桑の海 光る雲

桑の海の旅行記・エッセー・書作品と旅の写真

いま、風が吹いている~向田邦子没後40年特別イベント~

2021-01-26 16:19:15 | 日記・エッセイ・コラム
どうしても行きたかった向田邦子没後40周年記念イベントへ、無理して出掛けてきました。
会場のカフェで、かつて向田邦子が妹に営ませていた居酒屋・ままやのメニューをアレンジした、ままやセットをいただきました。限定30食なので、これを食べたくて開店に合わせて並びました。それでも18番目でした。カレーはすりおろした野菜の甘味が優しい味。名物のニンジンのピリ煮とサツマイモのレモン煮は、あっさりしすぎていてちょっと物足らなかったです。ままやはもう20年以上前に閉店してしまったけれど、私が社会人になったときにはまだ営業していたので、一度行っておけば良かったと、今になって改めて後悔。
展示品は自筆原稿と蔵書、衣類と所蔵していた美術品、使用していた食器などの器類。多くはかつて仙台や東京で開かれた展覧会や、かごしま近代文学館で見たことのあるものだったけれど、今回の展覧会では、衣服は展示ケースに入れられず直に吊るしてあり、美術品も額のまま壁に掛けられていて、とても近くで見られたのが感激でした。遺品の多くはかごしま近代文学館が所蔵していますが、蔵書は向田邦子の母校の実践大学に所蔵されています。また、特に愛用していた服や愛蔵していた美術品は、現在でも妹さんが自宅に置いているはずです。これらを併せて見ることができる機会はなかなかないので、とてもありがたかったです。
会場の奥には天井から吊るされたたくさんの糸で囲まれたスペースがあり、そこでは向田邦子が残した留守番電話のメッセージを聞くことができました。その横には大きな脚立のような装置が置かれ、係員が動かすと、上の方から向田邦子の名言を印刷した細長い紙が降ってくる仕掛けとなっていました。観客はその紙をもらうことができます。私も直木賞をもらったときのコメントを記したものと、向田邦子の言葉で一番好きな「叶わぬ夢も多いが、叶う夢もあるのである。」を記したものをもらってきました。
本来このイベントは、トークショーやコンサートなどの有料イベントが中心で、展示は添え物的な意味合いだったようですが(展示は入場無料であることもそれを表しています)、それらのイベントはすべて配信となり、実際に足を運べるイベントはこの展示だけということとなり、特に今日の午後は雨の中行列もできていたようです。約一時間滞在して展示品をじっくり見た後、近所にある向田邦子が住んでいたマンション(いよいよ取り壊されるとのこと)を一周して目に焼き付けました。
向田邦子が亡くなって今年で40年にもなるのに、会場には若い人が多く訪れていました。死後これほど経っても多くの人に愛され、新たな読者を得続ける作家はほとんどいないでしょう。そうした向田邦子の魅力を思うとき、妻子を捨ててまで向田邦子を追い求め続けた、恋人のN氏のことを思わずにはおれません。一方で、向田邦子もN氏の思いに応えていたことは、今日も展示されていましたが、死後に膨大な数残されていた、N氏が撮したとおぼしき、向田邦子の若い頃の写真の、撮影者に身も心も任せきった表情を見れば明らかです。女性ファンの方がずっと多い向田邦子に、異性ながらこれまで30年以上にわたって惹かれ続けてきた私には、そうしたN氏の気持ちがわずかばかりでも理解できたような気がしました。
今年は向田邦子没後40年。夏には多磨霊園にも足を伸ばしてみようかと思っています。












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書道について76

2013-10-28 22:15:21 | 日記・エッセイ・コラム

*お稽古について

お稽古の時は、始まる10時頃まではお稽古場のあるマンションのロビーで待っていた。お稽古の順番は先着順で、昼前に終わるために私はいつも始発電車と新幹線を使って上京していた。ロビーではお弟子さん達といろいろな話をしたが、中でも先生にまつわる昔話などをいろいろ聞くことができたのは楽しかった。寒い時期にはロビーでは寒いので、近くのドトールコーヒーで朝食を食べながら過ごしたこともあった。しかし、年が経つにつれてロビーで待つ人の数も減り、家を出る時間も徐々に遅くなっていった。最後の方ではロビーに1,2人の人しかいないことも珍しくなくなった。

さて、お稽古で私は、「銀雀山竹簡」「鮮于璜碑」「大盂鼎」「祭姪文稿」「懐素千字文」を臨書した。お稽古のたびに先生が折帖に臨書してくださり、折帖が終わると新しい古典に移る、というのを繰り返した。いずれも先生が得意とされるものを選んだ。私が用意した安物の折帖への臨書を先生はあまり良く思われなかったようだが、中にはバッタ物で購入して臨書をお願いした折帖の書き味の良さに、毎回お褒めの言葉を頂くこともあった。

