桑の海 光る雲

桑の海の旅行記・エッセー・書作品と旅の写真

書道について⑤

2006-10-27 21:09:38 | 日記・エッセイ・コラム

○担任の先生②

当時は必修クラブの時間というのが、4年生から週1時間あった。運動の苦手だった私は、文化系のクラブを探したのだが、家庭科系のものしかなく、女子に囲まれてそういうことをするのも気が引けたので、習字クラブというのを選んだ。もちろん顧問は担任の先生である。

これは面白かった。書写の授業は週1回あったが、硬筆をやることもあり、硬筆はその頃から苦手だったのだ。しかし、クラブの時間では、授業で扱うのよりもずっと難しいお手本が配られる。新しいお手本ばかりで、今日はどんな字を書くのか、毎回毎回わくわくしながら楽しみにしていた。先生も、その期待に応えるかのように、毎回素晴らしいお手本を書いてくださった。

先生は、授業中生徒にずっと作業をさせている時などに、たまに半紙の作品を選別していた。文字の様子からして、子供のものでなく大人のものであることは間違いなかった。子供の作品だけでなく、大人の作品も見ることが出来る先生は、きっとすごい人なのだろうと思うと、先生に対する尊敬の念が、子供ながらに強くなった。

5年生の時、クラブで書いた作品が、東京新聞地方版の紙上書道作品展に入賞し、作品が掲載された。しかも、年間最優秀賞にも選ばれた。後でこの入賞には先生が尽力したことを当時の担任の先生に聞かされ、やっぱり先生はすごい人なのだと思った。

先生には卒業するまでお世話になった。書道の世界は狭い世界だから、先生がどのような会に関わりがあるのかわかろうものだが、結局今に至るまで先生がどこの会と関わりがあったのかはわからないままである。

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書道について④

2006-10-24 23:06:39 | 日記・エッセイ・コラム

○担任の先生①

小学校3年になると、毛筆書写が始まる。私はここで運命的な出会いがあった。3,4年の担任の先生が、書道の専門家だったのである。

先生が書くお手本は、子供の目で見てもどれも見事だった。教科書のお手本はあまりに整いすぎていて生気に乏しかったが、先生の書くお手本は、肉筆であるということ以上に、生き生きとしていた。ただ、やはり大人の字であったので、そのまままねて書くというわけにはいかなかった。しかし、教科書にはない言葉を次々にお手本にして書かせるので、とても楽しかった。

専門家の先生なので、朱墨による丸付けや添削も的確で、しかも担任ということで、生徒の褒めどころをつかんでいたので、私などはいつもたくさんの丸がもらえて有頂天だった。しかし、クラスには私と同じくらい、時によっては私以上に多くの丸をもらう子(それも女子ばかり)もいて、私も子供心にライバル心に燃えていた。ある時などは、そうした女子の一人が、申し分のない評言をもらい、六重丸をもらったのに対し、私は細かなところでは丸をもらったものの、全体では二重丸に過ぎず、実に悔しい思いをした記憶がある。この女子には、後に同じ展覧会に出品して何度も負け、書道のあった4年間苦杯をなめさせられ続けた。

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書道について③

2006-10-15 20:29:25 | 日記・エッセイ・コラム

○家にあった書道用具との出会い~塾に通う

ある時、家にあったタンスをごそごそやっていると、書道用具一式が出てきた。母が昔使っていたものだった。すぐに母に見せ、使い方を教えてもらい、菓子を包んであった半紙に何かしらの字を書いてみた。何という字を書いたのかは覚えていない。しかし、書き方を教えてもらったわけでもなく、自分で好き勝手に書いてみたのだが、これを家族は上手いとほめてくれた。

これが、私と書道との出会いだった。

小学校のクラスメイトで、書道の塾に通っているのが何人かいた。話を聞くと、週に2回くらいで、半紙を何枚か書いて提出するだけで、時間はそれほどかからないという。教えてくれた友達は、面白いから来いと言う。私は家に帰り、○○君も行っている書道塾に通いたいと話したのだと思う。話はすぐに進み、友達が通っているのと同じ書道塾に通うことになった。確か、小学2年の12月だった。

