことを発想するヤツもいるんだなと思いながら、届けられた「モスモス」を眺めました。

さて、その年の9月だったと思います。ある日の夜、「モスモス」編集部から突然の電話を受けました。「モスモス」に関しての座談会を、何人かの投稿かをお招きして行いたいので、ついてはぜひご参加いただきたい、ということでした。当日はバイトが入っていたのですが急遽後輩に替わってもらい、期待と不安を抱きながら新宿・箪笥町のモスバーガー本社へ向かいました。

あのモスバーガー本社ということで、どんなすごいビルかと思いきや、意外とこぢんまりとしたビルに驚きつつ(モス本社の方済みません!)、休日ということで社員のほとんどいないビルの中に入っていくと、モダンなデザインの会議室のようなところに招じ入れられました。集まったメンバーは5人。そして2人のスタッフが司会をしながら、投稿者や「モスモス」に登場したことのあるメンバーが、「モスモス」に対する思いなどを話しました。

その場で何が話されたか、私が何を話したかは、全く覚えていません。メンバーには、栗かのこさんと、9号で「後藤の歌謡界」にモデルとして登場した後藤一章さん、投稿していないけれど、「モスモス」にいろいろと意見を寄せている大阪の男性(この人は「モスモスサーカス」にも出ています)がいたのを覚えています。

1時間ほどで座談会は終わったと思います。その後懇親会ということになり、ホールへ出ると、もう一室で座談会を行っていたグループの人たちも出てきました。こちらは私のグループよりも若い人たちばかりでした(私も当時20代前半だったのですが、なぜか年長組でした。)。この中には、大賞受賞経験者のくろこふさんや、小賞常連のさくらさんがいました。さくらさんは手や腰をくねらせるようにして現れ、一見して「こいつは変わったヤツだ」と思わせる人でした。他にも何人かいたのですが、福岡から、確かその年から運行されだした「のぞみ」に乗って日帰りするという女の子がいたのを覚えています。

その後、会場を移して懇親会になりましたが、今思い出しても不思議な不思議な懇親会でした。料理はモスのメニューいろいろで、モスチキンの好きな私は、そればかりパクついていたと思います。その場で、やはり9号で募集されたアップルパイの歌のCDが流れ、皆で歌ったりしたのですが、座談会参加者はみんなあまり楽しそうでなく、休日なのにネクタイを締めて出社しているスタッフだけが気まずそうな顔をしながら歌ってたような気がします。

「モスモス」の編集者は、後で聞いたところによると、デザインや出版の方面でも有名な方が多く、当日もそういう方が何人も来ていたようなのですが、何しろ座談会参加者はみんな素人の方ばかりだったし、みんな自分の世界を持ってる人たちばかりで、話もほとんど弾まず、大阪の人(この人はデザイン系の仕事をやっている人だったらしい)がスタッフと楽しそうに話しているだけでした。私も、実は近くに住んでいたくろこふさんと少し話しただけで、結局あまり盛り上がらないうちに、約1時間の懇親会は終わりました。

懇親会の会場には、「モスモス」のバックナンバーや、「モヌモヌ」、大西重成氏の作品などが展示してありました。私がおそるおそる「この『モスモス』のバックナンバー、いただいてもいいんでしょうか?」と尋ねると、「いいですよ」の返事。座談会参加者の手が一斉に伸びました。特に「モヌモヌ」は、1都3県でしか配布されなかったので、貴重品です。皆入手できて嬉しそうでした。私は念願の1,2号が手に入り満足でした。

その後、各種プレゼント(今思うとけっこう高額な品々だった。バブル時代の名残だろうか・・・)を頂戴し、皆帰途につきました。
福岡から来た女の子は、午後6時ののぞみに乗ればその日のうちに帰れる、と、かなり高額の交通費を手に急いで帰っていきました。私も、なんだか不思議な夢を見たような気分で、高速バスの出る東京駅へ急ぎました。

座談会の様子は「モスモス」に掲載されることもなく、その内容がどういう形で「モスモス」に反映されたのかはよくわかりません。あのメンバーがどういう基準で選ばれたのかもよくわかりません。それ以前に、この座談会と懇親会がどういう目的で開催されたのか、結局何もわからないままでした。でも、あの「モスモス」のためだからこそ、こんな会でもよかったんじゃないか、と考えてます。「モスモス」という小冊子の存在にも、そこに収められた各種投稿作品や連載作品、さらには大西さんの作品にも、この座談会と懇親会で感じた「空気」が流れていたように思います。

