桑の海 光る雲

桑の海の旅行記・エッセー・書作品と旅の写真

つれづれなるままに20・耶律楚材のこと④

2006-01-31 21:32:47 | 日記・エッセイ・コラム

平凡社から出版された「中国書道全集」に、耶律楚材の書作品が掲載されている。解説によれば、自らが詠んだ漢詩を書いた横巻で、現在はアメリカの博物館に所蔵されているとのことである。

文字は明らかに唐の顔眞卿に倣ったもので、更に痛快さと迫力をプラスした、実に豪快な書であった。「ウルツサハリ」(美しい髭を生やした人)、「美髯宏声」(美しい髭を生やした、遠くまでよくとおる声の持ち主)と呼ばれ、チンギス=ハンが「この人は天が我が家に賜ったものである」とまで評した耶律楚材が、かくも迫力溢れる文字を書くとは意外であった。しかし、この作品はアメリカ所蔵とのことで、きっと絶対に目にすることはできないだろう、と思っていた。

時は流れて、三年前のことである。私が所属している書道の団体が、アメリカに所蔵されている中国書跡を展示する展覧会を開催した。それ以外にも、他の美術館や、個人が所蔵している名跡を展示するとのことで、私は知人の結婚式にかこつけて、大阪まではるばる見に出かけたのである。

例によっていささか食傷気味になってしまうほどたくさんの名品を見た、その出口に近いところに、その横巻は広げられていた。そう、耶律楚材の自書詩巻である。それは全く思いがけない形で私の目の前に現れたのであった。

「中国書道全集」では、モノクロ印刷のため、文字は真っ黒に映っていた。あの迫力からすると、きっと濃墨で書かれた墨痕淋漓な文字が並んでいるに違いないと想像していたのである。

ところが、実物は全く異なっていた。墨が淡墨だったのである。そして、その淡墨は、青みを帯び、何とも言えない美しさである。そう、あの豪快な文字は、こんなにも美しい、淡い墨で書かれていたのである。その墨と書風の対比が、また何とも印象的であった。

書風は確かに顔眞卿がベースになっているが、北宋の黄庭堅、南宋の張即之の影響も強いようである。

巻末には耶律楚材が彼の雅号「玉泉」を記しているが、「玉」の点のところには、墨の飛沫が見える。書かれた詩は、清廉な若い官僚を詠じたものであるが、そこには若き日の耶律楚材自身が反映されていたのかも知れない。そんな思いが、自分の署名におけるこうした表現にもつながっているのではないかと思った。

そして何より感激したのは、耶律楚材が実際に書いた文字が私の目の前にある、ということである。私はしばらくの間、その作品の前で立ちつくしていたのであった。

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つれづれなるままに19・耶律楚材のこと③

2006-01-30 22:17:46 | 日記・エッセイ・コラム

「湛然居士文集」は後に背が割れてしまい、今ではガムテープで補修してある。それくらいこの詩集を開き、作品制作の詩を捜した。

でも、所詮は漢文の白文なので、意味がわからないところが大半である。そうこうしているうちに、ネットで検索していると、何と耶律楚材の詩文を抄訳した本が発刊されているのを見つけた。明徳出版社「耶律楚材文集」である。これには、中国では失われたものの、日本には奇跡的に伝存した「西遊録」という文の訳も収められ、また詩については西域関係の詩ばかりが収められている。

しかし、それでも私が読みたかった西域関係の詩の半分しか収められていない。更にネットで調べると、「定本湛然居士文集訳」という本を発見した。これは「湛然居士文集」をすべて日本語訳した本である。これは是非入手せねば!と思ったのだが、何と1冊18,000円!とても手が届かないので、古本で安く入手できればと考えている。

一方では、陳舜臣が耶律楚材を主人公にした小説「耶律楚材」を発表したので、すぐに図書館で借り出して読んだ。文庫本になると購入して再読した。大衆小説であるから、耶律楚材は非の打ち所のない英雄として、そして運命に翻弄される人物として描かれている。それはそれで面白かった。

しかし、何より驚いたのは、その後書きである。陳舜臣によれば、あの中島敦が「湛然居士文集」に朱を入れて読んでいた、というのである。つまり、中島敦は耶律楚材を主人公にして小説を書こうとしていたと考えられるのである。陳舜臣によれば、”運命との格闘”をテーマに小説を書き続けた中島敦にとって、自分の国を攻め滅ぼした元王朝に仕える、という運命に従わざるをえなかった耶律楚材の生き方は、そのテーマにぴったりと当てはまるというのである。このエピソードの出所が何であるかは明らかにされていないが、中島敦のファンでもある私には、実に興味深いエピソードであった。