お稽古は毎回30分ほどで、持参した私の半紙の臨書作品を2,3分で軽く見てくださり、後は折帖への臨書であった。毎回3,4折書いてくださる。先生は、口頭での批評の際は老人性の傾向も出ておられたが、批評はいつも私が一番突かれたくないところをずばりと指摘されるのには、毎回恐れ入るばかりであった。筆を持って書かれるときは全く普段通りで、私はいつもその筆使いに見とれるばかりであった。時には筆をねじる筆法などを実演してくださったが、私には結局できずじまいで、いつしか先生も教えてくださらなくなってしまったのは、きっと不肖の弟子と諦めてしまわれたからに違いない。

日展と読売書法展の前には2尺×8尺の作品を見ていただくこともあった。この時の批評もやはり、私が一番指摘されたくないところをずばり指摘される。珍しく褒められることもあったが、全体としては欠点の指摘の方が多かったように思う。けれども、他のお弟子さんの中には、いつもこっぴどく批評される方もおり、見ていて気の毒に感じたこともあり、その中で私はまだ良い評価をしてもらっていた方ではないかと思われる。いずれにしても、口頭での批評の際は、切り上げどころを見極めて「ありがとうございました」を言わないと、同じことの繰り返しが始まるので、いつも区切りを見つけようと身構えていなくてはならなくて大変であった。

平成19年5月をもって先生の東京のお稽古が終わることとなり、最後に選んだのは「蜀素帖」であった。欲張って両面書写が可能な折帖を用意したのだが、表面を全部書き終わったところで終了となってしまったのは残念であった。

先生はお稽古の際は昼時には外食をされる。私は14年間で2回だけご一緒させていただいたことがある。奥様と、幸運にもご一緒できた弟子とが賑やかにおしゃべりするだけで、先生はその横で静かにお昼を召し上がっているだけであった。

最後のお稽古の時は、田町からクウェート大使館前のマンションまでの道のりを、周囲の景色を記憶に刻むようにしながら歩いた。横断歩道から見える東京タワー、慶應大学や普連土学園やA宗の寺院へ向かう人の波、聖坂の下から眺め上げた景色。もうあの景色を見なくなって6年にもなる。

もちろんできるはずもないが、あのお稽古の時の話しぶりを録音しておけば良かったと、今でも残念に思っている。先日入手した、先生が出演されたNHK教育テレビ「書道の親しむ」のビデオを見て、先生の書きぶりと話しぶりを思い出している。

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書道について75

2013-04-03 22:00:14 | 日記・エッセイ・コラム

大学を終えるにあたり、今後のことを考えた。さすがに書道をやめようという決断はできなかった。私にとって大切な自己表現の手段だったからだ。高校時代から、地元の展覧会の時にお世話になっている先生に教わることも考えたが、就職すれば金銭的にも余裕ができるわけだから、中央の展覧会にも出品したい。そうなると、やはり中央で活躍している先生に師事したい。さらに、師事するからには、様々な書体をよくし、しかもその人が書く書を私が好きでなければ、師事しても意味はない。

そこで思い浮かんだのが今井凌雪先生であった。以前にも書いたが、私が本格的に書の道に進むきっかけを作ってくださったのが今井先生であった。先生は私が入学する前に筑波大学で教鞭を執っており、大学6年間お世話になった中村伸夫先生は、今井先生の愛弟子であった。

一方、大学2年の時、同級生が今井先生に師事した話を聞き、たまらなくうらやましくなり、私も先生に師事しようと画策したものの、その時はいろいろな人から話を聞いた結果、その話は沙汰やみになった。そして大学3年生の秋、学外演習で関西に出かけ、先生のご自宅を訪れ、先生の所蔵される名品を鑑賞する機会に恵まれた。テレビでしかお会いしたことのない先生に直にお目にかかれて、感激もひとしおだった。MC1年生の時は、先生が主宰する雪心会という書道会の展覧会についての座談会が催され、会員でない学生の意見を聞きたいという先生からの提案で、私が学生代表ということで、1人の先輩と共に呼ばれ、座談会に参加し、その場で先生と初めて親しくお話しする機会を得た。実際に先生に接する機会を持ったことで、師事するなら先生しかいないと思うに至ったのである。

そして中村伸夫先生にその旨を話し、晴れて1994年4月から、今井先生のご指導を受けるようになり、先生の主宰される雪心会にも入会したのである。私が書の道に進む原点となった今井先生に直接指導を受けることになるとは、もう運命の不思議さと言うほかはなかった。

