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桑の海 光る雲

桑の海の旅行記・エッセー・書作品と旅の写真

直行さんのエゾリュウキンカの絵

2024-07-31 19:52:50 | アート・文化
我が手元に坂本直行さんのエゾリュウキンカの絵がやって来てくれました。
旧蔵者によれば、40年以上前に旧蔵者のご両親の結婚祝いとして町から贈られたものとか。こんな素敵な品物を結婚祝いとして贈るとは、その町は粋な計らいをしたものですね。
そんな大切な品物を譲っていただいて良いものかと思いましたが、大切にしてくれる人にということで、ありがたく譲っていただくこととしました。
やや日焼けしていますが、春一番に咲くエゾリュウキンカのみずみずしさが絵にも溢れています。2枚目の写真はかつてGWの礼文島で見たエゾリュウキンカの写真です。
こうなると、直行さんが十勝六花(ハマナシ・エゾリュウキンカ・エゾリンドウ・オオバナノエンレイソウ・カタクリ・シラネアオイ)を描いた作品を6点全部集めたくなってしまいました。残るはカタクリとシラネアオイの絵。
実はシラネアオイの絵もかつて持っていたのですが、花びらの紫色の褪色が目立ち、花も一輪しか描かれていなかったため、後にハマナシの絵の購入費用とするために手放してしまいました。
もっと保存の良いシラネアオイの絵を入手できる機会があればと願っています。もちろんカタクリの絵も。


利尻山の山頂から飛び降りた!?

2024-01-21 22:05:35 | アート・文化

念願の坂本直行の描いた油彩画を落手しました。オークションだったのですが最後まで頑張りました。予算ギリギリでの落札でした(実はちょっとオーバーしたのですが)。清水の舞台ならぬ、利尻山の山頂から飛び降りてしまった次第です。
20年ほど前に、利尻島の鬼脇から見た利尻山を描いた坂本直行の水彩画を入手したのが坂本直行の絵のコレクションの最初でした。今回入手した油彩画も同じ鬼脇から見た利尻山を描いたもので、オークションで見つけたときに運命を感じました。(もし昨年の坂本直行の番組がNHKで放映された頃だったら、今回ほどの金額では入手できなかったことと思います。)
これでわが坂本直行コレクションはちょうど10点となったし、念願の油彩画、しかも登ったことのある山を描いたものを入手できたので、坂本直行の絵を買うのは終了することに決めました。
額装が好みでなく汚れもあるために、いつもお世話になっている画材店で新しい額を調達しました。UVカットのアクリルガラスを入れてもらったので、部屋に飾って毎日鑑賞しようと思います。

よしなしごと18・坂本直行の絵

2005-09-29 21:34:24 | アート・文化
坂本直行の絵を初めて見たのは、大雪山は黒岳ロープウェーの黒岳7合目駅だった。でも、名前を知らない人だったので適当に見ただけだった。

その後、六花亭の包装紙の絵の原画を描いたのが坂本直行だと知った。単なる素人画のように見えながら、単純な描写の中に深い観察力を見て取ったのを覚えている。

しばらくして、深田久弥の「日本百名山」を読んで感動し、彼の他の著作も集めて読んだ。その中で、深田がニペソツ山に登った時、十勝原野に暮らして絵を描いていた坂本直行と会う場面が出てきて、深田と彼が交友関係にあったことを知った。

その後、初めて中札内美術村の坂本直行記念館に行き、その作品群を目にし、感動を新たにした。花の絵ばかり描いているのかと思いきや、そこに陳列されていたのは山の絵ばかりであった。しかも、いつかは登りたいと思っていた日高の山々の。さらに、ニペソツ山や利尻山、羅臼岳など、かつて私が登頂した山の絵もあった。私は一目ですっかり気に入ってしまった。付設のレストラン、ポロシリの料理も、十勝産の食材を使った素朴な味で、坂本直行に実にふさわしいものだと思った。