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つれづれなるままに18・耶律楚材のこと②

2006-01-29 20:57:54 | 日記・エッセイ・コラム

図書館で捜してみると、もちろん「耶律楚材詩集」なんてものはない。日本で発行された漢詩のアンソロジーを捜してみたが、「西域河中十詠」とは別の詩一首が掲載されていただけだった(これも後に書作品にした)。

仕方がないので、パソコン(私の通っていた大学の図書館は、パソコンでの図書検索ができるはしりだった)で「耶律楚材」を検索してみると、「湛然居士文集」というのが見つかった。彼の文集であるようだ。示された棚で捜してみると、見つかったのは1986年発行の、実に簡素な作りの中国製の本だった。表紙もちょっとした厚紙、中はわら半紙よりも薄い、中国の廉価版の書籍にありがちな紙を用いている。そして、紙面一杯にぎっしりと文字が並んでいる。見ていると目が痛くなるくらいである。

早速索引で「西域河中十詠」を捜すと、すぐに見つかった。「中国名詩選」掲載の一首は、その第一首であった。そして、十首すべてが「寂寞河中府」で始まっている。

河中(サマルカンド)は当時でも大都会であり、大変豊かな土地であったことが、詩は読めなくとも(もちろん中国の本だから、返り点も送り仮名もない。わずかに固有名詞に傍線が引かれているだけである)、詩に用いられた語を目で追うだけでわかる。

しかし、後に別の本で、チンギス=ハンはこの西征の時、河中を攻め滅ぼしたのだそうだ。とすると、耶律楚材は、チンギス=ハンが攻め落とす前の河中を詠じたことになる。

その後神田に出かけた時、ふと内山書店に寄ってみた。何となく詩集のコーナーへ行くと、見覚えのある本が書棚に並んでいる。そう、「湛然居士文集」であった。値段を見ると、日本円で970円。中国元では2.75元とあるから、日本円と比較するとかなり安い。でも、日本の本の値段に比べれば、ごく普通の値段なので、早速購入した。

家に戻り、ページをパラパラとめくり、西域をテーマにした詩を中心にピックアップし、ページに折れ目を入れていった。これがまた沢山ある。また、中国の本であるから、意味がよくわからないのは前述の通り言うまでもない。だいたいの字面で選別していった。しかし、実際に作品制作に用いたのは、就職した後であった。

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つれづれなるままに17・耶律楚材のこと①

2006-01-28 21:07:05 | 日記・エッセイ・コラム

書作品には、漢詩を書くことが多い。その題材を集める中で、大学1年の時、私は岩波文庫の「中国名詩選」という本を入手した。その後、その中から内容的に共感する詩を選んで、ページに折り目を入れ、展覧会ごとにその中から、季節や気分に合う詩を選んで書いていた。

その中に、耶律楚材という人の詩「西域河中十詠」という題の詩が一首掲載されていた。耶律楚材は高校の時世界史で名前が出てきたことがある。世界史の授業で習った内容は、入試に関係なかったこともあってほとんど忘れていたが、この人は珍しい名前だったので覚えていた。

その「西域河中十詠」は、チンギス=ハンの西征に従って中央アジアに出かけた耶律楚材が、当時河中と呼ばれた現在のサマルカンドで、当地の景物を題材にして詠んだ詩である。

詩の中には葡萄、杷欖(スモモの一首)、鶏舌肉(スパイスを利かせた鶏肉)、馬首瓜(ラグビーボールのような細長い瓜)、流沙といったシルクロード地方の景物が詠み込まれ、極めて異国情緒に満ちた詩となっている。兼ねてからシルクロードにあこがれを抱いていた私は、この詩に強く惹かれ、グループ展のために、この詩を用いて楷書作品を制作し、発表するに至った。

「中国名詩選」には「西域河中十詠」のうちの一首しか掲載されていない。「十詠」ということは、他に九首あるはずである。私はその九首を何とかして読みたいと思い、大学の図書館に向かった。

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初めての沖縄の旅⑥

2006-01-19 21:22:46 | 旅行記

1/9②

午後は斎場御嶽(せーふぁーうたき)と識名園に行くことにした。というか、ガイドブックを見て私が行きたいと思ったところを挙げたら、それがそのまま通ってしまったのである。