「モスモス」に関する、ごく一部の人しか知らない話を今日は書いてみました。


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「モスモス」のこと・その3

2005-02-24 18:53:52 | アート・文化
送って少しして、突然編集部から電話が来ました。
「『お面屋』のコーナーで大賞に選ばれました。つきましては、賞品としてオリジナルの名刺をお作りしますので、お名前、ご住所、郵便番号、お電話番号をお教えください。ただし、名刺の肩書きは『マスククリエーター』となりますが、よろしいでしょうか?」

びっくりしました。まだ1度しか掲載されていなくて、今回も掲載されればいいや、と思っていたからです。それが、大賞とは。しかも、あんな手抜きの作品が。(事実、作品のコメントには「楽しましたね。」とあって、読んで汗が出てしまいました。)大賞に選ばれた人が、どんな賞品をもらえるのか知らなかったのですが、オリジナルの名刺、しかもオリジナルの肩書き、さらには作品の写真入り、というのがいかにもモスモスらしくて、程なく送られてきた名刺のゲラ刷りをみて、本当にうれしくなってきました。

そして、「神田本の町」の紙袋で作られたお面(というか覆面)は「モスモス」に掲載され、私も大賞受賞者の仲間入りをしたのです。名刺も送られてきました。この号では「乱鳥漢和辞典」(創作漢字コンテスト)でも作品が採用され、二重の喜びでした。

名刺はひとまず使い道がなく、しまっておいたのですが、その年の初夏に北海道へ行ったとき、同じ宿に泊まりあわせた人たちに何の気もなしに配ってしまい、今では3分の2ほどしか残っていません。今思うと少々残念です。

友人からの反響は少しだけありました。友人達の多くは大学を出て、離れて住んでいましたが、掲載後まもなく、初めてモスに行った時に一緒だった友人から、「おまえ大賞とっただろ。やるじゃん。面白かったよ。」と言われ、少しばかり鼻高々になっていました。

この大賞受賞の経験によって、「モスモス」が私にとって、普段の私とは違った自己表現ができる場であると思うようになりました。年にたった4回ではあるけれど、日頃の自分から離れて、気楽な気持ちで楽しみながら作品(と言えるかどうかわからない雑多なものばかりだったけれど)をこしらえる時間は、私にとって、なんだか「もう一人の自分」を楽しんでいるかのようにも思えていました。

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「モスモス」のこと・その2

2005-02-23 19:19:22 | アート・文化
投稿して間もなく、編集部から手書きの手紙と、投稿記念のバッヂが送られてきました。たくさんの作品が送られているだろうに、それに対して一つ一つこうした返事を書いているのは立派だなと思いました。

手紙には「初めての本格的作品に、思わず”うわぁ”と声をあげてしまいました。」とあって、どうやら真面目な作品を送る場ではなかったことを知りました。手紙にはさらに続けて、「4号は、そろそろしめ切りなので、そろそろそろりとはじまりそうです。」とあって、そこまで読んで初めて「モスモス」真面目な雑誌ではなくて、投稿する人が真面目に”楽しむ”場であることを知ったのです。

さらに続けて、内容確認のためのコピー入りの手紙が来ました。発行と時期を合わせて、作品の掲載された「モスモス4号」が届きました。コピーでしかわからなかった他の入選作を見た時は、自分の勘違いに愕然としました。1位の作品は、「牛蒡」と書いた線の一部が牛蒡の絵になっており、それ以外の作品も、内容・書風とも、遊び心いっぱいのもので、私の作品だけが妙に浮き上がってました。

そんなショックからか、課題が自分に合わなかったこともあって4号と5号では投稿しませんでした。5号と6号は直接モスで入手しました。

そして6号では、「モスモス」と私の関係を決定づける課題と出会うのです。それが「乱鳥漢和辞典」「お面屋開店」でした。私は国語が好きだったので、まず「乱鳥~」に目がいき、投稿してみることにしてみました。そして、いくつかの漢字を考えて送ろうとしていた時、たまたまそばに置いてあった「神田本の町」の紙袋が目に入りました。紙袋に、開いた本の絵の上に「神田本の町」のロゴだけが印刷されたシンプルな図柄の紙袋でしたが、私にはその図柄が何となく微笑んでいる人の顔のように見えたのです。そういえば今度のモスではお面を募集してたな、よし、これをちょっとだけ手を加えて、そうだ、紙袋はそのまま使って、目鼻口のところに穴を空けるだけで、頭からかぶるお面にしてしまおう、でも、ただ穴を空けるだけでは手抜きだから、ヒゲのつもりで文字を書き加えよう、と考え、ほんの数分間、カッターを使って穴を空けたりの細工をして、漢字と一緒に封筒に入れて送りました。