先生の最初のお稽古との時のことは、今でも鮮明に覚えている。後輩と一緒に筑波から上京し、田町の駅から坂を登ってお稽古場の東急三田アパートへ向かう。お稽古場の部屋は弟子達で溢れ、玄関は靴の置き場がないほどである。室内には香が焚かれ、奥の窓辺の座り机に正座して、先生が筆を執って弟子に指導しておられた。

後輩から紹介され、雪心会入会を願い出、お許しが出た後、修了制作で書いた包山楚簡を半紙に臨書したものをお目にかけた。先生は筆を執り、コピーした原本を目を細めて見ながら臨書手本を書いてくださった。私は、あこがれの先生が机の向かいに座って、実際に筆を執って、お得意の楚の書風の文字を臨書しておられるのを、感動しながら眺めていた。臨書手本を書かれた後、先生からは厳しい指摘を頂いた。さらに、初めてということもあって、先生のお話を切り上げるタイミングを逸し、40分もの時間を使ってしまい、後続の弟子達に大変な迷惑をかけてしまった。楚簡を臨書したのはその時だけだったが、その次からは、私が書いてみたいと思っていた、銀雀山竹簡を臨書して持参し、半紙でなく折帖に続けて臨書していただき、保存できるようにした。

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書道について74

2013-03-20 23:49:08 | 日記・エッセイ・コラム

*修了制作について

修了制作のうち、仮名の書については「高野切古今集」の巻一(第一種書風)と、巻十八(第三種書風)を復元臨書した。この作品については以前に書いたこともあるが、改めてここで記しておこう。

大学四年の時の学園祭で、ある先輩が高野切古今集巻一の現存する断簡全部を臨書して一巻にまとめて出品していた。その種本である「古筆学全集」を見てみると、断簡でありながら、連続して現存しているところもあり、全体の半分以上残っていて、失われているところを倣書して埋めれば、巻一を復元できるのではないかと思われた。

そこへ、大学院入試で思いがけなく高野切第一種が臨書課題で出題され、出来の悪かった私の作品を、仮名の書の担当であった先生が揶揄するような発言を友人にしたということを伝え聞き、これは何とかして先生の鼻をあかしてやらなくてはならない、と強く心に思った。

そして、以上の二つの事柄が重なって、「高野切巻一を復元して先生の鼻をあかして見せよう。」と決意して、自分なりに資料を集め、十分に準備を重ねて、翌年の秋に一応完成させた作品を先生に見せたのであった。先生の驚いた顔は今でも忘れられず、私の”復讐”は見事に達成されたと思った。

その後完成させた巻一に加え、やはり半分以上現存している巻十八も復元し、この二巻を修了制作に発表しようと決めたのであった。巻十八は第三種書風であるが、私には第一種書風よりも肌に合っていたため、復元もスムーズに進んだ。巻十八についても、先生には見せずに自分で制作を進めてきたので、完成形を先生に示した時の、やはり先生の驚いた顔は、今でも忘れられない。

この二巻は、大学を去るに当たって先生に寄贈し、先生は約20年にわたって、後輩の学生達に示して、こうした復元、さらには全く現存していない巻を0から復元するという作業のきっかけとしたのである。そして、20巻全部の復元が終わった平成23年の2月に、この2巻の巻物は私の手元に戻ってきた。

修了制作展も終わり、私は今後不可能になる料紙加工の道具を利用してはがきの加工を進めた。思い思いに加工を進めながら、こんな恵まれた環境で過ごすことができて本当に良かったな、大学を離れて国語教師となったら、こんなことからもすっかり縁遠くなってしまうんだな、という思いにとらわれていた。

部屋の荷物を何回かに分けて自宅に持ち帰って、部屋がすっかりがらんとした、修了式を直前に控えた3月20日だったろうか、桐生高校の校長から電話が入り、私は桐生高校に国語教師として赴任することが決まったのだった。

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書道について73

2012-04-14 22:29:14 | 日記・エッセイ・コラム

○修論と修了制作

大学院2年となり、将来のことを考え始めたのだが、教育実習で、高校生を教えることの楽しさを知ってしまった私は、高校教師になろうと決め、就職活動をしてこなかった。

群馬県では高校の書道の教師の採用は長らく行われていないと聞いていた。教員採用試験の願書を取り寄せてみると、やはり書道の採用はなかった。やむなく第2志望の国語教師になることに決め、出願をした。3月から受験勉強を始め、春休みから新学期にかけて、私自身としては大学入試の時以上にかなり真剣に勉強した。6月に礼文島に高山植物を見に行ったのだが、その行き帰りの列車の中や、泊まった宿で時間のある時にも時間を見つけて勉強していたほどだった。