塾では60歳くらいのおじいさんが教えていた。私の祖父の知人でもあった。はじめに先生が私の手を持って、「おまつり」と1枚の半紙に書いた。次に私が自分でその4字を1枚書いた。(それが最初の作品となり、競書雑誌に発送された。)

翌週から週2回塾に通い始めた。最初の時に書いた半紙には、「○○くんは手筋がよい」と朱筆で書き込まれていた。もちろん崩し字も使われていて、私は小学生の頃からそうした文字に慣らされることとなった。

書いている時に先生が指導することはあまりなく、先生は大人の塾生とおしゃべりしていることが多かった。だから、文字を書きながら、いろいろな大人の事情を耳にすることができたのは面白かった。塾ではクラスメイトにもよく会い、楽しい時間を過ごした。半紙には一文字一文字に毎回朱が入れられており、たまに三重丸がついていることがあって、その時はすごく嬉しかったのを覚えている。

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男体山(なんたいさん)

2006-10-12 18:19:01 | 旅行記

今年は皇海山と男体山と武尊山という、家から日帰りで登れる、日本百名山に入っている山に登ろうという考えがあり、皇海山は実現、武尊山はちょっと時間がかかりそうなのでパス、紅葉が見頃との情報を得て、男体山に登ってきました。

もちろん正規のコースでは時間がかかるので(しかも男体山は神域なので、正規ルートを登るにはなんと入山料が必要!)、山の裏側にある登山口からまさに”裏口登山”してきました。もちろん入山料は不要。

男体山は富士山や利尻山と同様の山容なので、登山道はひたすら登りの連続。しかも火山なので、初めのうちは樹林帯歩きなのですが、山頂に近づくにつれて火山特有のザレ場となり、歩きにくかった!また、何しろ”裏口”ですから、登山道もほとんど整備されておらず、皇海山同様の山歩きを楽しめました。途中、山の北側には、太郎山や大真子(おおまなご)山、女峰山が見えました。紅葉も見頃。

男体山は、中禅寺湖側からはわからないのですが、山頂北側は大きな爆裂火口になっており、山頂に着くまでは、その火口の縁を、ちょうど尾根歩きするような感じで進んでいくのです。

山頂はその火口の縁の一角の、大きな岩がごろごろするところにありました。神様の住む山ですから、岩山の上には大きな鉄刀が立っています。また、近くには二荒山神社の奥の院が鎮座していました。もちろん手を合わせました。

山頂には”良縁の鐘”というのがありました。もちろん少し力を込めて叩いたのは言うまでもありません。

山頂からの眺めは、少しもやっていたものの素晴らしかった!かつて登ったことのある日光白根山や、ついこの間登った皇海山が見えます。眼下には中禅寺湖の青い湖水が広がります。遠くにはまだ未踏の燧ヶ岳もかすんで見えます。男体山と家族をなす太郎山、大真子山、小真子山、女峰山も一望できます。

残念だったのは相変わらずの登山愛好家のおばさま方。山頂全体に響くような大声でしゃべりまくり、うるさいったらありゃしません。少し離れたところで、見事な眺めを堪能しつつ、お昼にしました。

下山は、登りと逆にひたすら下るだけ。途中、鹿の声が聞こえました。中国では猿の鳴き声に秋の寂しさや悲しさを感じるそうですが、日本ではやはり伝統的に鹿でしょう。今では日光や尾瀬では鹿は厄介者ですが・・・

奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき(猿丸太夫)
山里は秋こそことにわびしけれ鹿の鳴く音に目をさましつつ(壬生忠岑)

コースタイムは5時間半とありましたが、俺は山頂での1時間を除いて、3時間半でした。紅葉の美しい、眺めの見事な山行でした。

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皇海山(すかいさん)