書道の時は、掲載されても反響が全くなかったので、今回も本名のまま送ってしまいました

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「モスモス」のこと・その1

2005-02-22 19:33:48 | アート・文化
今日から、以前モスバーガーで配布されていたフリーペーパー「モスモス」について書きます。

私が「モスモス」と出会ったのは、大学3年の時でした。例によって友達の家にたれ込んでだべっていた夜、小腹の空いた誰かが「モスバーガー行こうゼ。」と言い出しました。酒を飲んでいなかった私が車を運転し、車で20分ほどかかるモスへ行きました。(因みにモス行ったのは、その時が初めてだったのです!)

初めて食べたのは、確かモスバーガーとジンジャーエールとポテトだったと思います。バーガー類は、マックやロッテリア、ケンタッキーのしか食べたことがなかった私にとって、他と全く異なる、分厚いトマトの挟まったモスバーガーは、新鮮な驚きでした。そして、その出来上がりを待っている時に友人が手にしたのが、「モスモス」だったのです。まさに運命的な出会いでした。

私は大学ではART系の学部に在籍しており、一緒にモスに行った友達も彫刻家や画家、デザイナーのタマゴ達でした。はじめに「モスモス」に関心を示したのは、グラフィックデザイナー志望の友達でした。(因みにその友達が描くイラストは、今思うとシゲチャンと相通じる世界があり、関心を持つのもよくわかる気がしました。)彼がモスモスをぱらぱらとめくり終わると、最後のページに目をやり、「『モスモス書道塾』だってよ。○○〈私の本名〉応募してみなよ。」と言いました。

まだ将来については未定だったけれど、テレビや商品の題字を書いてみたいなどということも夢見ていた私は、自分の書が、専門家以外の人にどう評価されるのか関心もあったのでいっちょやってみるかと考え、モスモスを持ち帰ることにしました。
(その時のモスモスは今でも書架にあります。)

この時友達がモスに行こうと言い出したから、そして、モスモスを手に取ってくれたから、さらに書道塾の募集をしていて、「出してみないか」と声をかけてくれたから「モスモス」に投稿することになったのです。今では友達に感謝感謝です。(因みにその友達は後に某有名企業のデザイナーとなり、彼のデザインした商品は、このブログをご覧の皆さんのお宅の、特に台所や洗面所、お風呂場周辺に必ず一つくらいはあるはずです。)

さて、モスで空腹を満たした後友達の部屋に戻り、そして自分の部屋に戻って、早速作品の構想を練り始めました。言葉は何にするか、書風はどうするか、道具はどう工夫するか、等々。しかし、悲しいことに私はモスモスに掲載された作品群の「遊び」の要素にまだ気づけていませんでした。よって、その場でできあがった3点ほどの作品は、ごく常識的な当たり前の書道の作品でした。でも、自分なりには楽しんで書けたので、そのまま送ってしまいました。掲載されるとも思っていなかったので、そのまま本名で出してしまいました。



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シルクロード・その18

2005-02-20 22:15:55 | 旅行記
ウルムチの最後の夜は、フリーということで夕食が付いていない。天池のメンバーで、現地ガイドの案内で、現地の人が行く食堂へ行くことになった。食堂はバザールの路地を入ったところにあった。薄暗い店内には、現地の男性が楽しそうに食事をしている。そこへ我々が入っていったものだから、人々の注目を浴びてしまった。

現地ガイドの人が適当に見繕って料理を注文してくれたのだが、覚えているのは4つだけである。ラグ麺とケバブ、そして抓飯(ポロ)と、羊肉の煮込みである。抓飯は、新彊風ピラフである。ご飯と一緒に炒められた黄色いニンジンが、チャーハンに独特の甘みを加えている。このチャーハンには、必ず羊肉の味付け煮込みが添えられる。これらを合わせて食べると大変美味しい。羊肉の煮込みは、羊肉をぶつ切りにして塩とたくさんの香辛料を煮込んだだけの料理である。これが出されてきた時はちょっと面食らってしまったが、いざかぶりついてみると、美味しい。時間をかけて煮込んであるので、肉も軟らかくなっている。さらに、今回の旅でよく食べたナンが添えられており、スープにナンを付けて食べると、これが絶品である。皆で一緒に食べる夕食はこれが最後ということもあり、ビールも注文して、大いに盛り上がった。そして、皆お腹一杯になって、羊臭くなりながらホテルへ戻った。南山牧場へ行ったIさん親子は楽しかったと言っていた。Sさんの体調も回復していた。