坂本直行のことを知ってから、黒岳ロープウェー駅の4枚の絵を改めて見直した。しかし、画面が大きいせいか、ちょっと間延びして、強さや迫力、充実感はやや薄いように思えた。やはりある程度小さな画面に雄大な光景を切り取って当てはめ、作為を加えず描いたものに私は感動を覚える。

坂本直行の山の絵を、いつかは私も入手し、日々眺めながら暮らしたい。でも、それは夢のまた夢だろう。入手できない代わりに、私は毎年坂本直行記念館に足を運び続けるだろう。


「モスモス」のこと・その8

2005-03-01 18:36:38 | アート・文化
それは突然やって来ました。

編集部からの封筒を手にして、やった、19号でも掲載されるのか、と思い、急いで封を切りました。すると、そこには1枚の便箋しか入っていませんでした。あれ、ひょっとして不採用か、と思って開けてみると、「モスモス」編集担当のOさんの見慣れた字で、「実は、『モスモス』が今度の号を持って閉刊となることに決まり、……」とありました。その時のショックと言ったら・・・・・不採用になったどころの話ではありません。何か、大切なものが心の中からすっぽりと欠け落ちてしまったような、何とも言えない喪失感にとらわれ、しばらくは呆然としていました。

文面には続けて「何かと『モスモス』に関わりの強かった方々にひとことメッセージをいただきたく……」とありました。もちろん並み居る投稿家の中から選ばれての依頼であるわけですが、少しも嬉しくありません。そんな、突然閉刊と言われたって、いったい何を書けばいいんだよ、えーっ?悲しみというより、半ば怒りのようなものが、私の心を支配していました。

時間にゆとりのない私は、どんなことを書けばよいか、すぐにあれこれ考えました。そして思いついたのが、「もう一人の自分を楽しめる」という言葉でした。そして、それをベースに、こんな文章を書いてみました。

「『モスモス』は、もう一人の自分を楽しめる場所でした。ちょっとした芸術家気どりでの投稿でしたが、自分自身の作品を見て、俺ってこんなヤツだったのかと驚くこともたびたびでした。ありがとう、さようなら、『モスモス』。」

もちろんこれでは私の「モスモス」に対する思いをいいつくすことは出来ませんでしたが、字数制限があったので、仕方がありません。(19号を見たら、もっと長い人が何人もいました。字数を無視してまでももっと書けばよかっ た!)

19号がまさか最終号になるとは思いませんでした。18号の奥付では、そんな気配は全くなく、様々なものを募集していました。その中で、演歌の題名と、チェンジ・ザ・ヘアのみ応募しました。閉刊がわかっていれば、無理をしてでもすべてのコーナーに大量の作品を送っただろうに、と思うと、悔やまれてなりませんでした。その中で、チェンジ・ザ・ヘアの採用が決まりました。モデルが藤さんという人だったので、ごく簡単な発想で、富士山型の髪型を考えて送ったものでした。自分としては、こんな簡単な発想の作品が、「モスモス」の最後の作品になるとは、何ともやりきれず、せめて野崎作品(「希望の光」)くらいの作品で最後を飾りたかったと、残念に思うことしきりでした。

そして、完成した「モスモス」19号が送られてきました。手紙には、編集担当のOさんの字でこうありました。
「4号からですか、本当に長い間、いっしょに遊んで頂き、ありがとうございました。こんなにコンスタントに掲載しつづけたのは○○(本名)さんだけですよね。編集室でも”○ッシー”の愛称で通り、かなり楽しませて頂けました。……」
私のようなヤツが編集部でそんなふうに思われていたとは!もちろん、リップサービス、というところもあったと思うけれど、編集に携わってきた人のこういう言葉を聞いて、率直にうれしさを感じました。そうか、そんなふうに呼ばれて、P.Nさくらさんをはじめとする有名投稿家達と一緒に編集部で話題に上っていたのか、と思いました。

