桑の海 光る雲

桑の海の旅行記・エッセー・書作品と旅の写真

書道について27

2007-07-22 22:26:22 | 日記・エッセイ・コラム

○1年生の頃①

ここから大学進学後の内容となるわけであるが、あくまで書道との関わりに限定して述べていこうと思う。

筑波に引っ越して最初の休日、一番近くにあるデパートに自転車で出かけた。書店であれこれ見ていると、見覚えのある顔がある。そう、二次試験の時に落ちたはずの男子の受験者だった。独特の雰囲気のあるヤツだったから、間違いない。でも、なぜ彼がここにいるのだろう?落ちたはずなのに。ひょっとするとB日程で第一~第三のいずれかの学群を受験し、合格したのだろうか?しかし、実は人見知りの私は、そこで彼に声を掛けることもなく終わってしまった。

入学した後、すぐに書コースの人が開催してくれた新歓花見に参加した。すっかり酔っぱらってしまったのだが、そこで何人もの先輩・同級生と対面することとなった。酔っぱらって記憶をなくしてしまったのだが、この人たちと自分の学生生活が進んでいくんだな、と思うとやっぱり感慨深いものがあった。

入学式の日は誰も知った顔がなく、同じ高校から同じ芸術専門学群のデザインコースに進学したA君も、高校在学中は全く交流がなく、顔も知らなかったので、結局1人寂しく過ごした。

その直後、宿舎の風呂で知らない人から声を掛けられた。話を聞いていると、彼はなぜか私の名前も素性もよく知っている。新潟大学を受験して合格し、辞退したことまで知っている。なぜそんなことまで知っているのか、ちょっと不思議だったが、事情を聞いているとよくわかった。

彼は二次試験の時私の横に座っていた人で、休憩室で私の前に座っていた人だったのである。私のことは、私の高校の先輩のKさんから情報を得ており、新潟大学のことは、彼のお姉さんがこの3月に新潟大学の書道専攻を卒業し、入試会場で私のことを認識しており、しかも弟である彼から私の情報を入手していたので、入試の時の作品のことまでみな教えてくれたのだそうである。

私は怖くなってしまった。私の知らないところで、私に関する情報が、私の知らない人達によってやり取りされているというのである。びっくりしてしまうと同時に、人と人との関係というものは実に不思議な縁で取り持たれているのだということを、狭い世間に住んでいた私は改めて思い知らされたのであった。

入学式の翌日、オリエンテーション合宿ということで、千葉の国民宿舎に出かけた。そこで書コースの同学年のメンバー全員が顔を揃えた。初対面の人も半分くらいおり、とても緊張した。女の子はみんなかわいい人ばかりでびっくりした。そして、あのデパートで見た落ちたはずの彼は、何と追加合格で入学したのだそうである。

そこで、書コース伝統の自己紹介の仕方や、科目選択についてあれこれ説明を受けた。そこで初めて知ったのは、1年生では書の実技は通年で週に2コマ、それに加えて理論の授業は一学期に1コマあるだけなのだそうである。書を専門に勉強できると思ってやって来たのに、1年ではたったこれしかないのである。私はがっかりしてしまった。その代わり、デッサンや塑像、デザイン基礎の実習が通年で週4コマもあり、芸術学の授業も通年で4コマもある。書を勉強しに来たのに、どうして書と直接関係ないことをこんなにもたくさんやらなければならないのか。私はいきなり「こんなはずじゃなかった……」と思ってしまった。でも、先生や先輩の「自分でどんどん書けばいい。」という言葉を聞いて、何とか挫折せずには済んだ。

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書道について26

2007-07-17 20:25:31 | 日記・エッセイ・コラム

○合格発表

当時は今と違ってネットでの発表など望むべくもなかったので、郵便や電報で通知をもらうか、実際に見に行くほかなかった。もちろん私は実際にこの目で確かめてみたかったし、それなりの自信もあったので、出かけることに決めた。