翌日は上海へ移動するのみである。昼食も機内食である。飛行機はあっという間にウルムチ空港を飛び立った。あまりにあっけない旅立ちで、シルクロードに思いをはせている暇もないほどだった。上海には3時頃着くとのことだったので、上海の町で本を買おうと考え、地図を見ながらあれこれ予定を立てていた。

飛行機が空港に到着した。ところが、機内放送に耳を傾けてみると「ベイジン」と言っている。Tさんに聞くと、北京に到着したとのことだった。つまり、この飛行機は北京経由上海行きだったのである。そんなことは聞いていないし、日程表にも書いていないので、最後の最後でTさんに抗議してしまった。でも、来てしまったのだから仕方がない。1時間ほどして飛行機は上海へ飛び立ち、上海に到着した。

ホテルに到着して、この後の説明を聞いた。上海では、フリーの夕食をとった後、上海雑伎団の公演を見ることになっていた。これは、上海を発つ前に提案があって、皆で申し込んだものである。ところがホテルに着いて現地ガイドに聞いてみると、何と公演は上海雑伎団専用の会場ではなく、市内のホテルで行われるという。そんなことは以前に聞いていなかったので、皆が現地ガイドに抗議した。ガイドのTさんも、スルーガイドの女性も抗議した。そして、皆でキャンセルすることにその場で決めてしまい、皆ホテルの部屋に戻ってしまった。残された現地ガイドとチケットはどうなったことだろう。

私はその後上海の町へタクシーで出かけた。Tさん夫妻も上海の夜を楽しむとのことだった。私はお目当ての書店の近くのホテルまでタクシーで行き、書店を探したものの、見つからなかった。もう少し時間があれば見つけられるのに、と、今日の旅程を恨んだ。たまたま目に入った書店で、書道関係の本を何冊か買ったが、いささか不満であった。

そんな不満を晴らすべく、最後の夕食は豪勢なものにしようと思い立った。タクシーに乗り、告げた行き先はヒルトンホテル上海。上海で最高級の5つ星のホテルである。タクシーから降り立つと、さすがに入るのに躊躇したが、夏場と言うこともあって、客は皆ラフな格好をしていたので安心した。ちょうど目の前にビュッフェ形式のレストランがあったので、そこで夕食にすることに決めた。ピアノの生演奏が行われており、ちょっと場違いな感じがしたが、決意を固めて中に入った。カップルやビジネスマンが多いようだが、そんなに堅苦しい感じではないので安心した。他の客が食べているものを見て回りながら、調理をしているコックに適当に注文した。目の前で肉や魚を手際良く調理してくれる。できたての料理をほおばった。ビールも注文した。お腹一杯になった後は、デザートバイキングでケーキやムースをいくつもとって食べた。まずまずの味だった。会計をしてもらうと、5,000円くらいになった。中国の食事では破格の値段だが、最終日なので、まぁ、いいだろう。ビールのおかげでかなりいい気持ちになり、ホテルへ戻った。

翌日は日本へ戻るばかりである。昼前に空港に到着し、あっという間に機中の客となる。機内でアンケートを書かされたので、感想をかなり率直に書いた。しかし、四季の旅社はこの3年後に倒産してしまったので、あまり役には立たなかっただろう。機内では、Tさん夫妻と、Iさん親子とで住所を交換した。ウルムチでTさんが住所交換を提案したのだが、実行されなかったところを見ると、異論が出たのだろう。

そうこうしているうちに飛行機は成田に到着した。ガイドのTさんに別れを告げ、Tさん夫妻と、Sさんと一緒に京成電車で上野まで戻った。(Iさんは、後の手紙で、成田到着後そのままミラノへ飛ぼうと、トルファンでひそかに決意していたそうだが、飛行機が満席でダメだったそうだ。もし行けることになったら、さりちゃんに20,000円を渡して、一人で広島まで帰らせるつもりだったそうだ。なんちゅー親だ、と思ったが、それもIさんらしかった。)Tさん夫妻が途中下車した時、まだ家にも着いていないのに、今回の旅が終わってしまったような、何とも言えない寂しさに襲われた。Tさん夫妻あっての今回の旅だったと、私は強く信じている。なぜなら、その2年後に、同じくシルクロードを15日間、今度はカシュガルやホータンも巡るU社の旅に参加したが、全然楽しくなかったからだ。もちろん観光地は楽しかったが、ツアーの人達との交流がほとんどなかったからである。やはり旅の楽しさの多くは、一緒になった人達との交流にあるのだ、ということをこの時も実感したのである。