幸い試験をパスして、晴れて4月から高校の国語教師になることが決まったわけだが、一方で修論のことも並行して準備を始めていた。卒論で陳鴻壽を取り上げ、その交友関係を調べていく中で、陳鴻壽もその一人に数えられている西泠八家の印人の書に心惹かれ、また彼らの書に類似性を見いだしたこと、印の側款にも関心を持ったこともあり、西泠八家の書についてまとめる(「研究する」「論じる」ではない)ことに決めた。タイトルは「西泠八家及び周辺印人の書」とし、西泠八家に加えて屠倬と胡震の書についても合わせてまとめることにした。

卒論と同じく彼らの書作品の図版をできる限り多く集め、その中の典型的な書風やそれらの関連を整理した。また、側款の書についてもその書風と変遷を整理した。卒論の時に助手の先生から「陳鴻壽展覧会図録にならないように」と指摘されたが、そんなことはすっかり消し飛んでいて、とにかく資料を整理してまとめることに終始した。

修了制作は、その頃資料を入手して関心を持っていた包山楚簡の臨書と、前年から取り組み始めていた高野切第一種・巻1と、高野切第三種・巻18の復元臨書は決まっていた。もう一点をどうするか。これは創作になるわけであるが、大学6年間の集大成として私は、漢字仮名交じり書の大作に取り組むことに決めた。大きさは3尺×9尺の横物。紙は大学の先生にいただいた高級な画仙紙を接いで使用した。題材はとっておきの言葉「忘れないで」。

前年に訪れた礼文島で私は忘れられない出会いをした。星観荘という宿である。そこに泊まることで礼文島の素晴らしさを知り、たくさんの旅人との素晴らしい出会いがあった。その年にも6月、7月、9月と3度も訪れ、さらに多くの旅人と出会い、素晴らしい体験をすることができた。この感動を何とかして書作品として表現したかった。題材としては、島を去る旅人達のために、皆で歌った、礼文島で昔から歌われてきた「忘れないで」の歌詞を取り上げることにした。歌詞は一番よりも二番の方が、大学生活を終える私の心境にもふさわしいと思えたので、それを書くことにした。

忘れないで 忘れないで この島のことを / 旅立つ船が見えなくなるまで ちぎれるほど手を振ろう / さいはての海の色より 澄んだものがある / それは船のデッキの上で 手を振る君の涙 / 忘れないで 忘れないで 忘れないでおくれ

表具に失敗して書き直すというアクシデントもあり、不十分なまま制作を終えたが、この歌詞を書いたことにこそ意義があったので、それこそ「忘れられない」作品となった。学生時代に書いた作品の多くは既に処分してしまったが、この作品はパネルから剥がして丸め、今も押し入れの奥に眠っている。

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書道について72

2011-10-25 21:14:48 | 日記・エッセイ・コラム

大学院2年の頃6

*西安ツアー・その6

翌日は西安滞在最終日ということで、西安の東郊外にある秦始皇帝の兵馬俑坑に出かけた。大きな駐車場にバスを置き、一大観光地となっている広場を進んでいくと、目の前に大きな建物がある。この中に兵馬俑坑があるのである。

入場すると、天井の下に柱のない巨大な空間が広がり、半地下に兵馬俑坑が広がっている。奥半分は土に埋もれたままで、ここにはまだ大量の兵馬俑が埋まっているのだという。手前半分のさらに手前半分あたりが発掘され、発掘された兵馬俑が復元されずらりと並んでいる。中は写真撮影禁止なので写真がなく、記憶に頼るのであるが、兵馬俑坑の真ん中ほどに通路があって、そこを歩きながら、立ち並ぶ兵馬俑を背後から見ることができる。よくもこれだけのものをこしらえたものだと思ったが、この後見た秦始皇帝陵も含め、これだけの巨大土木建築を興し、それを実行したことに対して、ある種のばかばかしさすら感じた。

隣には2号館が建てられており、ここはまだ発掘が始まったばかりだという。数年先には見学できるようになるとのことだった(実際に私はその2年後にここを採訪したのだが、2号館を見学することができた。破壊された兵馬俑がまだ半ば土に埋まっている状態をそのまま展示していた)。この後博物館を見学し、かつて群馬でも展示されたことがある銅製馬車や、発掘された様々な出土物を見学した。銅製馬車は分間の森で見た時よりも古色蒼然とした感じがあり、ひょっとすると群馬に来たのはレプリカだったのではないかと思い返された。

その後フリータイムとなり、私と友人、そして高木先生と岡本先生ともう1人の5人で、文物商店に出かけた。私と友人は貧乏学生だから手が出ないが、2人の先生はあれこれ物色して購入していた。