レンタカーにはカーナビが付いているが、これが古いもので、最短距離を示してくれるのはいいが、狭い道やカーブの多い道を示してくれて困った。結局目的地まで、かなり余計に時間がかかって到着した。

斎場御嶽は沖縄に数ある御嶽(うたき)の中で最も聖なる場所であった。確か昔大河ドラマ「琉球の風」でここが取り上げられ、岩の間から見上げる三角形の空や、御嶽の一番奥の岩場から遠く久高島(くだかじま)を望む景色が放映されたのを覚えている。

ここは世界遺産に指定されており、駐車場や遊歩道も整備されていた。神聖な岩場を三つほど周り、横道にそれると、目指す岩場であった。道は奥まで続き、そこに大きな岩が寄りかかるように位置していた。その奥に、久高島を眺められる場所があった。そこから振り返り見上げると、あの時テレビで見たのと同じ三角形の空があった。空は曇っているが、それでも、その空の明るさと、岩陰の暗さのコントラストが印象的である。 そして、辺りには何とも言えない、Kさんの言葉を借りれば「凛とした」空気が漂っている。

目を海の方に向けると、神のいます聖なる島、久高島を眺め下ろすことができる。水色の珊瑚の海に浮かぶ緑色の島。今は失われてしまった、女性達によって行われる祭事・イザイホーで知られる島。人家はあるのだろうがほとんど識別できず、島一面が緑に覆われているように見える。

かつて人々は、ここから久高島を眺め下ろすことで、彼方の聖なる世界、ニライカナイにいざなわれたのだろう。そんなことを考えていたら、日々の暮らしの中で汚れきった心が、何だか浄化された、ピュア、とでもいったような気持ちになってきたような気がした。それを同行の人達に話すと、皆同じような感覚にとらわれていたという。やはり、ここは本当に聖なる場所であるように思えてきたのだった。

そんな不思議な心持ちで、最後の訪問地、識名園へと車を走らせた。沖縄はやはり島である。南北には長いが、東西は狭い。島の東の端にある斎場御嶽から島の西側の那覇市内にある識名園まで、さほど時間はかからなかった。

識名園は、琉球王室の別邸である。もちろん当時の建物は破壊されたが、現在では復元され、庭園もきれいに整備されていた。それにしても、ここも都会の喧噪から隔絶された、実に静かな場所であった。広さこそあまりないけれど、木々を植えた場所と芝生、果樹園、池、建物が巧みに配され、ぐるっと一周すると、庭園の様々な要素をすべて見て回れるようになっている。特に、池にかかる橋(二つあるうちの一つは珊瑚でできた石灰岩で作られていた)から眺める建物の姿が美しかった。

識名園を後にし、ゆいレールの県庁前駅で車を降りた。Tさんは今夜も泊まるので、ホテルに向かった。私とIさん、Kさんはゆいレール(まさか乗れるとは思っていなかった)で那覇空港に向かい、夕方の飛行機で羽田に戻った。飛行機は遅れもなく、行きよりもずっとく羽田に着いた。最終列車で家まで戻った。

初めての沖縄行きは、団体行動ということもあってなかなか自由はきかなかったし、初めて接する人も多くて戸惑いもあったが、見たいものは一通り見られたし、食べたいものもそれなりに食べられ、そして何より、そうしたことによる喜びを分かち合える人達と一緒に旅することができたのが良かったと思う。

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初めての沖縄の旅⑤

2006-01-18 20:34:05 | 旅行記

1/9(月)①

いよいよ今日は最終日である。昨日とうってかわり、朝食会場の人も少ない。朝、皆で解散式を行った。皆それぞれに出発していった。彦さんファミリーといもぴーは水納島に、私とKさん、MさんとIさんは瀬底島のビーチに行くことにした。今日は私がレンタカーを運転する。

瀬底島のビーチは人も少なく、きれいな砂浜だった。右手には伊江島、左手には水納島が見える。見ていると右手の方から船が現れ、水納島に近づいていく。その船には彦さん達が乗っているのだった。Kさんがいもぴーにメールを送ったり、電話をしたりして、瀬底島で皆が手を振っているのがわかるかどうか確認しようとした。船が着くといもぴーから連絡が来たが、わからなかったようだ。そして、彦さんのお子さん達が目の色を変えて貝拾いに熱中しているとのことだった。

瀬底島を後にしてひたすら南下した。途中、初日に大行列が出来ていた恩納村のたこ焼き店「たこやっきー」に寄ってみたのだが、開店前だった(ちなみにここは関西から移住した人が経営する有名店らしい)。途中、サミットが行われた万国津梁館の横も通り過ぎた。