今日、NHKで新シルクロードの第2回をやっていた。ちょうどトルファンのベゼクリク千仏洞を特集していた。トルファンも10年の間にすっかり近代的な都市に生まれ変わっていた。しかし、ウィグル族の人達の目の優しさは変わりがなかった。久々に行ってみたくなったけれど、きっと10年前の思い出を壊しに行くことになるだけだろう。だから、あの時の記憶が薄れるまで、行くのは我慢しようと思う。薄れる前に、あの時の旅のことを、今回長々と綴ってみた。そうしないと、その時の記憶はどんどん薄れていくだろうと思われたからである。でも、書き続ける中で、一緒だった人達の顔が、目にした素晴らしい光景が、脳裏によみがえってきた。Tさん夫妻、Iさん親子、Aさん、Bさん、ケンちゃん、そしてガイドのTさん(今はどこにお勤めだろう?)、皆さん元気だろうか?このブログを奇跡的に目にしてくれる人がいてくれると嬉しい。





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シルクロード・その17

2005-02-19 21:59:53 | 旅行記
いよいよ最後のイベント、天池行きである。メンバーはTさん夫妻、Bさん、Eさん夫妻、Gさん親子と私の8人。現地ガイドの方が付いていくことになった。Sさんが体調を崩したので、ガイドのTさんが付き添い、南山牧場へ行ったI親子とケンちゃんにはスルーガイドの女性が付き添った。それ以外の人はどうしたのだろうか?ツアー代金は3,000円(5,000円だったかも知れない)くらいだったと思う。天池まで3時間以上かかるので朝食後すぐ出発した。通勤時間帯ということで、道路は混雑していた。特に自転車が多かった。

バスは次第に市街地を離れ、畑の続く中を東へと進んでいく。トイレ休憩の時に目を覚ました以外は、山道にさしかかった頃まですっかり眠り込んでしまったので、それまでの様子は覚えていない。気が付くとバスは山道をあえぎあえぎ登っていた。谷間の平地には、カザフ族のパオが点在している。

急に目の前に建物群が目に入ってきた。天池観光のための休憩や宿泊の施設である。ここで入場料を払って、バスはさらに登っていく。途中、眼下に二つの沼が目に入った。ガイドブックによれば、これがかつて西王母という仙女が足を洗ったという伝説のある池なのだという。その辺りから針葉樹の森に入り、森が開けたところが天池であった。

バスを降りると、かなり涼しい。念のためパーカーを持ってきたのが役に立った。工業都市であるウルムチに比べると、空気が実にきれいで、気持ちが良い。駐車場の上には2,3件の小さなホテルも並んでいる。平日のためもあるのか、観光客はあまり多くない。観光用の馬とその御者が暇そうに並んでいる。

天池は、旅の最後の締めくくりにふさわしく、美しい姿を私たちに見せてくれた。雲一つ無い天気である。天気が良すぎて、水面が眩しい。コバルトブルーの水面を、鬱蒼とした森が囲み、山々が連なり、その一番奥に、万年雪に覆われた真っ白なボゴダ峰が聳えている。その何とも言えない神秘的な景色に、しばらくは見入ってしまった。現地ガイドの人も、これだけ良い天気なのはなかなかない、と言っていたのも嬉しかった。

まずは遊覧船に乗った。水面には2艘の遊覧船があり、交代交代で周遊している。15分ほどかけてゆっくりと周遊した。水は透き通り、とても冷たそうである。ボゴダ峰が近づいてくると、皆から歓声が上がった。あの真っ白な山に降った雪や雨が、このコバルトブルーの天池へと流れてくるのである。夏でも雪を頂く山から流れてきた水をたたえるこの湖に、神秘的な伝説が語られるようになるのも何となくわかるような気がした。

船着き場へ戻り、今度は馬で岸部をまわることにした。天池からは湖水が滝となって流れ落ちているという。その滝まで行ってくれるとのことだった。天池と、「池」と名が付いてはいるものの、大きさは中禅寺湖よりももっと大きいように思われたから、滝も、中禅寺湖から流れ落ちる華厳の滝のように、さぞや雄大なものだろうと期待して出かけて行った。ところが、滝は意外と小さかったのである。落差は10メートルほどだったであろうか。滝壺もなく、流れ落ちた水は、そのまま急流となって流れ落ちていた。ここでTさん夫妻と写真を撮りあい、岸辺へ戻った。岸に戻ると、怒声が聞こえる。聞き覚えのある声だ。現地ガイドの方が馬を管理する人達とトラブっているらしい。馬に乗らなかった人に聞くと、つかみ合いのけんかをしているという。少しするとけんかはやんだようで、ガイドの方が戻ってきた。ワイシャツが汚れ、髪も乱れている。相当なけんかだったと見える。きっとその相手も、敦煌で見たような「質の低い人」だったのだろう。ガイドの人はけんかの理由を話してくれたように思うが、覚えていない。