その後秦始皇帝陵に立ち寄った。現在ではきれいに整備されて、これまた一大観光地になっているそうだが、その時は駐車場の前に数店の露店があり、そこからあまり作りの立派でない石段が陵の上まで続き、陵の斜面には一面にザクロが植えられていた。陵の上からは一面の麦畑が広がっているのが見え、麦畑の間に点在する集落は一面に薄紫色の桐の花で覆われていた。周囲は春霞ですっかりかすんでいたが、これでかすんでいなければ、青空をバックにさぞかし見事な眺めではないかと思われた。

駐車場のところの露天で、先生方は瓦当を買った。2人とも10個以上買ったのではないかと思う。先生が乗客だとわかると、店員は次々に瓦当を出してきた。1つ2,000円くらいではなかっただろうか。私は元の持ち合わせがなかったこともあって買えなかったのだが、今思うと先生にお金を借りてまでも購入すれば良かったと思っている。なぜなら目利きの先生方が金を惜しまずいくつも買っていることからして、ここで売られているのは周辺の農民が実際に宮殿跡などで掘り出した本物であるのは間違いないと思われるからである。しかも農民が売っているということは、骨董店が付けたプレミア付きの価格ではなく、骨董店で買うのに比べて相当安いと考えられる。その後私は秦始皇帝陵に行くこともなく、瓦当はおそらく現在ではとんでもなく高くなり、しかも偽物も大量に出回っていることであろうから、本当にあの時買っておけばよかったと後悔しているのである。

始皇帝陵から西安市内に戻り、鼓楼に立ち寄った。ここは文物を展示する場所となっており、古い拓本などを見た。その後は餃子専門店で最後の晩餐ということで大宴会となった。様々な種類の餃子が出され、おばさま方にもたくさん勧められ、食も進み酒も進んだ。

翌日は帰国の途についたのだが、空港のX線検査で岡本先生は、スーツケースの中の瓦当が見つかって、そのいくつかを取り上げられてしまった。中国からは古代の文物は基本的に持ち出せないことになっているからである。先生は荷物のパッキングの際、スーツケースの広い面に対して平行に瓦当を並べたために、すぐにばれてしまったのであった。高木先生はX線検査のことをわかっていたので、スーツケースの狭い面に対して平行に並べたために、検査では細長い長方形が並んでいるようにしか見えず、怪しまれず買ったものをすべて持ち出すことができたのであった。岡本先生によれば、珍しいものばかりが取り上げられ、ありふれたものだけが残されたとのことで残念がっていた。

帰った後は名古屋の友人や後輩とともに岡本先生の自宅を訪問し、早速瓦当の拓本をとって楽しんだ。瓦当を1つもらうことができたが、私がもらったものは破損が多く、あまり気に入らなかったので、ずっと後に後輩にプレゼントしてしまった。

初めての中国旅行は、実に楽しい、得るものの大きい旅であった。秦始皇帝陵で瓦当を買わなかったこと、西安碑林でもっと多くの拓本を買わなかったことは、今でも後悔している。

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感謝

2011-07-27 21:33:39 | 日記・エッセイ・コラム
師匠・今井凌雪先生が亡くなりました。2年以上前から病気療養中で、しかも先頃にはかなり病状が進行しているとの連絡を受けていたので、もはや時間の問題かと覚悟はしていたのですが、それにしても、今日仕事先で兄弟子からその話を伝えられた時は、一瞬言葉を失いました。

私が本格的に書の道に進むきっかけを作ってくださったのが今井先生でした。私が中2の時にNHK教育テレビで放映された「書道に親しむ」を見たのが、先生との出会いでした。その番組の冒頭で先生が「塗鴉」(とあ・書の別称)という2字を書いた大字作品(たぶん畳1枚くらいの大きさ)を制作する様子を見て、私は雷に打たれたような衝撃を受けました。今まで私が目にしてきたのは”書”ではなく単なるお稽古事としての”書道””習字”に過ぎないということを思い知らされました。

そして私は先生が書を書かれる姿を、毎週毎週テレビで目にして、テレビを通して次々に開かれていく様々な書の姿に夢中になりました。先生の筆先から生み出される線、文字、そして作品。関西人である先生の軽妙な語り口と共に、目が離せませんでした。番組が終わった時は、もうこれで終わってしまうのかと思って呆然としてしまったのを覚えています。

その後、先生の友人である村上翠亭先生が同じ「書道に親しむ」の仮名編を担当し、これまた毎週欠かさず見て大きな衝撃を受けた後、私は大学でも書を学ぼうと、縁あって今井先生がかつて教鞭を執っていた筑波大学に進学したのです。そして当時教授として在職していた村上先生にも直接指導を受けました。