そして次の目的地の琉球村に着いた。お土産売り場の横のステージで、ちょうど民族舞踊ショーが行われるところだったので、見て楽しんだ。個人的にはエイサーを見たかったのだが、あのスタッフの数では無理だろう。琉球村そのものには入場しなかったが、舞踊を見られただけで充分だった。

その後残波岬に行った。珊瑚が隆起した岩の上に、真っ白な灯台が建っている。燈台は登れるので、上まで登ってみる。上がってみると、これが実に怖い。高い上に、立つ場所の床が微妙に傾いている。しかもフェンスは網になっている。見下ろすと真っ青な海、そよ吹く風。本来ならとても気持ちいいところなのだろうが、高所恐怖症ぎみの私には、心から楽しむことはできなかった。

残波岬を後にし、那覇に向かって車を進めた。宜野湾のタコス店でお昼にする。この店はメニューにタコス(4つ、500円)とジュース、ビールしかないという、変わった店である。しかし、観光客だけでなく地元民にも大人気で、私達が食べている間中、店は一杯だった。タコスもとても美味しくて、お腹一杯になった。

食後の予定を店で考えた。残り時間のことも考え、昨日の続きで、世界遺産のいくつかを巡ることとし、それで旅を締めくくることに決めた。

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初めての沖縄の旅④

2006-01-17 22:22:29 | 旅行記

1/8 ②

沖縄にある世界遺産に登録された史跡には、城(ぐすく)及び庭園、陵墓、御嶽の合わせて9カ所がある。今回の旅では、そのうち一つでも見てみたいと考えていた。だから、Kさんが今帰仁城に行くことを提案してくれた時はとても嬉しかった。

今帰仁城は、海岸から山道を随分登った先にあった。山頂が近づいてくると、木々の合間に石垣が見えてきた。立派な駐車場と売店が整備されており、何台ものレンタカーが止まっていた。城そのものはまだ発掘・修復中で、城壁の一部が復元されているだけだったが、当時の雰囲気を充分に残していた。特に、城門と城壁の石積みが印象的だった。高台から眺める海、島々、山々の景色も美しかった。早咲きの桜も数輪咲いている。しかし、この寒さに、ちょっと早く咲きすぎたかな、というような様子であった。

城門の所には、チケットの改札があるのだが、その周りには何匹もの猫がいた。とても人なつこく、なでたり抱いたりしても全然いやがらない。後で帰ってネットで調べてみると、今帰仁の名物だそうだ。

改札の隣には売店があり、サトウキビをそのまま絞ったジュースや、シークワーサーなどの柑橘類を搾ったジュース、黒砂糖を溶かして生姜を加えた熱いジュースなどが売られていた。それぞれ一杯ずつ購入して皆でまわし飲みしたが、野趣ある味でなかなか美味しかった。

駐車場横の売店のトイレが実に南国ムード満点であった。何しろ、トイレ内に南国風の庭園があり、しかもそこは露天なのである。台風の時はどうするのだろう、と気になった。

帰りにナゴパイナップルパークに寄った。ここはその名の通り、パイナップル園で、土産物もパイナップル関係のものが中心である。パイナップルシュークリームが売っていたので、1個買ってその場で食べた。いもぴーは星観荘ファミリーのお土産に買っていた。

その後ホテルに戻ったのだが、途中でスコールがあり、それがやむと空には美しい虹が出た。そう言えば昨日の夕方にも虹が出ていた。やはり南国なんだな、と思った。

夜は皆で宴会だった。料理はいまいちだったが、大いに盛り上がった。カラオケで、彦さんの歌を久しぶりに聞いた。私は「きよしのズンドコ節」を歌った。 終わりには例によって盛大に写真撮影会を行った。

二次会は一人で広い部屋に泊まっているKさん(男性)の部屋で、12時頃まで行われた。私は疲れていたので、皆がにぎやかにしている様子を眺め、少し話に加わったりした程度で止めておいた。同室のIさんはもうしばらく飲み続けていたようである。

もう明日は帰る日である。

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初めての沖縄の旅③

2006-01-16 21:12:23 | 旅行記

1/8 ①

今日は皆で美ら海水族館に行くことになっている。星観荘ファミリーの一番の目的が、ここを訪れることだったそうだ。

ところで、昨日道ばたにマラソンの告知が出ていた。ホテルにも参加者らしき人がたくさん泊まっていた。どうやら、水族館のある海洋博記念公園が会場になっているようだ。水族館に近づくにつれ、道路が混雑してきた。駐車場はどこも一杯である。水族館に来ている人の方が少ないだろう、と思われるくらいだった。