岸辺で集合し、湖畔のホテルで昼食となった。ここでの食事は、今回のツアーの中で数の面でも質の面でも最も質素なものであった。現地の観光客とおぼしき人達も、皆同じようなものを食べていたので、これで精一杯、というところなのだろう。コップに磨き粉が残っていたのが気になった。

その後出発した。二度と来ることはないだろう天池とボゴダ峰の姿を目に焼き付け、バスに乗った。バスが森に入ると、天池もボゴダ峰もすぐに見えなくなってしまった。

山道を下る途中で、現地ガイドの人が、カザフ族のパオに寄らないかと提案してきた。皆それに賛成し、途中で見かけた1軒のパオに寄らせてもらった。どうやら観光客向けに公開しているようだ。ドーム状に木を組み、分厚い毛織物をかぶせ、室内は色鮮やかな敷物と壁掛けで装飾されている。内部は、私たち8人が座ってもかなりゆとりがあるので、8畳くらいの広さがあっただろうか。そこで、ミルクティーとパン、チーズを頂いた。どれも味と匂いが強く、初めはちょっと抵抗感があったが、食べ慣れると実に味わい深いものであった。パオに住んでいる女の子が現地の歌を歌ってくれた。澄んだ声がパオの中に響いた。帰り際、バスの中で教わった別れの言葉「ハルホシ!」をかけると、家族も「ハルホシ!」「ホシ!」と返してくれたのが嬉しかった。

後は例によって眠り込んでしまった。平地に降りて来て、道ばたでハミ瓜を売っているのが目に付いた。誰かが提案して、それを買って食べよう、ということになった。そこで、ポプラ並木が続く下で売っているところに停車し、皆バスを降り、ガイドの人が大きなハミ瓜を選び、持っていたナイフですっぱりと切り分けた。ハミ瓜やスイカは、現地の人々には果物やデザートとしてでなく、水分を補給するためのものとしてとらえられている。だから、一服しながら瓜を食べていたり、昼寝をしている横に食べかけの瓜が置いてあるような場面に何度も遭遇した。ハミ瓜は、ラグビーボールのような細長い形をしている。色は夕張メロンの色を薄くしたような感じ。味はメロンそのものであるが、メロンよりさっぱりしているので、たくさん食べられる。そして何よりの違いは、メロンと違って実が固いということである。その固さは、メロンの皮に近いところ、といったところである。しかし、その固さは苦になることなく、むしろサクサクとした食感が心地いいくらいである。私たちは、ガイドと運転手も含めた10人で、2個の大きな瓜を食べ尽くしてしまった。

疲れた体に糖分と水分を補給してバスに乗ると、心地よい眠りのうちに夕方のウルムチに到着した。

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シルクロード・その16

2005-02-18 21:31:07 | 旅行記
トルファンを朝早くバスで出発した。今日は200㎞近く離れたウルムチまで一気に移動する。

バスはすぐにトルファンの町を通り抜け、砂漠に入る。砂漠の中の分かれ道にやって来た。北に行けばトルファン駅である。昨日はこの道を北からやって来た。今日はそのまま西へ向かう。そのまましばらく砂漠の中の一本道を進んでいく。寝不足でもないのに、すっかり眠り込んでいたらしく、ほとんど記憶がない。というか、砂漠のど真ん中で、何も見るものがなかったので、記憶がないのである。

バスは山道にさしかかった。この道はウルムチとトルファンを結ぶ幹線道路なので、交通量も結構ある。中には例によって年季の入った車もあり、山道をあえぎあえぎ登っているので、本来はあまりスピードも出ないこのバスも、次々にそうした車を追い抜いていく。途中、皆からガイドのTさんに歌を歌ってほしいとのリクエストが入り、得意の英語で「アラジン」のテーマを歌ってくれた。