大学2年の時、同級生が今井先生に師事した話を聞き、たまらなくうらやましくなり、私も先生に師事しようと画策したのですが、その時はいろいろな人から話を聞いた結果、その話は沙汰やみになりました。そして大学3年生の秋、学外演習で関西に出かけ、先生のご自宅を訪れ、先生の所蔵される名品を鑑賞する機会に恵まれました。テレビでしかお会いしたことのない先生に直にお目にかかれて、感激もひとしおだったのを覚えています。

MC1年生の時は、今私が所属している雪心会という書道会の展覧会についての座談会が催され、会員でない学生の意見を聞きたいという先生からの提案で、私が学生代表ということで、1人の先輩と共に呼ばれ、座談会に参加し、その場で先生と初めて親しくお話しする機会を得たのでした。先生のお話はどれも的確に問題点を突いており、生半可な知識しか持ち合わせていない私などはとうてい太刀打ちできるはずもなく、若さに任せて先生にぶつけた疑問もあっさり論破され、先生の偉大さにただただ圧倒されるばかりでした。 (ちなみにその先輩も現在は雪心会に所属しています)

MCを修了し就職する段に至って、今後どのような形で書を続けていこうかと考えた時、できれば最高の先生に最高の指導を受けたい、自分が尊敬できる先生に師事したい、その先生が書く作品を私が好きな人であるのがいい、様々な書風を良くし、弟子達にもそれを勧めている人がいい、師事するに当たってつてがある人がいい、と考えた結果、それに該当するのはやはり今井先生しかいないという結論に達しました。当時大学に勤めていて、私の恩師でもあり、今井先生の愛弟子でもある中村伸夫先生にその旨を話し、晴れて1994年4月から、今井先生のご指導を受けるようになり、先生の主宰される雪心会にも入会しました。私が書の道に進む原点となった今井先生に直接指導を受けることになるとは、もう運命の不思議さと言うほかありません。

就職してからは仕事と遊びの忙しさに任せて、東京でのお稽古に毎回欠かさず出かけるというわけにはいきませんでしたが、それでも、テレビで見た先生が私の目の前に座って話し、筆を運んでいるのを目にしているのは、何だか夢を見ているような感じがし、それは東京でのお稽古が終わるまでの十数年間ずっと続きました。

私は先生の弟子とはいっても末席も末席で、先生は私のことなど名前も顔も覚えてはくださいませんでしたが、それでも筑波の学生だということだけは理解してくださり、大学の話しを一言二言話したことはあります。お稽古の時に一緒に食事をさせていただいたこともありましたが、奥様と私や他のお弟子さん達が楽しそうに話しているのを目にしながらゆっくりと食事をしていたのを覚えています。

何より忘れられないのは、先生が北京で開いた個展です。この時人民大会堂で記念のパーティーが開催され、先生は席上揮毫をされました。先生が大字を揮毫されるのを拝見したのはこの時が最初で最後でしたが、細字を書く時と同様、懸腕直筆でゆったりとおおらかに筆を運ぶ姿が印象的でした。

また、その2年後に、雪心会の南京と北京を巡るツアーに参加させていただいた時は、比較的少人数でのツアーだったこともあり、先生と接する機会も多くありました。中でも北京のホテルで、骨董品屋が持ち込んだ拓本を会員の人達が大枚はたいて買う中、先生は鄭羲下碑の拓本を十分吟味されて購入されました。先生がこうした買い物をする場面を見たのはこの時一回限りでしたが、先生の膨大なコレクションは、こうして先生が過眼されたものが選ばれて形作られていったものであろうと思われました。

先生は80歳を過ぎてからは老人性の傾向も見られましたが、書を書くことや批評に関しては衰えることなく、お稽古で拝見する筆遣いは、まさに神技と言ってもよいものでした。作品の批評も、私が一番言われたくないことを間違いなく指摘され、毎回冷や汗をかいていました。東京でのお稽古も修了し、先生にお会いするのも3月の雪心会展と奈良での日展の下見会だけになってしまいましたが、先生はいつもそこにお元気な姿を見せていました。

最後に先生にお会いしたのは3年前の8月の、天理で行われた日展の下見会でした。私は当初隷書を2尺×8尺の紙に三行で書いて出品するつもりで作品を書き始め、会場にも持参していたのですが、ふと思うところあって一枚だけ巻物に行草書で作品を書き、それも一緒に持参していました。下見会の様子を見ていて、壁面作品に対する先生の評価は厳しく、どちらかというと巻物や冊子作品の評価が高いようです。私は思いきって本来見せるつもりのなかった巻物を床に広げ、先生に見ていただきました。先生は「これはなかなかよくできていますね。行の上下の空間が狭すぎますね。もうちょっと広くした方が良いですね。それにしても良くできています。」と言われました。この下見会での先生の評価の中では最も良い評価だったので、後ろに控えていた先生はなにやら慌ててメモを取り、私の批評が終わるやいなや、中村先生は私を呼んで、巻物の細かい書式についてアドバイスしてくれ、できたら筑波まで再度作品を見せに来るようにとも話してくれました。