前日は中学校時代の同窓会ですっかり羽目を外してしまい、帰ってきたのは明け方近くで、あまり寝ずに出かけた。もちろん電車の中では爆睡した。

土浦駅から大学行きのバスに乗った。途中、先輩のKさんが勤めているというそば店とおぼしき店の前をバスが通った。後で知ることになるのだが、それはまさにその店で、私は後にそのそば店「筑波やぶそば」で在学中6年間バイトをし、ひとかたならぬお世話になることになるのである。

バスの終点のすぐ横に合格発表の掲示板があった。私が着いた時はまだ発表前だった。同じ高校のヤツも2人ほど見に来ていた。

すると、裏にある建物の方から1台の軽トラックがやって来た。それが掲示板の前に停まると、中からおじさんが2人降りてきて、二台から何枚ものベニヤ板を下ろし、掲示板に取り付け始めた。ベニヤ板には合格者の番号と氏名が印字されており、掲げられるやいなや歓声が上がった。私が受験した芸術専門学群は一番最後に掲示されるので、歓声が上がる横でやはりドキドキしながら掲示されるのを待った。

そして最後に芸術専門学群の板が掲示された。そこには私の番号、今でも忘れない「700393」の番号と私の名前があった。そう、合格したのである。自信があったとは言え、つい2ヶ月前までは夢のまた夢と思っていた筑波大学に合格できたのである。あの、中学生の時にテレビで出会った村上翠亭先生に直に教われるのである。そんなことを考えて、感無量だった。

すぐに私は掲示板に駆け寄り、隣に掲示された、合格者の受験番号、氏名、出身校の一覧表を見た。メモしておいた紙と照合すると、書コースを受験した9人のうち、男子2人、女子3人が合格している。やはり試験の時それなりに書けていると思った人ばかりが合格し、これはどうも、と思った人は不合格になったのだった。推薦入試で合格したのは男子1名女子4名だとKさんから聞いていたから、この学年は男子3名女子7名ということになる。この9人と一緒に私の学生生活が始まるのだと思うと、やはり感慨深かった。

自宅と、受験でお世話になった伯母に電話し、Kさんにも電話して、合格を喜んでもらえた。そのまま前橋に直行し、高校までバスで向かって、先生方に合格を報告した。これまたとても喜んでもらえて、本当に嬉しかった。その後自宅に戻ったのだが、家族がどんな反応をしたのかを全く覚えていないのである。

ちなみに一緒に合格発表を見に来ていた2人の同学年のヤツのうち、1人は落ちてしまった。また、クラスメイトで体育専門学群を受験したヤツは合格していた。結局私の高校からは、現役で5人しか合格できなかった。うち芸術専門学群が2人、体育専門学群が2人という状況である。

夜、予備校のテレフォンサービスで新潟大学の合格を知った。幸い和歌を一部書き間違えても合格にしてくれたのだ。それを聞いた後、明日は早速合格辞退の連絡を新潟大学にしなくてはいけないと思った。そして、担任の先生の期待通り、国公立大学に2つ合格できて、高校のために貢献できて良かったと改めて思った。

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書道について25

2007-07-15 00:56:23 | 日記・エッセイ・コラム

○新潟大学を受験する

新潟大学を受験したのは3月5日のことだった。新幹線で新潟に着くと、市内には雪はなかった。ホテルに入ると、同じ高校の生徒たちの姿が何人も目に付いた。そう、このホテルには新潟大を受験する20人ほどの同じ高校の生徒が泊まっているのである。親しいクラスメイトもいたので、夕飯は一緒に食べたりした。

翌日は1人バスに乗って大学まで向かった。郊外に出るにつれて雪が見えるようになった。バス停で下り、試験会場まで歩くに連れ(バス停からかなり遠かった)、雪が深くなってきた。(20年ほど前、3月の新潟はこれが普通だったのである。)雪道を歩き慣れない私は、これですっかりまいってしまった。そして1人胸の中で呟いた。「こんな雪のあるところではとても暮らしていけない!」と。

