桑の海 光る雲

桑の海の旅行記・エッセー・書作品と旅の写真

書道について51

2008-06-20 21:33:37 | 日記・エッセイ・コラム

○4年生の頃①

時はバブル真っ最中。デザイン系の友人達は次々に超メジャー企業に就職を決めていく。そんな中私は将来のことも考えず、暢気に暮らしていた。漠然と、教員にでもなれればいいなと思っているくらいだった。でも、人前で話したりするのは苦手だった。だから、大学院に進学してゆっくり考えるのもいいかな、と思い始めていた。

教員になるためには教育実習をしなくてはいけない。縁あって母校で教育実習できることになった。私の大学は、他の大学と異なり、教育実習を3週間やらなくてはいけない。教育実習のために母校で一緒になった皆は2週間で実習を終える。私は最後の1週間は一人で実習しなくてはならなかった。しかし、これが私の将来を決めることになったのだった。

書道の教育実習ということだったが、書道科教育法の授業はまともにやってもらえず、指導案の書き方や授業の組み立て方など、とにかくわからないことだらけで、4月に地元の高校の先生を招いて具体的な指導はあったものの、全くの付け焼き刃で、実習に対する不安を抱いたまま実習に臨んだのであった。しかも、授業は実技中心ということで、これまで指導教官(私の高校時代の恩師でもある)が行ってきた授業を継続して行うだけであった。自分のオリジナリティを出すことは全くできないわけで、ちょっと不満には思ったものの、これはこれで仕方がなかったのだろうと思って授業を続けた。1年生の授業では毛筆で、それなりに自分の力を示すことができたが、2年生の授業では硬筆をやっており、硬筆の苦手な私にとってははっきり言って苦痛だった。生徒の感想でも、毛筆の授業をしてほしかったとの声があった。

2週間が過ぎ、3週間目に入った。私は1人で職員室の片隅に立って、朝の打ち合わせを聞いていた。すると、その前にいた先生が「1人で立っているのもみっともないだろうから、ここの非常勤の先生の席に座りなよ。」と言って下さった。ありがたくその言葉に甘え、後の5日間は、まるで先生方の一員になったような気分で実習を続けさせてもらった。そして、教員の仕事がこんなにも面白いものなのかということがわかり、将来は高校の教員になろうと決めたのだった。

ただし、残念なことに、私の地元の県では高校の書道の教員の採用が長らくなく、指導教員である私の恩師も、おそらく私が大学院に進学し修了した後でも、書道の教員の採用はないだろうということだった。そうなると次は、国語の教員にならざるをえない。私は念のためその年の高校の国語の教員採用を受験することにしていた。

7月に採用試験を受験したのだが、大学院進学を心に決めていた私はもちろん気合いが入らず、見事不合格になった。

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書道について50

2008-06-15 21:48:57 | 日記・エッセイ・コラム

書コースには在籍していたものの、授業のすべてが書道関係のものというわけではない。むしろ書道関係は3分の1ほどで、それ以外の授業の方が多かった。これが総合大学の中の芸術系の学群としての特徴であった。他の、教員養成系などの大学にある書道コースでは、学年が上がるにつれて書道の授業の占める比率が上がっていったらしい。しかしわが筑波大学書コースでは、一番多い3年生でも週25コマの授業のうち、8コマしか書関係の授業はなかった。

そんなわけで、自分の力を磨くには、授業だけでは全く不十分だった。伊藤伸先生がご存命の頃は、学年で1,2名が伊藤先生の門下生となり、毎週お稽古に通っていたが、先生亡き後は、それもなくなってしまった。大学の他の先生は門下生を取っていなかった。もちろん高校時代の先生や師匠に継続して見てもらっている人もいた。

私はどうしたか。とりあえず高校時代の先生に相談し、先生の会から地元の県展と市民展に出品した。県展は2年生で初めて隷書を出品して何と落選!これは大変なショックだったが、後でわかったのは、大学の先生に書いてもらったお手本で書いたことが原因だったということ。地元の先生のお気に召さなかったわけだ。市民展は2年生から出品したが、これは地元の先生の書風の行草書を出品し、いきなり一番下ではあるものの入賞した。