かなり離れた、普段は開放されていない駐車場に車を止めた。そこから歩いていくと、そのまま水族館の敷地に入っていく。私達はまず、イルカとふれあうことになった。これは事前に申し込んでおかないといけないのだが(いもぴーは沖縄に来る前にハガキで申し込んでいた)、今日は人数にゆとりがあり、当日申し込みが出来るとのことだった。Iさんは申し込むため、早めに車を降りて会場に先に行っていた。Tさんも申し込みたいと考え、Iさんにケータイで一緒の申し込みをお願いした。ところが、なぜか申し込むつもりのなかった私とKさんまで、Iさんは申し込んでおいてくれたのである。しかも、抽選で当たってしまったのである。

ふれあうイルカはもうベテランのイルカで、一頭は以前NHKで紹介されていた、人造尾びれを付けているフジであった(今日は付けていなかった)。私はそのフジに触ることができた。手を動かすと、鳴いたり尾びれを振ったりしてくれた。言うことをよく聞き、腹這いになって体のあちこちを見せてくれる。表情も穏やかである。友人の奥さんは昔、ある水族館でイルカに乗っていたので、早速そのことをメールすると「肌ざわりはナスと同じでしょう。」と返事が来た。その通りだった。

その後イルカショーを見た。よく馴らされていて、とても楽しかった。クジラが飛び上がる向こうを、マラソンランナーがたくさん走っているのが見えた。

その後館内に入った。館内は、さすがに連休だけあり、たくさんの観光客でにぎわっていた。Iさんはビールの文字に誘われて、レストランに走っていった。水族館の展示はとても凝っていて、珍しい展示も多かった。この水族館の呼び物でもある、ジンベエザメのいる大水槽がすごかった。やや魚が多すぎるような気もしたが、それ以上に人が多すぎてゆっくり見られなかった。

お昼にしようと思ったが、この水族館には、カフェとレストランが一つずつあるのだが、カフェはファストフード店のようなもの、レストランは何とバイキングしかやっていない。敷地内に他にレストランはない。ちょっと困った。

昼過ぎに皆で一旦集合し、後は解散して各自自由行動となった。私はKさん、Tさん、Mさん、Sさんと車で出かけることにした。

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初めての沖縄の旅②

2006-01-15 22:58:35 | 旅行記

1/7(土)

始発電車で羽田へ向かう。到着して幹事のKさん、Iさん、やや遅れてMさん、Nさんと一緒になる。皆顔見知りだ。 今回の旅では、このメンバーと多くの時間を一緒に過ごした。

那覇行きの飛行機はジャンボが飛んでいる。席は9割の埋まりようである。ここのところ、羽田発はいつも遅れるので気になっているが、この便も15分以上遅れた。

私は窓際の席になったが、早起きのこともあって、大半を寝て過ごす。遅れもあって、結局3時間近くかかる。ソウルよりも時間がかかり、改めて遠いのだな、と思った。

空港に着くと、独特のにおいがした。かつて台北空港に降り立った時と同じような感じがする。中国の空港ほどではないが、においの種類は近いものがあるような気がした。改めてアジアだな、と思った。それにしても寒いのでびっくりした。上着もそのまま着ることにする。

レンタカー会社にバスで向かった。本来は2台の別々の車を借りることになっていたが、目的地は同じだし、動きやすいということで、大きな車1台に変更した。これが、後々までとても役に立った。

時間は早くも昼時になっていたので、Kさんの運転で牧志公設市場へ向かった。この市場のすごさは向田邦子の文章で読んで知っていたが、ちょっと観光客向けになっていて残念だった。でも、独特の品々が売られていた。特に豚肉や、色鮮やかな魚、珍しい野菜が印象に残っている。ここも独特のにおいが充満していた。また、通りでは、何かの葉に巻いたものが山のように積まれ、たくさんの人が並んで争って購入していた。

市場の二階でお昼にする。観光客向けふうな店だったが、それなりに味わえた。特に私は沖縄そばが気に入った。値段も安いと思った。ただ、全体的にやはり油こく、食べ終わった後、口ざっぱりしたものが欲しくなった。中国であれば、食後のお茶はさながらその役割を果たすものだろう。沖縄にはそういう役割を持ったものはないのだろうか?