会場は書道専攻の部屋ではなく、講堂のような場所だった。既にたくさんの受験生が来ていて準備をしていた。しかも、人数が多い!100人近くいたのではないか。この中から合格できるのは15人。倍率にして7倍近い。しかし、私は筑波大学の受験で手応えを感じていたので、変に自信に満ちて席に着いた。

それにしても筑波大の受験の時とは雰囲気が全く違う。会場が狭く、入場が遅かった私には、半切を書くスペースがない。仕方なく、用意されていた別室に、半切作品制作用の下敷を敷いた。ステージ上には同じ高校から来たと見える高校生たちが一団となって賑やかに準備をしていた。私の高校から書道の方面に進む者はとても珍しかったが、彼らの学校ではそうではないようだ。(ちなみにその会場には高校のクラスメイトも受けに来ていたが、私は彼とは同じクラスでもほとんど交流がなかったので、ちょっと会釈しただけだった)

課題が発表された。これを3時間かけて制作するのである。                 
漢字半紙制作:「飛雪千里」を楷書で書く。                           
漢字半紙臨書:王羲之「集字聖教序」から「松風水月」を臨書。               
仮名半紙臨書:「筋切」のうち「秋萩をしがらみふせて鳴く鹿の目には見えずて音のさやけさ」を散らし書き風に臨書。                                       
仮名半紙制作:「温かき心こもれる文持ちて人思ひをれば鶯の鳴く」を書く。        
半切制作:「竹間一夜鳥声春 明朝酔起雪塞門」を書く。(他に漢字四字の語と和歌一首の3つの中から一つを選ぶ)
はっきり言って筑波大学より易しい。用紙が各課題につき5枚しかないのが難点だが、制限時間を考えればこんなもんだろう。

制作が始まった。どれも易しいので淡々と書き進めた。出来上がるたびに周囲を見回したのだが、驚いた。隣の席の女の子を始め、はっきり言ってものすごく下手である。筑波大学の時も他の受験生は決して上手いとは思わなかったが、新潟大はそれ以上である。よくもこの程度の力で書道科を受験しようと思ったものだと思えるような人達ばかりである。私は新潟大学の合格は100%間違いないと確信した。しかし、そのことが後で私に信じがたい誤りを犯させるのである。

半切を書くために、下敷きを敷いてきた別室に行った。ステージ上では、同じ高校から来たと思われる受験生たちが制作をしているのだが、これまたびっくりした。皆同じ課題を選び、皆ほとんど同じような書風で制作しているのである。これは間違いなく同じ高校に在学しているか、同じ先生に教わっているに違いないと思った。それにしてもどうして皆同じ書風なのだろう、入試なのにこうも楽しく談笑しながら制作できるのだろうと、とても不思議に思った。そして、彼らはきっと全員落ちるだろうな、とも思った。

別室には学生とおぼしき係員の人が何人かいた。私は彼らが見る中で5枚の作品を書き上げた。3枚目までで完成したので、残りは隷書や行草書を書いたりして楽しんだ。

作品を仕上げて提出し、改めて合格を確信して会場を後にしたが、私は絶対新潟には来るまいと心に誓った。書き損じの紙を自分で捨ててくださいと言われたのにも腹を立てていた。私はその紙をバス停のゴミ箱に放り込み、ついでに新潟大学への思い(共通一次を受験するまで、新潟大は第一志望だった)も放り込んで、バスに乗った。

後日談1。会場には4年生が係員の手伝いに来ていた。彼らは会場をずっと見て回っていたのだが、受験生の中の龍門造像記風の楷書を書いている1人の男子受験生を、相当の力があると目を付けていた。また、その受験生はきっと新潟大学に合格しても辞退して、筑波大学に行くだろうと思っていた。大学の先生も同じように目を付け、同じように思っていた。

その男子受験生が私のことだったのである。なぜそれを知っているかというと、彼らの中の1人の弟と、後に筑波大学で同級生となったからである。その同級生から、この後日談の内容を聞いた。彼は、私が半切の残りの紙に隷書や行草書を書いていたことまでも知っていた。また、その彼の姉上とも後に親しく交流するようになって今に至る。