結果的にその先品は私に2回目の日展入選という結果をもたらしてくれました。それには先生のあの批評が力になったとともに、私にとって励みにもなったことは間違いありません。

その年の暮れに先生は病に倒れ、これまでずっと闘病生活を続けてこられたのです。その間、この時が来ることはずっと覚悟してきたつもりです。でもやはり、前にも書いたように、私の書の原点である先生が亡くなったことは、私にとって計り知れない衝撃を与えたことは間違いありません。まだ今の段階では現実として受け入れられていないというのが本当のところですが、様々な機会を通して先生の不在に接するたびに、そのことを受け入れていくとともに、先生の存在の大きさ、そして先生の偉大さを実感していくのだろうと思います。

ここまで長々と書いてきたけれど、先生には”感謝”の一言しかありません。安らかにお眠りください。
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書道について71

2011-03-08 22:52:07 | 日記・エッセイ・コラム

○大学院2年の頃⑤

*西安ツアー・その5

翌日はついにあこがれの大雁塔を訪れた。大雁塔は、子供の頃見たテレビドラマ「西遊記」のエンディングで、ゴダイゴ「ガンダーラ」が流れる中、この大雁塔の映像が流れていた。その頃から、いつかこの場所を訪れてみたいと思っていたのだが、この大雁塔に初唐の楷書の名品、褚遂良の「雁塔聖教序」が存在することを知ったのは、確か高校生になってからのことだった。

大雁塔は西安を代表する観光地であり、平日ながら大混雑していた。大雁塔は中から上層へ階段で上れるようになっている。驚いたのは、大雁塔の内部は吹き抜けというか、がらんどうの空間になっていることであった。その空間の周囲に階段が取り付けられており、層ごとに四方に窓が開いていて、そこから外を眺め下ろせるようになっている。しかし窓にはちょっとした木の柵が付けられているだけで、ちょっと怖い。窓から見下ろした西安の町は、ほこりっぽい上に春霞で、遠くまではるかに見渡すことはできなかった。

雁塔聖教序は大雁塔の壁面にはめ込まれていた。そしてそれは雨に当たらないような位置にあり、だからこそ風にさらされることがほとんどなく、碑面の損傷がほとんどなかったのである。碑面には碑面を保護するために拓本が張られており、碑面そのものは見られなかったのが残念だった。

大雁塔の後は小雁塔に行った。大雁塔がきれいに整備されているのに対し、小雁塔は宋代に頂部が壊れたままになっており、しかも上ることはできない(昔は上れたらしい)。しかし、小雁塔は大雁塔と異なって町中にひっそりと聳え、しかも整備されておらず、昔のままの雰囲気をよく残していると言ってよい。ここはそういうわけで上れないので、ちょっと見学しただけで後にした。

その後は西門で石碑の除幕式に参加した。翌々年に、シルクロードへ向かう途中での西安観光の際にこの西門を再訪したが、石碑はちゃんと建てられていて懐かしかった。翌年には殿村藍田氏も今回一行が参加したイベントに参加し、石碑の建立に携わったことがわかった。

残る日程は2日間のみとなった。恐らくこの日の午後に文物商店2ヶ所に出かけて拓本などを見、夜は西安交通大学の鍾明善氏の仲介で拓本を見たように思う。高木大宇先生が、于右任の印の押された瑯耶台刻石の拓本を購入されたのを覚えている。

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書道について70

2011-01-30 18:08:13 | 日記・エッセイ・コラム

○大学院2年の頃④

*西安ツアー・その4

昭陵碑林の後はひたすらバスに乗り続けて永泰公主墓に向かう。周囲は一面の麦畑と菜の花畑。時折現れる集落には桐の木の花が満開である。

永泰公主墓の隣にある飯店で遅い昼食にする。今回の旅では西安の町から最も離れた場所であるせいか、料理の味付けや香りも一番田舎風で口に合わなかった。

永泰公主墓は高宗と則天武后が合葬された乾陵の陪塚である。永泰公主は則天武后の孫娘でありながら則天武后によって殺された哀れな女性である。その墓からは見事な壁画が発見されたことで知られている。壁画そのものははぎ取られて陝西省博物館に所蔵されており、ここで見られるのはレプリカであった。

墓に入ることができるのも面白かった。傾斜のある長く暗い墓道を下った先に墓室があり、永泰公主の棺や副葬品が収められていた槨室がある。槨室の外壁には美しい女性達の群像が線刻されている。収められた当初は彩色も施され、さぞかし美しかったことだろう。しかし墓は古代に盗掘にあって、副葬品も奪われ、盗掘を免れた壁画だけが当時を物語っているのであった。