私の作品が、他の人からどう思われていたのかは、実はほとんど知りませんでした。学生の頃は、たまに友人がコメントしてくれたことがあったけれど、地元に戻って就職してからは、ペンネームを使っていたこともあって、全く反応がありませんでした。それゆえ、自由な発想で作品が作れたのかも知れませんが。だから、編集部からのこの手紙は、たった一つの、最も正式なところからの、そして最後の、私の作品に対する評価だと思いました。

19号はほとんどいつもと同じ体裁ですが、始め6ページと、最後4ページが最終号仕様です。私が書き送ったコメントは「送辞」として4ページ目に掲載されていました。そこには、錚々たる投稿家達の、閉刊を惜しむ声が書き並べられていました。声、というより叫び、といった方が正しいでしょう。(P.Nさくらは作品を掲載していました。どうやらMVPに選ばれた投稿家の似顔絵のようですが、素顔を明かしたことのない、MVPもお断りした私の顔はもちろん出ていません。)最後のページには、表紙を担当し続けてきた大西重成さん作とおぼしき凧が空に揚がり、詩のような言葉が載っています。その最後は「バイバイ、すごく楽しかったね。」という言葉で締めくくられています。この一言は、投稿家一人一人、そして、「モスモス」を読んできた愛読者一人一人、そして、編集者一人一人の、「モスモス」閉刊を惜しむ気持ちが集約された言葉であるように思われました。

しばらくして「モスモスサーカス」の発刊のお知らせが届きました。ここにも「モスモス」と同じく、投稿コーナーがありました。帯紙の言葉などを投稿し、採用もされましたが、私には何だか敗戦処理のような感じもして、あまり気勢が上がらなかったのを覚えています。「モスモスサーカス」にも、MVPに選ばれた人を中心としたインタビューコーナーが設けられていました。さくらさんやくろこふさんなどが登場していました。MVPお断りの私はもちろんお声がかかりません。ちょっと寂しい気もしたけれど、それ以上に、その時になって、ああ、MVPを断ったことで、編集部の人に何か迷惑をかけてしまったんじゃないか、ということに思い及びました。

「モスモス」への参加は、本当に楽しかった。年に4回という回数もほどよかったと思います。これがあまり回数が多いと、発想の泉が枯渇してしまう恐れがあったと思います。年に4回だったけれど、日常から解放された発想のもとに、何の役にも立たない作品を作って、自分一人ほくそ笑んでいる時間というのは、端から見ればとても変なことだったと思いますが、今思い返すと、ある意味、とても心豊かな時間を過ごせていたように思えるのです。日常の中の非日常、とでも言いましょうか、それとも、日常におけるアクセント、とでも言いましょうか。いずれにしても、そんな、私にとってけっこう大切な意味を持っていた自己表現の場を失った私は、なかなかその心の穴を埋められずに今日まで過ごしてきました。

でも、ご存じの通り、現在では、「モスモス」を懐かしむHPや、そこで様々な人々に出会うことが出来、「モスモス」について語り合うことが出来、あの大西さんにまで出会うことが出来ました。「モスモス」そのものの楽しみではないけれど、「モスモス」をまた違った面から楽しむことが出来ている今日この頃です。



「モスモス」のこと・その7

2005-03-01 00:00:15 | アート・文化
MVP登場を遠慮させて頂いて、何だかちょっとフクザツな気持ちのまま、16号の募集に応じようと、15号の奥付を見てみました。しかし、そこには投稿意欲をそそるテーマが一つもありませんでした。こんなことは初めてです。時間をかけてじっくり考えれば、何かひねり出せるようにも思われたのですが、今までの作品はすべて、テーマを見た瞬間にひらめいたことをすぐに形にすることで生み出されてきたので、今回は多分投稿しないだろうな、と思えてきました。2,3日、15号を見ながらあれこれイメージをふくらませてみましたが、結局何も思い浮かばず、16号はキャンセルすることに決めました。

4号から19号までの中で、唯一投稿しなかった(多分)のが、この16号でした。手元にある”モスモスファイル”には、「モスモス」と、モスから送られてきた手紙類が全部収めてあるのですが、この号だけは、近所のモスでもらってきた「モスモス」一冊が入っているだけです。