後日談2:高校へ戻って、先生に新潟大学の受験の話をした。問題用紙を見ながら、仮名半紙制作で和歌を一部間違えて書いていたことに気付いた。その瞬間、新潟大学に合格するという確信は、100%から80%に下がっていた。

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書道について24

2007-07-12 21:45:09 | 日記・エッセイ・コラム

○面接を受ける~新潟大学を受験するまで

面接はぶっつけ本番だったが、内容は調べてあったので、想定問答集を用意しておいた。控え室では右隣と、その右隣の洋画コース志望の女の子と楽しく過ごしたが、二人とも落ちてしまった。左隣には同じ書コースを受験した女の子がいたが、おとなしそうな感じの人で、ついに言葉を交わさずに終わった。ちなみに彼女は合格し、同級生となった。

担当教官は3人、岡本先生と思われる優しそうな先生が主に質問をしてきた。でも、作品の出来、将来どのような書制作に取り組みたいかを聞かれただけだった。もう1人の先生が、調査書にあった「坂東太郎委員」という記述を見て「坂東太郎委員とは何ですか?」と聞いてきた。生徒会誌の名前だと答えると、「その名前の由来は何ですか?」とまで聞かれた。さすがにそこまで知らないので、むかし学校が利根川の川岸にあったからと答えた。その先生がその後「まぁ、県教育書道展知事賞っていう実績もあるしね。」とぼそっと言うのを私は聞き逃さず、これはかなり良い線をいっていることを確信した。

面接はつつがなく終わり、後に大学も先輩となるKさんと電話で連絡を取り合い、Kさんのお宅にお邪魔させてもらった後、Kさんの車で駅まで送ってもらい、私の筑波大学受験は終わった。

帰るとすぐに、今度は新潟大学の対策のために、私は以前と同じく学校に通うことにした。入試の翌日には高校のN先生に入試のことを細かく聞かれたが、残さず記憶していたのでそれを一つ一つ話した。他の受験生があまり上手くなかったことも率直に話した。新潟大学の対策はこれまでと同じ練習を繰り返したのだが、筑波大学でかなりの手応えを感じていたし、共通一次の自己採点結果では、新潟大学の合格可能性は余裕のA判定(しかも志望者で1位)だったので、あまり気合いが入らなかった。

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書道について23

2007-07-10 22:43:07 | 日記・エッセイ・コラム

○筑波大学を受験する その2

昼休み。高校の先輩とは連絡を取っていなかったので、会場の隣の建物の休憩室で、伯母さんの作ってくれた弁当を食べた。

すると斜め向かいの席から、さっき同じ会場で一緒に試験を受けていた受験生と思われる人が話しているのが聞こえた。相手は大学に通っている学生の人のようだ。するとこの人も現役の学生と関係があって、その世話で受験をしているのだと知った。

さすがに初対面の人に声を掛ける気にはなれなかったので、そそくさとその場を後にしたが、入学後聞いたところによると、彼らは私のことを、私の高校の先輩から聞いていて、知っていたのだそうである。しかもそこで話をしていた学生が、私がいなくなってその受験生から、今出て行ったのがその噂になっていた人(つまり、私のこと)だということを聞かされて、その受験生に「どうしてそれを教えてくれなかったんだ!」と言ったのだそうである。

確かにそこで声を掛けられていれば面白かったと思う。でも、今思うとあそこで声を掛けられなくて良かったと思う。なぜなら、誰も知らない環境で、良い意味での緊張感の中で受験をしていたから。もしあの場で彼らと知り合っていたら(しかも1人は同じ受験生!)、やはりその緊張感を持続できなかったのではないかと思うのである。

午後の課題は以下の通り。
漢字半紙臨書:米芾(べいふつ)「蜀素帖」から任意の連続する六字を臨書
仮名色紙制作:「春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ少女(をとめ)」
漢字半切制作:「紅樹青山日欲斜 長郊草色緑無涯」
これを4時間で制作するのである。