そうこうしているうちに、ちょっとした集落に入った。これまでで一番大きな集落である。そう言えば、ちょうど峠にあたる場所のようだ。おあつらえ向きにドライブインがあり、観光バスが数台止まっている。トイレ休憩になるが、トイレの横には例によってお土産店。書画を書いて売っている人がいたので、筆を貸してくれるような素振りを示し、筆を貸してもらい、画仙紙に「満目青山」と大きく書いた。その人はかなりびっくりした様子で私を見た。

ここからはひたすら山を下る。途中に漢代の烽火台の跡があり、下車して写真を写す。山を下りきると、緑色の大地が現れた。あちこちに木々が見え、緑色に見えるところは牧草地か草原のようである。これまでしばらくは砂漠ばかり目にしてきたので、緑の大地は目に新鮮である。そして、もう一つ目に入ったのは、遠く霞む天山の山並みである。高いところでは5,000メートルを超える山々で、夏なのに真っ白に雪を頂いている。あの中に、明日、近くの天池まで行くところのボゴダ峰がある。鬱蒼とした緑に囲まれた、天池の真っ青な水面の向こうに、真っ白なボゴダ峰が聳えているのだという。ガイドブックで目にしていたが、昨日オプショナルツアーの話を聞いた時、迷わず申し込むことにした。

家が多く目に入るようになり、車が増えてくると、やがてウルムチの町に到着した。ウルムチは新彊ウィグル自治区一の都市で、工業都市として作られた新しい町である。トルファンまで乗ってきた列車も、終点のウルムチで働いている人がたくさん乗っていると聞いていた。ビルも多く見えてきた頃、昼食をとるホテルに入った。ここは現地の人も多く利用するようで、昼間からの宴会を楽しんでいる人もおり、そうした人に囲まれて、ちょっと場違いな思いをしながら、昨日と同じような食事をとる。

昼食後は新彊ウィグル自治区博物館を見学する。ここは新彊ウィグル自治区に住む人達の風俗を紹介するコーナーと、各地の遺跡から発掘された出土品を展示するコーナーに別れていた。新彊ウィグル自治区にはたくさんの民族が住んでいるが、現地ガイドの人は、そうした民族ごとの特徴を細かく話してくれて、非常に興味深かった。キルギス族という民族にはあまり好印象を持っていないようであった。出土品のコーナーでは、昨日見たアスターナ古墳からの出土品に目がいった。特に、お菓子や点心。墓におさめられた当時の料理が、極度の乾燥によってそのまま残っているのである。特に、月餅と餃子は現在とほとんど変わらない形をしているのには驚いた。

博物館を出た後、バザールに寄った。トルファンでもバザールに寄ったが、さすがに町の大きさが違うだけあって、規模が全く違う。店の数も、売られている品物の数も、はるかに多かった。そして、トルファン以上に、たくさんの人がいて、いろいろな匂いが入り交じっていた。

1時間ほどぶらぶらした後、ホテルに入った。ホリデイ・インホテルで、外資系のためとても近代的な建物と設備である。西安で泊まったホテル並みだったので嬉しくなった。時間が早かったのでまだ部屋に入ることが出来ず、ラウンジで時間をつぶすことになった。ここではIさん親子と一緒になった。私と同業のIさんが「K君、そんな早口でいつもやっているの?」と聞いてきた。私はあまり気にしていなかったが、確かに言われてみればそうかも知れなかった。最近慌てているとどもってしまうことがたまにあるのにも自分なりに気付いていた。そうか、やはり早口だったか・・・先輩の忠告はよく胸に止めておこうと思った。

明日は予定ではフリーということになっている。小さな町に観光地がコンパクトにまとまっているトルファンならまだしも、郊外に観光地が点在するだけのウルムチでフリーというのは、出かける前からかなり無理があると思っていた。でも、オプショナルツアーが催行されることをトルファンで知り、私は天池に行くことにした。Iさん親子は南山牧場へ行くとのこと。天池へはTさん夫妻と私の他にも5,6人出かけるとのことであった。きっと今回の旅の最後のイベントになるだろう、と期待をしつつ、久々に近代的な部屋でゆっくりと休んだ。

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シルクロード・その15

2005-02-17 21:08:04 | 旅行記
夕食後、トルファン賓館で行われる民族舞踊を見に行くことになった。緑州賓館からは歩いて15分ほど、しかも途中から葡萄のアーチの中を通っていくと聞き、道中も楽しみであった。メンバーはよく覚えていないのであるが、写真によれば、T夫妻、ケンちゃん、Sさんが一緒だったのは確実で、その他に2,3名いたと思う。

