桑の海 光る雲

桑の海の旅行記・エッセー・書作品と旅の写真

書道について33

2007-09-09 20:55:11 | 日記・エッセイ・コラム

○2年生の頃①

2年生に進級すると、1年生の頃と異なり、授業の半分くらいが専門科目になる。理論の授業が中国書法史と書鑑賞論の2つ、実習の授業が漢字2つと仮名1つである。これだけで時間割の8つが埋まった。

中国書法史は、まず先生が概論を簡単に話した後、テーマごとに学生が調べた内容を学生の前で発表する形式を取った。概論と言っても、「古代殷帝国」という本の講読で、殷時代の歴史や文化、甲骨文の発見にまつわるエピソードを整理しただけだった。学生による発表は2学期以降だったが、はっきり言って私も含めて発表内容は本の写しばかりで、この授業は全くためにならなかった。先生が楽をしていたとしか言えない。

書鑑賞論は、孫過庭「書譜」の講読と、草書体の読解を行った。この授業は、ひたすら漢文を解釈し、草書体と付き合わせていく、形式的にはつまらない授業であったが、漢文の読み方や読解、草書を覚えるために大変役立った。3学期には高校までのものと同じようなペーパーテストもあった。

漢字の実習は2コマあった。1つは中村伸夫先生の授業で、2時間連続の1時間は書論を講読した。これは面白くなかった。テストもなかったので、モチベーションも上がらなかった。同じなら2時間連続で作品を書けばいいのにといつも思っていた。実習は書鑑賞論とのからみで、1年間「書譜」を臨書した。書譜は真面目に練習したことがなかったので、同じ古典を1年間学んだという意味合いも含め、大変ためになる実習であった。

もう1つは岡本政弘先生の授業で、主として隷書を書いた。篆書や楷書を書いたこともあったかも知れない。特に印象に残っているのは木簡、中でも章草の臨書だった。これは先生の専門分野でもあり、先生の書きぶりを見ているだけでも楽しかった。毎回書いて下さる半紙手本も、学生の奪い合いであった。

そして、2年生から始まった仮名の授業である。中学生の時にテレビで見てすっかり引き込まれてしまった村上翠亭先生の授業を、遂に現実のものとして受講できるので、始まる前からすっかり舞い上がっていた。そして授業が始まると、先生に失礼があってはならないと、いつも緊張の連続であった。(続く)

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書道について32

2007-09-03 21:59:21 | 日記・エッセイ・コラム

○1年生の頃⑥

卒業論文の時期となり、私も先輩から手伝いを頼まれた。先輩からは、卒業制作に使う用紙の加工を依頼された。私はどうして自分のことを自分でやらないのかとちょっと不満に感じたが、世話になった先輩なので引き受けた。

仕事は画仙紙を定められた大きさに切り、烏口を使って、朱墨で線を引くことだった。線を引いた中に、呉昌碩臨石鼓文を臨書するのである。作業は単純作業の連続で飽きたが、おかげで烏口の使い方を学べ、後の自分の制作にも役立った。そして、その作業を通じ、卒業論文を後輩に手伝わせることは絶対にさせまいと心に誓った。(もちろん後に実践した)

一方で、私は作業のために用意された用紙に心惹かれた。「南華箋」といい、謙愼書道会の青山杉雨系の方々が使う紙とのことだった。私はその初めて経験する書き味に感動し、数枚の紙を失敬して、覚え始めた張瑞図の書風で行草作品を書いてみた。これが素晴らしく書き味がよい。早速電話で注文してみたが、結構値がはるので、一度きりでやめてしまった。

3月には大書室を利用して卒業制作展があった。どの作品も立派に表具され、学園祭書展の作品と異なり、金のかけ方が半端ではないことがわかった。また、単なる臨書でなく、ほとんど複製を作っているかのような精密な臨書もある。仮名作品の料紙は、自分で制作している先輩もいるとのことを聞いてびっくりした。

一方で、3人の先輩が留年した。大学院入試に失敗し、再度チャレンジするためであるそうだ。私はそこまでして大学院に行きたいという先輩達の意志の強さに驚くとともに、そのためには留年も厭わないという考え方にも驚かされた。でも、私はそこまでして大学院には行きたくないし、ましてや留年するなんて信じられなかった。もし大学院に行くなら、絶対に現役で合格してやろうと思った。

そんなこんなで1年間はあっと言う間に過ぎ去り、無事2年へと進級することになった。

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