午後の制作は決められた落款を書き、印を押すべき位置も示さなくてはならない。落款は伊藤伸先生が「この間雪が降りました。ですから『春雪(しゅんせつ)』にしましょう。」と言って、「春雪」に決まった。どうやらその場の雰囲気で決めるものらしい。先生はチョークで黒板に北魏風の楷書で「春雪」と大書された。私は北魏風の楷書で半切作品を制作する予定だったので、これは落款のお手本になると思いありがたかった。ちなみにこの大書した跡は、私が入学後もしばらく黒板に残っていた。

制作の方は時間はたっぷりあったので、漢字の臨書から書き始めた。幸い教科書で知っていた作品だったが、書いたことはなかった。行書なのはありがたかったが。まずはプリントに印刷されたものをすべて臨書し、一番書きやすいところを書こうと思った。すると面白いことに一番初めのところだった。決まったら何枚かを集中して書き、わりと早く仕上がった。

仮名の制作は有名な歌だったが、まだ書いたことはなかった。しかし連綿も構成もしやすく、書きやすい歌だった。変体仮名をメモしておいたカンニングペーパーをのぞき込んでも怒られなかった。この制作は用紙が10枚しかなく、また全く墨を引かない紙なので、けっこう書きづらかった。ひょっとするとこの制作が一番緊張したかも知れない。落款はうまく収まった。

半切の制作は隣の大書室で行われた。確か一番早く書き始めたように記憶している。私の前には、さっき休憩室で一緒だった人が書き始めた。何だか三国時代の鍾繇(しょうよう)みたいな楷書を書いている。さっきのかわいい女の子はやはり北魏風の力強い楷書を書いていて、これが一番上手く見える。やはりこの人は間違いなく合格すると思った。他の受験生は、楷書を書いている人が多い。私の左右は唐風のきれいな楷書を書いている。前の方の人は行書を書いている人、北魏でも円筆風の楷書を書いている人(この人は落ちた)もいる。行草書は1人(この人も落ちて、岩手大学に入ったことを後で知る)だけだが、やたらと縦画を長くのばしているのが気になる。

私は書き慣れた北魏風の楷書で制作した。一枚だけ隷書でも書いてみたが、うまくいかないのでやめた。前の方の椅子には先生方が座り、共通一次試験の得点表を見比べているようだ。そうしているうちに半切作品も何とか仕上がった。用紙をたくさんもらえていたので思う存分書けた。                                          

部屋を出入りしながら、さりげなく他の受験生たちの作品を見て回った。やはりあまり上手くない。一番かわいい女の子が一番上手く、私は2番目と見た。そして見て回りながら、私以外の8人の受験番号をさりげなくチェックしてメモしておいた。

二次試験の制作はすべて終わり、私はかなりの手応えを感じつつ会場を後にした。翌日は面接があるのである。学校では面接練習なんか全くしてくれなかったのでぶっつけ本番となるが、今日の自信を持続させて乗りきろうと思った。

翌日は面接である。控え室に入ると、午前中の順番であることがわかった。面接がありながら、私は学校で面接練習をしてもらっていない。だから、面接では制服を着てくるなんてことは頭の外にあり、私服のまま来てしまったのだが、控室全体では半分くらいの人が制服を着ていたように思う。でも、浪人の人も間違いなくいるはずで、その人は私服で来るだろうからと高をくくって席に着いた。

私の席のすぐ左には、前日の実技で前の席に座っていた女の子がいた。おとなしそうな感じだが、かわいい子だなと思った(この子は後に合格したことを知る)。右隣には富山から来ていた女の子。この子とは、私が面接の想定問答集を見ていたことで話しかけてきたことから、うち解けていろいろ話をすることができた。さらにそのもう一人左の、福岡から来た女の子も話の輪に加わり、面接の前ながら緊張感を全く感じずに面接前の時間を過ごすことができた。残念なことに、この2人の女の子は二人とも落ちてしまった。