次ぐ17号は、「花園御殿」「偶然ハント」「熟女ボーン」「お寝坊狩り」の4つのテーマでした。後の二つはひらめかなかったのですが、前の二つは、見た瞬間にピンとひらめくものがあり、短い時間に、手元の紙とパステルを使って何枚かの花の絵を描き、便箋に思いついた(創作したものもある)”偶然”をいくつも書き並べていました。そして、すぐにそれらを封筒に入れ、「~17号の課題は取りかかりやすく、いい暇つぶしになりました。~」などという小生意気なメッセージを書き加えて送りました。編集部の方は、その返事に「『~17号の課題は~』というお手紙を読んで指をくわえた私。さすが常連さんの言うことは違うわ。格が。」などと書かれ、ちょっと恥ずかしくなってしまいました。

17号では、「花園御殿」で2度目の大賞を受賞しました。パステルの色を変えて小さな四角を描き並べ、モザイクをかけたような花を「モザイ花(か)」などと名付けて出品したものが採用されたわけです。以前大賞を取ったお面の時も、紙袋に穴を開けただけ、今回もカナリ手抜きだったのに、大賞なんて頂いていいのかな、とも思いましたが、まぁ所詮はお遊びの「モスモス」だから、と思うことにしました。賞品の名刺の肩書きは「花咲か兄さん」。これまた思わず笑ってしまいました。びっくりしたのは、私が応募しなかった別のテーマで、一人の人が複数の大賞を受賞していたことです。どうも自分はアート系よりもキャッチコピー系は苦手だなぁ、との感を新たにしました。

18号のテーマはアート系1、コピー系2、ストーリー系1でした。自分はアート系でしか勝負できないだろう、と思い、倉敷店店員の野崎さんの写真を使ってアート系の作品を作る、「コラ野崎!」のみに応募しました。このテーマでは、前もって編集部に手紙を出し、野崎さんの写真のコピーを送ってもらい、それを使って作品を制作するものだったので、早速手紙を送り、コピーを送ってもらいました。届いてみるとカナリの枚数で、しかも、野崎さんには申し訳ないのですが、カナリ濃い顔の写真ばかり。いささか辟易してしまいました。中からちょっと変わった表情のものをいくつか選び、例によって書道作品と組み合わせ作品に仕立ててみました。身近にあったシールやステッカーなども適宜張り足してみました。

採用されたのは、半紙に「希望の光」と書き、「の」の部分に、「の」の字を書く代わりに野崎さんの写真を貼り付け、ノックダウンされたかのように、目のまわりに青い丸い輪の形のシールを貼り足したものでした。選評には「特殊なアプローチ」と書かれ、例によって他の作品群の中でも異彩を放っているなぁ、などと自画自賛した次第でした。

まさか次号が最終号になる、などとは考えもせずに・・・


「モスモス」のこと・その6

2005-02-27 19:12:56 | アート・文化
それは突然やってきました。そう、モスモス編集部からの電話や手紙はいつもそうでした。座談会の案内、大賞の名刺、そして、投稿のお礼と掲載のお知らせ、採用記念で送られてくるモスモスetc。

話は前後しますが、14号ではつぼにはまった課題が多く、例によって各コーナーにいくつもの作品を送りました。その結果、「弁慶のドラゴン」「しがらみ村」「自画展」に計3作品が掲載されました。絵は下手だったのですが、平安時代の絵巻物の顔をまねて描いたら面白いんじゃないか、思って応募してみたら、見事に採用となりました。でも、実物とは似ても似つかないものです。

で、その14号が発行されて間もないある夜のことです。編集部の女性からの電話でした。
「○○(本名)さんですか?」
「はい、そうですが。」
私はまた座談会か何かの案内か、あわよくば15号の大賞受賞か、と思って色めき立ちました。
「実は、ついにお願いすることになったのです。」
「へ?」
「MVPです。」
「え、えむう゛いぴーですか?!」

