はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

藤枝瀬戸川右岸の低山縦走2

2014-03-02 11:53:29 | 低山歩き
高尾山・笠張山・菩提山・椿山                        歩行月日2014/02/26(水)

歩行時間:8時間00分 休憩時間:1時間30分 延時間:9時間30分
出発時間:8時30分 到着時間:18時00分
歩  数: 40、312歩  GPS距離:29.5km
行程表
 蔵田大杉 1:00> 高尾山 0:45> 笠張山 1:10> 菩提山 0:40> 桧峠1:35>  不動峡 0:40>
 中山公園 2:10> 藤枝駅

   
                      椿山から(昨年撮影) 
                
                          歩行ルート2
 観歩記
 桧峠の地蔵堂には古い新聞の切り抜きが貼ってある。それから紹介すると
「桧峠は桧が多いのでついた名前で、標高441mの峠は、昔から藤枝と伊久美を結ぶ重要なルートだった。峠に
建つ地蔵堂は寛仁二年(1018)に建立したが安政の大地震で大破し、文久元年(1816)に、現在の大井川町吉永
の庄屋が寄進している。これは「吉永塩」の行商人が、この峠を越えて川根方面に入っていたことを物語っている。
江戸時代には伊久美から島田の町に出る道は無く、この峠越えが生活ルートだった。そのため藤枝の商圏は
大井川中流左岸まで広がっていて、藤枝からは米、味噌、醤油、衣類などの日用品が運ばれ、山地からは茶、杉
皮、木炭などが人に背負われて運び出されていた。
そのため大正になると川根電力索道会社が設立され、千頭までの35.2kmの索道が完成した。これにより物資を
大量かつ短時間で運ぶことができ発電所建設に貢献した。そのため島田・千頭間を走る大井川鉄道が早期に開通
する事には役立ったが、索道会社は経営が悪化し、自分の首を絞める結果になってしまった」


 峠の地蔵堂についての言い伝えも紹介されていた。
「寛仁元年(1017)に大津波があり峠の麓の滝沢まで及んだ。村人たちは桧峠まで非難した。津波が引けたあと
草むらの中でピカピカ光り、良い香りのする場所があり、掘ってみると貝殻や小石が張り付いた地蔵が出てきた。
桧峠にあった寺の僧が「小石や貝殻を天然痘を患っている子供の身につければ病気は軽くすむ」とお告げを受け
地蔵を桧峠に移してお祀りした。地蔵堂に安置されている不動明王の像は役の行者の作だと云われている」


 幾らなんでも津波が海から直線距離で12km以上もあり、しかも海抜90mもある滝沢まで来たとは思えないが、
そんな言い伝えがあったのだ。しかも津波で流されてきた仏像が役の行者の作だとは中々面白い話だ。

 
               桧峠の地蔵堂                       地蔵堂内部

 桧峠を下りだし次の目的地椿山の入口に来て気が変わった。椿山からは富士山を始め、駿河湾や今日歩いて
来た山々を見る事が出来るが、ウーン! 止めよう。折角行っても景色が見えなければ仕方がない。
さっき笠張山では 「大変でも登るとことに意味がある」 などと恰好を付けたが、ここでは「意味の無い所には
行かない」
に変わってしまった。何とも融通無碍といえばこれまた恰好付で、単なる我儘勝手な奴だ。

 桧峠からの道は一応県道だが車は殆ど通らなかった。だがその急な坂道には驚いてしまった。
これでは逆コースはとてもではなく、こんな県道の上りや笠張山の登りを考えると、私の足では逆コースは
完歩出来そうもない。
県道の傾斜が緩やかになった辺りに紅白の梅が咲いているのが見えた。近づいてみると「ヤマメの里梅園」
看板があった。そこには「紅白梅200本」とも書かれている。とてもそれ程あるとは思えないが見れば分かって
しまう現地で、誇大な事は書かないだろうから、きっと200本はあるのだろう。
                      
 
               歩くのを止めた椿山                    ヤマメの里梅園

 内心椿山を省略したことに無念感を抱いていたようで 「滝ノ谷 不動峡 ⇒」 の看板を見ると、ここに行けば
椿山のように登りは無いが距離は長くなるだろう。と寄って行く事にした。
何処にでもあるような川に沿った道を歩いていると川に太鼓橋が架かっていた。今は通行禁止になっているが
石造りの立派な太鼓橋で、対岸にもシッカリした石垣や階段が見える。何があったのか表示は無いが太鼓橋が
あるのなら神社があったのだろうか? 不動峡を観光地としたいなら、こんな物でも案内すればよいのに --------