面接室の前に座っている時にはさすがに少し緊張感を感じた。面接室に入ると、3人の面接官の先生が座っていた。1人は昨日の実技会場にいた書コースの先生だった。主としてその先生が、入学後どんなことに取り組みたいか、どんな書風が好きか、などと聞いてきたので(準備しておいた、前日の実技の出来については聞かれなかった)北魏の楷書が好きだと答えた。特にそれについて突っ込まれることはなかった。次にもう一人の気むずかしそうな先生(この人は彫刻の先生で、入学後彫刻の授業でお世話になった)から、調査書に書かれた内容について聞かれ、「知事賞入賞暦もあるから、なかなか良いですね。」と言われた。面接はそんなこんなで5分程度であっけなく終わってしまった。富山の女の子とちょっと挨拶をして別れた。

その後Kさんに連絡し、Kさんの自宅へ連れて行ってもらい、入試の話をした。「蜀素帖」が出題されていたのに驚いていた。何と前年の大学院入試と同じ課題で、面接官だった岡本先生が、前年の台湾の故宮博物院ツアーで参観していたく感激した作品で、その関係で出題されたのだろうとのことだった。Kさんの自宅は書道関係の本がたくさんあり、道具類も揃っていた。授業で制作した作品なども見せてもらった。こんなことをやるのかと、私はまだ合格してもいないのに、希望に胸をふくらませるとともに、こんなことができるのだろうかと、ちょっと不安も感じ始めていた。

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書道について22

2007-07-07 21:47:09 | 日記・エッセイ・コラム

○筑波大学を受験する・その1

筑波大を急遽受験することになったが、宿泊先に困った。どうしたものかと思案していたところ、母が「船橋のおばさん(父の姉)のところに泊めてもらえば。お祖父さんとお祖母さんも一緒に連れて行ってあげればおばさんも喜ぶと思うよ。」と話した。そしてそれは実現した。

私は2日間、船橋の伯母の家から片道2時間近くかけて大学まで往復した。幸い電車での移動は問題なくできたので、戸惑いはなかった。

さて、初日は1日かけて実技を行う。書コースの場合、二次試験で書制作を選んだ生徒は全員間違いなく書コースへ進学してくるので、同じグループのメンバーの顔をよく見ていた。この中の何人が同級生になるんだろう、と思いながら。

受験生は9人だった。女子が4人、男子が5人。女子が多いと聞いていたが、この男女比は意外だった。女子は皆かわいい子ばかりで、ちょっと嬉しくなった。

実技は芸術専門学群棟の4階にある書コースの実習室を使って行われた。半紙や色紙の制作は小さい方の部屋で、半切の制作は隣の大きな部屋で行うのである。部屋には机が1人2台ずつ置かれ、一つの机で制作し、もう一つは荷物置き場になった。学校の机よりずっと大きいのに驚いた。隣の大きな部屋には一面に巨大な毛氈が敷かれている。こんな部屋で大きな作品を思い切り書いてみたいものだと思った。

先生方から受験上の注意が説明された。先生方の名前は事前に知っていたので、これが岡本先生、これが伊藤先生だろうとわかった。そして何より嬉しかったのが、5年前にテレビで釘付けになったあの村上翠亭先生の本物が、テレビと同じにこやかな表情で、しかもテレビと同じ柔らかな関西弁で話されるのを目にすることができたことである。実物の村上先生にお会いできて、絶対に入試を突破して、先生に教えていただくんだとの強い思いが、胸の奥からわき上がってきた。

午前中(2時間)の課題が発表された。                                    漢字半紙制作:「晴天巻片雲」を楷書と行書で制作し、各1枚提出。                 仮名臨書:高野切第三種7行分を料紙に原寸大で臨書。                     漢字は練習で何度も書いたことのある文字ばかり。仮名は予想通り。しかも好きな古典と来ている。問題なく制作を終えた。

制作の途中、書いた紙を置いたりするのに立ち上がることも多く、他の8人の書いている様子を見ることができた。そしてびっくりした。

皆、はっきり言って私よりも下手なのである。私よりも上手いなと思えるのは、左前に座っている、4人の女子の中で一番かわいい人。この人は間違いなく合格するだろうと思った。私は午前中で早くも合格できるのではないかと思い始めてしまったのだった。

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