トルファンの町の街灯は、おそらく砂塵に覆われた時のことを考えてであろう、どこもオレンジ色をしていて、日本と比べるとちょっと目に痛い感じがする。日が落ちて涼しくなったためか、昼間と変わらない人通りがある。車は多くなく、ロバ車と自転車が多い。葡萄のアーチの道は、車両の通行が禁止されていて、皆でのんびりと歩いた。葡萄はちょうどシーズン中なので、たくさんの実を付けていた。これらの実は食べるのか、干しぶどうにするのか疑問に思ったが、聞けずじまいだった。

トルファン賓館は、トルファン一のホテルである。敷地に入り、民族舞踊が始まるまで時間をつぶす。砂漠の真ん中のホテルなのに、何とプールがあり、たくさんの人が泳いでいる。しかし、やはり水をふんだんに使うわけにはいかないのだろう、プールの水は緑色で、私たちには泳ぐのはためらわれた。泳いでいるのは漢族の人達だけのようで、ウィグル族や、西洋の人達の姿はなかった。日本人もいないようであった。

民族舞踊団は、ガイドブックによれば、来日したこともある有名な舞踊団だそうだ。入場料(日本円で200円ほどだったと思う。もちろん外国人料金。)を払って入場する。場内には赤い絨毯が引かれ、観客はそこに座って舞踊を鑑賞する。天井はなく、その代わりに葡萄棚がある。つまり、葡萄棚の下で行われる舞踊を観客が鑑賞する、というムード満点の会場なのである。
観客は日本人、台湾人(多分)、西洋人のみで、3,40人ほどだった。

舞踊が始まった。後ろで男性の楽団が楽器を演奏し、主に女性が踊る。男性は1人での踊りが2つあった他は、女性と一緒に踊るものであった。ゆったりとした舞踊もあれば、目にも留まらぬ速さの舞踊もある。中でも、頭に水を入れた茶碗を置き、それを落とさないように、両手に小さな皿を持ち、それを鳴らしながら踊る「お皿の踊り」、1人の男性が歌を歌いながらリズミカルに舞う踊り(名称失念)、舞踊家全員で踊る「結婚式の踊り」が印象的であった。また、日本の歌「ふるさと」と、台湾の歌も歌った。観客に合わせてのことだろう。台湾の歌はノリのいい流行歌のようで、台湾の観客は皆盛り上がっていた。最後は踊り手が観客を誘い込んで踊りの輪に加え、皆が大きな輪を作って踊った。私たちの中からも誰かが誘われて踊ったように思う。

とにかく素晴らしい舞踊であった。1時間ほどの時間があっという間だった。(実は2年後に同じ場所で舞踊を見たのだが、その時は一晩に何度も公演を行っていたようで、踊りの数も、人数も減らされていて、とても残念だった。)西安や敦煌で見た舞踊が、何だか子供の遊びに思えるほどだった。そして何よりも、葡萄棚の下、という最高のロケーションであったのが印象深い。これを日本で見ても何の価値もないように思えた。

余韻に浸りながら、皆でホテルに戻った。途中、ケバブの屋台が出ていたので寄ってみた。トルファンに来て、毎食ごとにこのケバブが出された。羊の肉を一口大に切ったものを長い鉄の串に刺し、香辛料をたくさんふりかけて直火で焼いたものである。羊の肉の臭みがスパイスで消され、しかも羊の肉のジューシーさと味が失われることなく味わえ、私は初めて食べた時にすっかりファンになってしまった。食事で出されるのは基本的に一人1本で、羊の肉が苦手な人からもらって食べるほどだった。この屋台でも焼きたてのケバブが食べられると思い、金を払った。その時は焼いていなかったので、新しく焼き始めると思ったのである。ところが何と、新しく焼くことなく、少し前に焼いたものを渡されてしまったのである。言葉がわからないので、新しく焼いてもらうわけにも行かない。そのケバブも、確かに、味としては悪くないのだが、あつあつ感が失われてしまっていた。最後の2,3口では、すっかり冷めてしまい、羊の肉の脂が口に中にまとわりついて、気持ちが悪かった。その時に口をゆがめている顔が、Tさんが後で送ってくれた写真にしっかり写っていた。

ちょっと残念な気持ちでホテルに戻った。明日はトルファンを離れるので、荷造りをする。荷造りをしながら思い返してみると、トルファンは素朴でいい町だった。敦煌では感動の一方、嫌な思いもしたので、なおさらその感が強かった。そう言えばさっき、T夫人もそんなことを話していた。そんなふうに思うと、トルファンを離れるのがちょっと寂しくなってきた。

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