これ以外にも、私が小中学生の頃出品していた競書雑誌にも出品するようになった。これは毎月毎月半紙三体と条幅を出品するのだが、これがよかった。毎月コンスタントに書かねばならず、締め切りを守るのがポリシーの私には格好のものだった。書を専門に学ぶ者であっても、雑誌の写真版に自分の作品が掲載されるのは嬉しかった。

この競書雑誌への出品で特に私がためになったと思っているのは、細字の楷書や行書に取り組んだことだった。細字は1年生の3学期に少し取り組んだだけで、それ以外は仮名の授業以外で小筆を持つことはまずなかった。それが、この競書で取り組むことによって、細字では楷書は九成宮醴泉銘、行書は集字聖教序の書風を身につけることができたのだった。

競書雑誌は結局就職するまで(もっと言うと就職してもしばらくは続けた)ずっと続けることとなり、展覧会などのない時期の実力養成、そして、筆を持つ機会を作る格好のものとなった。結局その会は就職して5年目に退会してしまったけれど、今思うと、この競書雑誌に取り組んだことが、学生時代の書道の根幹を成すものだったように思える。

一方地元の展覧会もコンスタントに出品し続けた。地元の先生に展覧会前に電話して書類を送ってもらい、1,2回通信添削を受け、あとは作品を送るだけだった。見に行くことはなかなかできなかったが、それでも市民展は毎年入賞させてもらった。

こうして、大学の授業以外でも書の活動に取り組んできたことで、大学を卒業した後も書とのつながりを持っていこうという気持ちになれたのだと思う。実際同級生や先輩後輩にも、ただ大学の授業だけで書に取り組んできた人達の多くは、大学を出た後は書とは縁のない生活を送っているようなので。

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書道について49

2008-06-13 21:57:27 | 日記・エッセイ・コラム

○3年生の頃⑩

村上翠亭先生の退官が近づいてきた。入学した時点で、自分が3年生の1年一杯で先生が退官することは聞かされていた。だから、3年生の1年間はできるだけ先生と接することができるよう、また先生のご指導に報いるような制作をしようと心がけた。具体的には、仮名作品の制作に当たっては、提出作品の料紙加工は自分でやる、ということだった。先輩の指導を受けたり、自力でこしらえてみたりして、今見返してみると、ずいぶんへんてこな料紙であるが、先生に自分で料紙加工をしたことを見てもらいたく、料紙加工を続けたのだった。

3月になり、卒論発表会や追い出しコンパも終わった後、先生の最終講義が行われた。最終講義と言っても、実際は先生がこれまで歩まれた道について語ってくださるものであった。特に、知覧で特攻隊として出撃を待っているうちに終戦を迎えたこと、広島に帰ってみると、身の回りの人が原爆で被爆しており、次々に亡くなっていったこと、仮名書道との出会いと、先生方との出会い、書の修業時代について、日本書芸院揺籃期の様子、書壇での活躍と決別について、時に関西人特有のユーモアを交えて語ってくださった。先生の経歴については、それまでにもいろいろな場で耳にしていたが、これほどまでにまとまった形で伺ったのは初めてで、先生が何と波乱に満ちた生涯を歩まれてきたのか、改めて知ったことであった。

それにしても、書壇と決別しながらも、NHKテレビの趣味講座の講師を務めたり、東京教育大~筑波大の教員を務めたりし、書壇の外で仮名作家・日本書法史研究家として確固たる地位を築かれたのは、ひとえに先生のご努力と才能、そしてそのお人柄によるものに違いないとも思った。そして、このような偉大な先生に、たった2年とはいえ仮名書道をご指導いただけたのは、何と幸せなことだったろうと改めて思ったのであった。

村上先生は退官後大東文化大学の教授になられた。後任には甲南女子大の森岡隆先生が着任された。

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