桑の海 光る雲

桑の海の旅行記・エッセー・書作品と旅の写真

書道について⑧

2006-11-26 21:38:15 | 日記・エッセイ・コラム

○運命の出会い①

小学校では結局必修クラブを習字クラブで通した。先生はいつも通り優しく的確に指導してくれた。

中学校では1年の時に週1時間書道の授業があった。これはありがたかった。担当の先生は理科の先生だったが、心得はあるものの、専門家というわけでもなく、毎回適当に課題を指示し、作品を書かせ提出させるだけだった。

でも、この先生に感謝しているのは、墨は必ず磨るようにさせ、墨液の使用を禁止したことだ。これはこれまでの書道人生の中で画期的なことだった。固形墨は持っていたが、今までは固まった筆をおろすための道具としてしか使ってこなかったのである。

しかし、この授業では、開始から墨が磨れるまでの時間が、先生の解説を聞く時間となった。また、残り時間を考えて墨の量を調節できるようになり、無駄も少なくなった。また、固形墨を磨った墨液だと、筆を使い終わった後洗わなくても次の時間にすぐ使えた。

先生は前の時間の課題で特に優れた作品を2,3点、クラスの後ろの壁に掲示してくれた。私は幸いにも毎回のように掲示してもらえたが、クラスのJ君というスポーツ万能学業優秀という典型的な優等生が、これまた書道も巧みで、しかも私と違って大人びた字を書き、私よりも回数は少なかったが、よく掲示されていた。私はJ君とは、勉強では互角だったが、スポーツでは雲泥の差があったため、せめて書道では彼に勝とうとライバル心を燃やしたものだった。

1月には書き初め大会もあった。(昨今、中学校での書写の授業の履修不足が問題になっているが、私の中学校でも、本来は2,3年生でもそれ相応の時間を書写の授業に充てなくてはならなかったのを、この書き初め大会を実施することで済ませてしまっていた。そう、履修不足の問題は、もう大昔から平然と行われていたのである。)ここでも私は3年間、クラスで6人しか選ばれない優秀作品に選ばれ続けた。

競書雑誌での取り組みは相変わらずだった。3年間で少年準師範までしかいけなかった。しかし、ここまで述べてきたこととは全く次元の違う、書にまつわる出来事が私に降ってかかってきたのも中学生の時であった。そしてそのことは、現在に至るまで私に大きく影響を及ぼしていることなのである。いや、今後も私を左右し続けていくことであろう。

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書道について⑦

2006-11-17 22:11:24 | 日記・エッセイ・コラム

○自分で書いて自分で選ぶ

新しく通うようになった塾は、大人ばかりで子供は行くべきでないところだと思った。だから、初めの何か月かは月に1回くらい通ったが、それ以降は行かなくなってしまった。新しい先生は、競書雑誌にその月の半紙手本を挟んで、毎月私の家に届けてくれた。そして私は、その手本を見ながら暇を見つけては書き、毎月締め切り直前に先生の家に届けるようになった。

その先生には作品に朱を入れてもらったりするような指導は受けなかった。受けない分、学校の週1回の必修クラブの時間では、3,4年の担任だった先生に朱を入れてもらって指導を受けた。家で書くときはいつも独学独習だった。このやり方は、自然と私が作品を書くペースやスタイル、自分で作品を選ぶ目を養ってくれたように思う。

家ではまず勉強はしなかった。5,6年の担任はあまり宿題を出さない先生だったが、出ても私は学校でちゃっちゃっと済ませてしまえたので、家での時間は自由だった。書道用具は学校に置いていたので、家では父が旧家の解体の時にもらってきた大きな硯、母が会社の関係で格安で購入してくれた半紙、安物の墨液と、精一杯のおねだりをして買った筆を使って、いつも好きなだけ好きなように書いていた。

こうして、塾に通っていたとは言いながら、自分で好きなように書き、学校で適度に指導を受けていたことが、私に書を書くことの喜びや楽しみを体感させてくれたのだと思う。私は書を書くことが得意だったが、それ以前に、書を書くことが大好きだった。

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書道について⑥

2006-11-02 21:46:26 | 日記・エッセイ・コラム

○書道塾

塾に通うようになって、競書雑誌に作品が送られるようになり、毎月毎月連続して進級した。先生も褒めてくれた。何ヶ月かして作品が写真版に初めて掲載された。このときのうれしさと言ったらなかった。同じ雑誌に同じ学校の生徒も何人か作品を送っていて、お互いに進級を競ったりした。

私は連続進級だったので、先生も目をかけてくれた。時には私を家まで車で送ってくれることもあった。

ところが、4年になるのを目前に、困ったことが生じた。3年になってそろばん塾にも通うようになったのだが、書道塾とそろばん塾は日にちがずれていたので両方とも通うことができた。しかし、4年になってそろばん塾の日程が変わり、書道塾とバッティングしてしまったのだった。

そろばんも級が上がりはじめ、面白くなってきたところで、算数の授業の役にも立つことがよくわかってきたので、やめたくはなかった。

そこへ、近所に住んでいる、私のこともよく知っている人が、近所の人と書道の集まりを作って、私が参加している書道雑誌に作品を送っているとの話を聞いたのである。この集まりは週1回だが、幸いにそろばん塾とはバッティングしていない。

私は悩んだ結果、それまで通っていた塾をやめ、この集まりに参加することにした。私がやめることになった日、先生はとても寂しそうな顔をしていたのを今でも覚えている。

私が新しい塾に移った月の競書雑誌では、私の作品が3年生の最優秀作品に選ばれていた。送られてきた賞状には、所属の塾名は前の塾名になっていた。

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