桑の海 光る雲

桑の海の旅行記・エッセー・書作品と旅の写真

書道について69

2010-06-12 22:23:05 | 旅行記

○大学院2年の頃③

*西安ツアー・その3

翌日は西安郊外のツアーである。目的は昭陵碑林と、高宗と則天武后が葬られた乾陵、永泰公主墓である。

ホテルを出たバスはしばらく市街地を走り、幹線道路を外れて郊外の田舎道に入った。周囲は一面の畑。菜の花畑があちこちにあり、家々の周りには桐の木が植えられ、紫色の大きな花が満開であった。

畑の中に昭陵の陪塚とおぼしき小山が点在しているのが見え始めると、昭陵碑林に到着する。ここは陪塚の李勣の墓を碑林として整備し公開しているのである。敷地に入ると李勣の碑が当時のままに建ち、その後ろには李勣の墓がある。墓の上には登ることができ、畑の続くあるか遠くに太宗が葬られた昭陵のある山が鋭く聳えている。言い伝え通りであれば、王羲之の蘭亭叙はここに副葬されているはずである。

石碑は李勣の墓の西側の建物に集められ並べられていた。有名なところでは歐陽詢の温彦博碑、褚遂良の房玄齢碑、虞世南の書を忠実に学んだ人(書者不明)の手になる孔頴達碑があった。特に前二者は著名な作品であり、しかもこれらの碑にはいずれも拓本が貼られて折らず、また碑面にガラス板もなく、碑面を直に触ることができる。これらの石碑はいずれも人の手の届くところの文字は皆後生に破壊されて見ることができないが、上方の文字は何とか見て取ることができた。これらの石碑は、かつては陪塚に建てられていたものであるが、現在ではこの碑林に集められているのである。

私が一番感動したのは、尉遅敬徳墓誌であった。唐代の石碑には題額のところに飛白体が用いられるものがあるが、その実物を目にしたのは初めてである。しかもこの墓誌は長く土中にあった(途中で見かけた陪塚のどれかに埋まっていたのが恐らく盗掘で出土したのである)ため、保存状態が極めて良く、極細の線の一本一本まで見て取ることができた。これまで飛白体の題額は則天武后が書いた昇仙太子碑と、太宗が書いた晋祠銘の拓本を本で見たことがあるだけであったが、そのどちらよりも優れていると思われた。飛白体とは恐らく鳥の羽か何かで書いた時の線質をアレンジしたものであろうが、こういうものを発想し、実際に石碑に書いて刻みつけたこと、そしてこの書風が後世に受け継がれなかったことが興味深い。しかしながら、展示されているガラスケースがほこりだらけで、写真が上手く撮れない。仕方なく持参していたウェットティッシュでガラスの表面をぬぐったところ、何とかきれいに見えるようになった。高木先生に「中日友好に役に立つ良いことをしたね。」とからかわれた。帰り際にこの墓誌の拓本を買わないかと館員に勧められ、ちょっと心が動いたが、高木先生と岡本先生が、提示されたその金額があまりに高い(日本円で2万円くらい)ということで見送った。

ここの碑林で私は初めて、噂に聞いていた中国式のトイレを経験した。トイレに入ると、数人の中国人が一列に並んでしゃがんでいる。その前に立って用を足す。田舎の生まれで昔のトイレには慣れている方であるが、さすがにこの光景には面食らった。でも、この時のツアー以上にすごいトイレには、幸いお目にかかることはなかった。今ではこの日林は西安からの日帰りツアーコースに組み込まれているので、きっとトイレもきれいに改修されていることであろう。

コメント
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