永泰公主簿から少し西に行ったところに乾陵がある。時間の関係もあって、地下に乾陵のある山の山頂まで行くことはせず、登り口の所までしか行かなかった。あの小山の地下に壮大な地下宮殿が設営され、高宗と則天武后が合葬されているのである。しかもその入り口部分は発見されており、入り口部分には鉄が流し込まれて厳重に固められており、盗掘されていないことは明らかである。しかし、これを発掘するには莫大な費用がかかり、しかも膨大な量の副葬品や墓の保存に、これまた莫大な費用がかかるため、発掘は行う予定がないとガイドは話していた。

墓へ続く道の登り口にあった巨大な無字碑と、「唐高宗乾陵」と清朝中期の文人畢沅が端正な隷書で揮毫した石碑、各国使節団の石像が全部首が欠かれていたことなどが印象に残っている。そしてここも桐の花が満開であった。

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書道について68

2010-05-01 17:15:11 | 日記・エッセイ・コラム

○大学院2年の頃②

*西安ツアー・その2

いよいよ西安碑林に到着した。碑林へ続く道を進んでいくと、目の前に唐の玄宗の石台孝経があった。ただし碑面には拓本が貼られており、文字は見やすかったが、碑面が見えないのは残念だった。

入っていくと、石碑は古い順に並んでいるらしく、唐代の石碑の名品が勢揃いしていた。顔真卿の多宝塔碑、顔氏家廟碑がまず目に入った。しかし、いずれも石台孝経同様に碑面には拓本が貼られており、いささか興ざめだった。でも、先生方が、こうすると碑面の保護になるし、何しろ文字が見やすいのでよいということなので、そういう考え方もあるのかなと思ったが、やはり不満だった。ただし顔氏家廟碑の碑側だけは拓本が貼られておらず、またガラスもはめ込まれていないため、碑面にじかに手を触れ、顔真卿の文字をこの指でじかになぞってみた。石碑はいずれも亀の形をした台座にはめ込まれた巨碑ばかりであるが、何しろ千年以上前のものばかりなので、いずれも金属製の枠で補強されていた。

次に目に入ったのは、王羲之の文字を集めた興福寺断碑である。石碑の下半分だけが残っている。これは私も高校時代から好きでよく臨書していたものなので、親しみをもって見たが、これまた碑面に拓本が貼られており、いささか残念だった。

次の部屋へ移動する回廊の壁には、南北朝時代の墓誌がはめ込まれていた。特に元楨墓誌は名品で、この後岡本先生の紹介もあって、碑林のスタッフから特別に原拓を譲っていただいた。

次の部屋には張旭の草書千字文、顔真卿の顔勤礼碑があった。これにはどちらも拓本が貼られておらず、碑面の文字をじかに見ることができた。特に顔勤礼碑は出土して百ねんほどしか経っていないため碑面がきれいで、文字もとても千年前に刻されたとは思えないほどのきれいさであった。

次に曹全碑があった。これも碑面には拓本が貼られている。しかし碑陰には拓本は貼られていたいため、より日常的な書法が現れていると言われる碑陰の文字を、ガラス越しではあったが目を凝らして鑑賞した。

その次は南北朝時代の広武将軍碑。中村不折が愛したことで知られるこの碑は、他の石碑に比べ知名度が劣るのか、扱いがとても粗末だった。碑面にはもちろん拓本は貼られておらず、石碑そのものも奥まったところに置かれていた。

他には歐陽詢の皇甫誕碑も見た記憶があるのだが、残念ながら写真がない。この石碑も、有名な割には引っ込んだところに展示されていたように思う。

一番奥の部屋では、拓本採りの職人が大きなたんぽに墨をつけ、碑面をたたく音が部屋中になり響いていた。ここで採拓しているのは明清時代の法帖の重刻本であろうが、ここで採拓した拓本が、土産物として売られているのだろうと思った。

最後に岡本先生の紹介で、碑林のスタッフから特別に墓誌の拓本を譲っていただいた。他のツアー参加者はバスに戻ってしまっていたので、我々だけ特別に、ということだった。先生方は二枚購入していたが、私と友人は財布の具合のこともあり、一枚だけで我慢した。これが私が拓本を購入した最初であった。

ちなみにこの二年後に、シルクロード行きのツアーの途中で西安碑林を再訪したのだが、この時は碑面に貼られていた拓本は全て剥がされ、他のツアー客は素通りしてしまった後に一人残り、時間が許す限り、碑面の文字を堪能したのを覚えている。

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