今日の泊まりは本当中央部にある本部(もとぶ)なので、レンタカーで北上する。途中ブルーシールというアイスクリーム店があり、沖縄では有名だそうなので寄ってみる。これがすごい。こちらのファミレス並みの規模の店舗である。それだけ需要があるのだろう。アイスクリームの種類も多い。また、パンやパイのようなものも売っている。お菓子のファミリーレストラン、といった感じである。私はマンゴーとグァバの、南方系の果物のものを二種類組み合わせて食べた。どちらも濃厚な味わいだった。

道路はとてもよく整備されている。おそらく沖縄サミットがらみだろうと思われた。サミットが行われた会場の横も通ったそうだが、私は寝ていた。印象に残ったのは、恩納村にある道の駅「おんなの駅」、すごい行列ができていたたこ焼き店「たこやっきー」である。

車を快調にとばし、ホテルに到着してみると、何と玄関に「星観荘25周年ご一行様」とある。嬉しい配慮である。ウェルカムドリンクがあり、シークヮーサージュースにする。沖縄特産の柑橘類だそうだが、独特の味だった。

ホテルはリゾートホテルということで、こちらのホテルとは若干作りも違っているようだった。特に廊下が外に面しているのが驚きだった。ホテルの裏の家に「ホテル関係者の皆さんへ。騒音で迷惑しています。」という大きな看板が掲げてあった。 きっと夏場は宿泊客達が大騒ぎをするのだろう。

大浴場があったが、こちらの温泉に入り慣れている者にとっては不満足だった。夕食は近郊の地元民の行く店に行って、郷土料理などをつついた。それなりに美味しかった。

夜は幹事部屋の私の部屋で宴会となった。今回のメンバーは、知っている人の方が少なく、やや肩身の狭い思いがした。しかも、そうした人は皆面識があるようで、なおのことそう感じた。仕方ないので、今日行動を共にした5人を中心にいろいろ話して過ごした。 特に、Iさんのいろいろな話で盛り上がった。ここである人が、牧志市場で見た何かの葉に巻かれたものを取り出した。何でも今日は沖縄では「ムーチーの日」で、この日にムーチーを食べると1年を健康に過ごせるのだそうだ。しかし、私には餅を包むのに使われたサンニンの葉のにおいがどうしてもダメで、食べられなかった。

さすがに今日は皆長距離移動で疲れたのか、12時でお開きとなった。それにしても寒い。部屋で暖房を入れることになるとは思いも寄らなかった。

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初めての沖縄の旅①

2006-01-14 19:14:51 | 旅行記

北海道関係の友人には、夏は北海道、冬は沖縄(屋久島や小笠原も含む)に行く、という人が多い。

私も数年前小笠原で新年を迎えたことがあるが、やはり私は南の島は向かない、ということを身を以て実感して帰ってくる結果に終わった。

その著書を愛読する、下川裕治の関心は、最近はアジアより沖縄に向けられているようだ。著書も沖縄関係のものが多い。同様に愛読する赤瀬川原平や向田邦子も沖縄を訪れ、優れた紀行文を残している。岡本太郎の「沖縄文化論」を読んで感動したこともあった。

そうした書物を読んで、斎場御嶽や久高島、城(グスク)群にも関心を持ち、訪れてみたいと思った。牧志市場も面白そうである。できたら摩文仁の丘の平和の礎(いしじ)も訪れてみたい。そして、風の吹き抜けるサトウキビ畑を歩いてみたい(森山良子の「サトウキビ畑」の詞を作品に書きたいとかねてから思っているのだが、実際にその光景を目にしてみないと書く資格はないと考えている。)。

そんなわけで、沖縄に一度は行ってみたいと思ってきたのであるが、どうも、これ、といったきっかけがなく、また、小笠原での苦い経験もあって、今ひとつ気持ちが向かないでいた。

ところが昨年の秋、星観荘が25周年を記念して沖縄ツアーを催すことを知った。星観荘の温泉ツアーには、これまで3回(舘山寺・周参見・小谷)参加したことがあるし、サンシャイン水族館や鎌倉でのイベントにも参加したことがある。

さらに言えば、幹事は以前星観荘で一緒になったことがあるKさんである。Kさんも沖縄フリークで、年に何回も沖縄を訪れている。早速電話をすると、いろいろと教えてくれた。また、共通の知人であるIさんも参加するという。カレンダーを見てみると、仕事関係の行事があるのだが、何とか都合が付きそうである。費用の面が心配だったが、航空券・ホテル・レンタカーを含めて3万円を少し超えるくらいだという。こちらも何とかなりそうである。参加することに決めた。

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