MVPと言えば、123456さんをはじめとして、歴代の名投稿家達を紹介(表彰?)する、表紙をめくって最初のページに位置する最も栄誉あるコーナー(私が思うに、です)です。毎号紹介される投稿家達の顔を見て、すでに大賞も受賞し、
投稿回数ではさくらさんに匹敵するであろうとの自負もあった私は、MVPに登場したい!と考えていなかった、と言ったら嘘になります。そこで、私はすぐに、

「わかりました。で、どういうふうに紹介されるんでしょうか?」
と答えました。すると、
「○○さんは、14号から本名をペンネームに変更されましたよね。その辺のいきさつをふまえてご紹介したいのですが。いかがでしょうか。」
「え、とういうことは、本名も、そして、顔もばっちり載っちゃう、ってことですか?」
「そういうことです。」
(まずいなぁ・・・それじゃあペンネーム使い始めた意味がないなぁ・・・しかも顔が出ちゃうし・・・顔はまずいよ、やっぱ・・・見せられるもんでもないし・・・)
「あ、あのぅ、いつぞやの123456さんのように顔を探させたり、NORさんのようにデジタル処理して、顔がよくわからないようにしていただくことはできないでしょうか?」
「出来ればぜひ顔も出していただきたいんですよ。何かまずい事情がおありでしょうか?」
「いやぁ、そんなことはないんですが・・・あ、あのぅ、申し訳ないんですが、2,3日考えさせていただけないでしょうか?場合によってはダメ、ということでもいいでしょうか?」
「わかりました。お返事はできるだけ早くお願いできますか?」
「はい、そうします。」
と言って私は電話を切りました。

さて、どうしよう、どうしよう・・・私は考え続けました。モスモスには、確かに本名で投稿していました。しかし、これはお遊びだから特に本名を隠す必要もないし、モスモスに投稿していることで、遠く離れて住んでいる学生時代の友人達に「俺ってこんなことやってんだぜーっ!」っていうメッセージを送っているつもりだったのです。そのために、本名で投稿することはそれなりの意味を持ってました。でも、社会人となって、それなりの責任や人間関係も生じました。その一方で、モスモスに投稿する作品を作ったり、作品が掲載されたモスモスを見ながら一人悦に入っていたりしていると、何だか自分の中にもう一人の自分がいて、そのもう一人の自分がモスモスという場で何やら作って掲載されて楽しんでいる(別に二重人格、ということではありませんので念のため)ような気がしてきたのです。そうなると、無理に素性や素顔を明かす必要はないんじゃないか、123456さんのように、謎なままの存在でいるのもかえって楽しいんじゃないか、と思うようになってきたのです。本当に2,3日考えて、以上の様なことを書いて編集部にFAXを送りました。電話をするのは、編集部の方に申し訳ない気がしたからです。

結局、15号のMVPは、座談会でお会いし、私が学生時代には、実はご近所に住んでいたくろこふさんが掲載されました。それを見ながら、ちょっと残念な気もしたけれど、まぁ、これでいいや、と自分を納得させました。モスモスサーカスで、MVPが再録された時も、ちょっと残念な気がしたけれど、その時には、あれだけ作品を掲載してもらって、大賞も2回ももらって、その上MVPにまで登場しては、他の投稿家達に悪いよな、と自分に言い聞かせて納得しました。

15号では、「スイム2003」のみの掲載でしたが、それ以外の課題は今ひとつぴんと来なかったように記憶しています。今回は、”MVP登場お断り事件”を扱ってみました。





「モスモス」のこと・その5

2005-02-26 18:46:55 | アート・文化
これ以降も私は投稿を続けました。以下、各号ごとに出品と掲載の状況を列挙します。

*10号*
この号では「ピカゲラ」のみ応募しました。例によって筆と墨を使い、水墨画調で、微生物系の「ピカゲラ」を描いてみました。
1点応募1点掲載で、掲載率はこの回が一番です。座談会で一緒だった栗かのこさんも掲載されています。