2006-10-09 18:55:48 | 旅行記

ふと思い立って、日本百名山の一つ、皇海山に登ってきました。目が覚めた時(5時)には強風が吹いていたので、出発を1時間遅らせたところ、これが幸いし、山では無風。天候にも恵まれました。

皇海山は群馬と栃木の県境にあり、俺の住んでいるところからはそれほど遠くありません。コースタイムも5時間半ほどということで、気軽に登ってこられるだろうと思って行ってみました。 ところが甘かった。いえ、登山そのものは楽だったのです。休憩含めて4時間で戻ってきましたから。

大変だったのは林道。あんな悪路は北海道でも経験したことがありませんでした。それを往復で1時間以上。運転は問題なかったのですが、大きな石がごろごろしていて、それがどれほど車の底に激突したことか!何とか家まで帰ってこられましたが、いつかガタが出そうで怖いです。登山口の駐車場には、俺の車よりずっと高級で、車高も低い車も何台もありましたが、大丈夫だったんでしょうかね?

昨日までの強風で、紅葉はかなり散っていました。途中の看板には、紅葉した葉が風に吹き飛ばされ、看板に叩き付けられて張り付いていました。風がいかにすごかったかがわかりました。

日本百名山に入っていて、今日もたくさんの人が登っていましたが、それに見合わないくらい、登山道は全く未整備でした。せいぜい標識が何カ所か出ていたくらい。皇太子は日本百名山を制覇するという目標をお持ちだそうなので、皇太子が登る時には、きっと大々的に整備されることでしょう。俺はそうした目的で整備された登山道を、北海道は羅臼岳で実際に見たことがあります。

山頂でデジカメのバッテリーが切れるというアクシデントに見舞われたのですが、ここで300万画素のケータイが実力発揮。見事にデジカメの代わりを果たしてくれました。 マナー違反の中高年の方は相変わらず多数いました。ぬかるんだ登山道を平気で外れる。登山道を外れた草地で大盛り上がりの大宴会。沸かしたお湯が余ったら、それを平気で捨てる。狭い山頂にたくさんの人が場所を譲りあって座っているのに、平気でたばこをふかす。急な斜面を石やロープにつかまってようやく降りてきている人を、下にいるこれから登ろうとする人が早くしろと急かす。もう、ほとほとイヤになってしまいます。

いずれにしても、二度と行きません。理由は悪路だけではありません。すばらしい天気で、眺めもすばらしかったから。初雪をかぶった日光白根山もきれいだったし、遠くには富士山も見えました。きっと、これ以上の天候と眺めに恵まれることもないでしょうし。

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書道について②

2006-10-06 20:59:15 | 日記・エッセイ・コラム

○書道を始めたきっかけ

何しろ子供の頃から文字を見たり書いたりするのが好きだったらしい。電話帳にはたくさんの文字が並んでいるからと、電話帳を好んで読んでいた古い古い記憶がある。

そんなことだから、祖父母や両親は、聞けば漢字の読み方を教えてくれたし、祖母に至っては、保育園に通っていた僕に、昔ながらのいろは歌や、「ゐ」「ゑ」までも教えてくれた。

小学校に上がると、週1回書き方の授業があった。どんな授業だったかは覚えていないが、きっとワークブックをひたすら埋めていたのだろう。

私が住んでいた町には毎年、全小学校の3年生以上が参加する書き初め席書大会があった。3~6年生が、当日指定された文字を書き、コンクールに出品されて表彰されるのだが、それに合わせ、コンクールに参加しない1,2年生も、上級生と同じ日に、「おめでとう」「おしょうがつ」などの文字を大きめのわら半紙に、クレヨンやフェルトペンで書いたのを覚えている。

これが、1年生の時に表彰されたのだった。人前で表彰されるとやはりうれしい。家や学校で、いろいろな漢字を教わって書いてみるのがとても面白かった。難しい漢字を書いて見せ、家族がほめてくれるのがうれしかった。

そうなると、私は文字を書くことがどんどん好きになっていたのだった。

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