*11号*
この回では「村田の紙」という、「村田帽子店」という架空の店の包装紙を考えるコーナーにのみ応募しました。和紙に墨と朱墨で何通りか書いて送った中の1点が掲載されました。もうこの辺では私の「和紙に墨」路線がすっかり定着していました。この号では、有名投稿家が写真入りで占いをしてもらっており、呼んで欲しかったなぁ~と指をくわえながら見ていたように記憶しています。

*12号*
この年春に地元へ帰り、就職しました。この号では、編集部からの手紙によればいろいろなコーナーに投稿したらしいのですが、記憶がありません。「お名付け内祝」の周囲の”飾り”の部分に小さく掲載されただけでした。

*13号*
私が本名からペンネームを名乗ることとなったきっかけになったのがこの号でした。まず、この号ではすべてのコーナーに応募しました。10作品くらい送ったと思います。その後、「残念ながら採用されませんでした。」の手紙が届き、いささか落胆したのですが、何といきなり13号が届き、開けてみると、「下敷画集」に掲載されていました。ほんの思いつきだったのですが、掲載されてみると、我ながらなかなかの出来じゃないか、などと一人ほくそ笑んでおりました。

ところが、です。何と、職場の人たちにばれてしまったのです。モスモスに投稿していることは、大学時代の友人達から会うたびごとに言われていたので何でもなかったのですが、職場ではそうはいきません。モスモスの実物を持ってこられて、見せびらかされる始末。もう、困ってしまいました。で、ペンネームを使うことにしたのです。当時はまだネットと縁のない生活をしていたので、もちろんH.N.などなく、同僚の方の「だからだめなんだ」という口癖が面白くて「こんなところに投稿して楽しんでいるなぁ。だからだめなんだ。」と、自嘲の意味も込めて名乗ることにしました。

このことがその後どんな事態を引き起こすのか、その時は知る由もありませんでした。



「モスモス」のこと・その4

2005-02-25 18:21:04 | アート・文化
大賞をもらったのが93年1月の7号でした。8号では採用されず、と言うか、ぴんとくるテーマではなく、言論の自由相談室と伝言板への投稿で、案の定採用されませんでした。

言論の自由相談室では、「モスモス」の1,2号だけ持っていないのでどうすればいいか、という質問を送ったところ「コピーならお譲りできます」という回答が編集部からありました。コピーでは仕方がないのであきらめましたが、何とこの1,2号と「モヌモヌ」は後日思いもよらないことから入手できることになるのです。

9号の「たこンナーレ」は、テーマ発表の段階でぴんとくるものがあり、水色の下敷きにボンド絵、という構想がすぐ浮かびました。出来上がりも上々で、これは掲載されるんじゃないか(このころはこういう予想もだいたいつくようになってきていました。)
と思っていたところ、掲載と相成りました。大賞は逃しましたが、大賞作品もボンド絵で、同じことを発想するヤツもいるんだなと思いながら、届けられた「モスモス」を眺めました。

さて、その年の9月だったと思います。ある日の夜、「モスモス」編集部から突然の電話を受けました。「モスモス」に関しての座談会を、何人かの投稿かをお招きして行いたいので、ついてはぜひご参加いただきたい、ということでした。当日はバイトが入っていたのですが急遽後輩に替わってもらい、期待と不安を抱きながら新宿・箪笥町のモスバーガー本社へ向かいました。

あのモスバーガー本社ということで、どんなすごいビルかと思いきや、意外とこぢんまりとしたビルに驚きつつ(モス本社の方済みません!)、休日ということで社員のほとんどいないビルの中に入っていくと、モダンなデザインの会議室のようなところに招じ入れられました。集まったメンバーは5人。そして2人のスタッフが司会をしながら、投稿者や「モスモス」に登場したことのあるメンバーが、「モスモス」に対する思いなどを話しました。

その場で何が話されたか、私が何を話したかは、全く覚えていません。メンバーには、栗かのこさんと、9号で「後藤の歌謡界」にモデルとして登場した後藤一章さん、投稿していないけれど、「モスモス」にいろいろと意見を寄せている大阪の男性(この人は「モスモスサーカス」にも出ています)がいたのを覚えています。

1時間ほどで座談会は終わったと思います。その後懇親会ということになり、ホールへ出ると、もう一室で座談会を行っていたグループの人たちも出てきました。こちらは私のグループよりも若い人たちばかりでした(私も当時20代前半だったのですが、なぜか年長組でした。)。この中には、大賞受賞経験者のくろこふさんや、小賞常連のさくらさんがいました。さくらさんは手や腰をくねらせるようにして現れ、一見して「こいつは変わったヤツだ」と思わせる人でした。他にも何人かいたのですが、福岡から、確かその年から運行されだした「のぞみ」に乗って日帰りするという女の子がいたのを覚えています。

その後、会場を移して懇親会になりましたが、今思い出しても不思議な不思議な懇親会でした。料理はモスのメニューいろいろで、モスチキンの好きな私は、そればかりパクついていたと思います。その場で、やはり9号で募集されたアップルパイの歌のCDが流れ、皆で歌ったりしたのですが、座談会参加者はみんなあまり楽しそうでなく、休日なのにネクタイを締めて出社しているスタッフだけが気まずそうな顔をしながら歌ってたような気がします。

「モスモス」の編集者は、後で聞いたところによると、デザインや出版の方面でも有名な方が多く、当日もそういう方が何人も来ていたようなのですが、何しろ座談会参加者はみんな素人の方ばかりだったし、みんな自分の世界を持ってる人たちばかりで、話もほとんど弾まず、大阪の人(この人はデザイン系の仕事をやっている人だったらしい)がスタッフと楽しそうに話しているだけでした。私も、実は近くに住んでいたくろこふさんと少し話しただけで、結局あまり盛り上がらないうちに、約1時間の懇親会は終わりました。

懇親会の会場には、「モスモス」のバックナンバーや、「モヌモヌ」、大西重成氏の作品などが展示してありました。私がおそるおそる「この『モスモス』のバックナンバー、いただいてもいいんでしょうか?」と尋ねると、「いいですよ」の返事。座談会参加者の手が一斉に伸びました。特に「モヌモヌ」は、1都3県でしか配布されなかったので、貴重品です。皆入手できて嬉しそうでした。私は念願の1,2号が手に入り満足でした。

その後、各種プレゼント(今思うとけっこう高額な品々だった。バブル時代の名残だろうか・・・)を頂戴し、皆帰途につきました。
福岡から来た女の子は、午後6時ののぞみに乗ればその日のうちに帰れる、と、かなり高額の交通費を手に急いで帰っていきました。私も、なんだか不思議な夢を見たような気分で、高速バスの出る東京駅へ急ぎました。

座談会の様子は「モスモス」に掲載されることもなく、その内容がどういう形で「モスモス」に反映されたのかはよくわかりません。あのメンバーがどういう基準で選ばれたのかもよくわかりません。それ以前に、この座談会と懇親会がどういう目的で開催されたのか、結局何もわからないままでした。でも、あの「モスモス」のためだからこそ、こんな会でもよかったんじゃないか、と考えてます。「モスモス」という小冊子の存在にも、そこに収められた各種投稿作品や連載作品、さらには大西さんの作品にも、この座談会と懇親会で感じた「空気」が流れていたように思います。

「モスモス」に関する、ごく一部の人しか知らない話を今日は書いてみました。



「モスモス」のこと・その3

2005-02-24 18:53:52 | アート・文化
送って少しして、突然編集部から電話が来ました。
「『お面屋』のコーナーで大賞に選ばれました。つきましては、賞品としてオリジナルの名刺をお作りしますので、お名前、ご住所、郵便番号、お電話番号をお教えください。ただし、名刺の肩書きは『マスククリエーター』となりますが、よろしいでしょうか?」

びっくりしました。まだ1度しか掲載されていなくて、今回も掲載されればいいや、と思っていたからです。それが、大賞とは。しかも、あんな手抜きの作品が。(事実、作品のコメントには「楽しましたね。」とあって、読んで汗が出てしまいました。)大賞に選ばれた人が、どんな賞品をもらえるのか知らなかったのですが、オリジナルの名刺、しかもオリジナルの肩書き、さらには作品の写真入り、というのがいかにもモスモスらしくて、程なく送られてきた名刺のゲラ刷りをみて、本当にうれしくなってきました。

そして、「神田本の町」の紙袋で作られたお面(というか覆面)は「モスモス」に掲載され、私も大賞受賞者の仲間入りをしたのです。名刺も送られてきました。この号では「乱鳥漢和辞典」(創作漢字コンテスト)でも作品が採用され、二重の喜びでした。

名刺はひとまず使い道がなく、しまっておいたのですが、その年の初夏に北海道へ行ったとき、同じ宿に泊まりあわせた人たちに何の気もなしに配ってしまい、今では3分の2ほどしか残っていません。今思うと少々残念です。

友人からの反響は少しだけありました。友人達の多くは大学を出て、離れて住んでいましたが、掲載後まもなく、初めてモスに行った時に一緒だった友人から、「おまえ大賞とっただろ。やるじゃん。面白かったよ。」と言われ、少しばかり鼻高々になっていました。

この大賞受賞の経験によって、「モスモス」が私にとって、普段の私とは違った自己表現ができる場であると思うようになりました。年にたった4回ではあるけれど、日頃の自分から離れて、気楽な気持ちで楽しみながら作品(と言えるかどうかわからない雑多なものばかりだったけれど)をこしらえる時間は、私にとって、なんだか「もう一人の自分」を楽しんでいるかのようにも思えていました。


「モスモス」のこと・その2

2005-02-23 19:19:22 | アート・文化
投稿して間もなく、編集部から手書きの手紙と、投稿記念のバッヂが送られてきました。たくさんの作品が送られているだろうに、それに対して一つ一つこうした返事を書いているのは立派だなと思いました。

手紙には「初めての本格的作品に、思わず”うわぁ”と声をあげてしまいました。」とあって、どうやら真面目な作品を送る場ではなかったことを知りました。手紙にはさらに続けて、「4号は、そろそろしめ切りなので、そろそろそろりとはじまりそうです。」とあって、そこまで読んで初めて「モスモス」真面目な雑誌ではなくて、投稿する人が真面目に”楽しむ”場であることを知ったのです。

さらに続けて、内容確認のためのコピー入りの手紙が来ました。発行と時期を合わせて、作品の掲載された「モスモス4号」が届きました。コピーでしかわからなかった他の入選作を見た時は、自分の勘違いに愕然としました。1位の作品は、「牛蒡」と書いた線の一部が牛蒡の絵になっており、それ以外の作品も、内容・書風とも、遊び心いっぱいのもので、私の作品だけが妙に浮き上がってました。

そんなショックからか、課題が自分に合わなかったこともあって4号と5号では投稿しませんでした。5号と6号は直接モスで入手しました。

そして6号では、「モスモス」と私の関係を決定づける課題と出会うのです。それが「乱鳥漢和辞典」「お面屋開店」でした。私は国語が好きだったので、まず「乱鳥~」に目がいき、投稿してみることにしてみました。そして、いくつかの漢字を考えて送ろうとしていた時、たまたまそばに置いてあった「神田本の町」の紙袋が目に入りました。紙袋に、開いた本の絵の上に「神田本の町」のロゴだけが印刷されたシンプルな図柄の紙袋でしたが、私にはその図柄が何となく微笑んでいる人の顔のように見えたのです。そういえば今度のモスではお面を募集してたな、よし、これをちょっとだけ手を加えて、そうだ、紙袋はそのまま使って、目鼻口のところに穴を空けるだけで、頭からかぶるお面にしてしまおう、でも、ただ穴を空けるだけでは手抜きだから、ヒゲのつもりで文字を書き加えよう、と考え、ほんの数分間、カッターを使って穴を空けたりの細工をして、漢字と一緒に封筒に入れて送りました。

書道の時は、掲載されても反響が全くなかったので、今回も本名のまま送ってしまいました