 県道から20分で磨崖仏に着いてしまった。これでは距離が長くなったとしても往復でも4km程度に過ぎないが
椿山を経由するより長くなりそうだ。高低差では去年より劣るが距離では負けたくない。
 ここの磨崖仏は平成元年に開眼し、高さ10m巾7mあるという。案内には「不動明王の磨崖仏としては日本一の
大きさで、頭上のブロンズ像が原型である。」
と書いてある。ウッ? 頭上のブロンズ像が原型って何だ?
頭上って私の頭上か、それとも磨崖仏の頭上か、そのどちらの頭上にもブロンズ像などは有りはしない。
待てよ、磨崖仏の右下に不動明王の立像が見えるが、あれがブロンズ像なのか。それにしても頭上とは???
疲れが出ているので思考力が低下してきている。そのためこの文を理解できないのだろう。答えは次回に持越しだ。

 磨崖仏から3分も歩くと水車村の入口に着いた。水車村というからには水車が何基もあると思ったが、案内板を
見るとどうやら2基しかないようだ。1基はこの入口にある観光用に作ったものだが、今は故障をしているようだ。
これでは先に行っても多寡が知れている、ここで戻る事にしよう。

          
               太鼓橋                      不動峡磨崖仏

 朝バスで通ったゆらくや蔵田方面に行く県道と合流する所の中山公園で一服する。ここにはバス停があり
普通ならここから藤枝駅まではバスで帰るのだろうが、歩行距離はまだ19.5kmに過ぎない。もう少し頑張ろう。
中山では県道も合流するが、川もここで桧峠方面からの滝沢川と蔵田方面からの瀬戸川と合流する。
歩く道は県道と別れて瀬戸川沿いに遊歩道や交通量の少ない狭い道が始った。

 瀬戸川と滝沢川が合流する中山橋の袂に石仏を祀った祠が建っていた。そこの案内板に
紀伊国川中島小長谷八兵衛供養塔 昔は瀬戸川と滝沢川では、上流で疾病が発生すると下流でも病気が
流行した。特にこの地域ではその発生率が高く、その昔、小長谷八兵衛の薬により助けられた人々の感謝の
念が供養塔建立につながったといわれている」

 川中島八兵衛については、今までも紹介しているが簡単に説明すると
「川中島八兵衛は紀州の生まれで、元禄のころ志太(島田・藤枝・焼津)地方に訪れたが、当時、志太地方は
大井川の氾濫などで疫病が蔓延することが多く、人々は困っていた。
その時八兵衛の行動には色々の説があるようで
 1・「自分の死後に祀ってくれれば、川の氾濫を防ぎ疫病がおきないようにする」と言って集落を回った。
 2・疫病発生の折、八兵衛の薬により助けられた人々の感謝の念が供養塔建立につながった。
 3・大井川の堤防構築のとき八兵衛が人柱になった。」  
などがある。

 ここの供養塔は2、の八兵衛さんの薬によって助かったお礼の供養塔のようだ。
この八兵衛の碑が志太地方に60基もあるそうなので、その所在地を調べてHPで紹介したいと思っていた。
だが最近少し考えが変わってきて、歩きながら石碑を見つけるのはよいが、その時期を今ではなくて、もっと
歳をとった老後(?)にしたいと思いだした。若い(?)時は長距離を、年を取ったら堤防の遊歩道を、と
そんなふうに思いだした。

 次に八兵衛さんの碑があったのは寺島集落で、ここの案内には
「寺島野仏群 馬頭観音、延命地蔵、八兵衛さん、西国巡礼記念碑などを地蔵堂に集め供養している」
八兵衛さんについては簡単に名前があるだけだった。

 次の八兵衛さんは堀之内集落にあり、こん説明が書いてあった。
八兵衛さんの供養塔 今まで不明であった八兵衛さんの出身地は最近郷土史家の調査で三重県尾鷲市の
『中嶋八兵衛』ではないかと判明された。
 八兵衛さんは元禄のころ土井家五代目の八郎兵衛に認められ、回船問屋として材木や薪炭を「八郎兵衛船」
に積んで、江戸と紀州を行き来して商いを行っていた。
 江戸への途中、この地において高野山などの霊場巡りをしたときの良薬をいつも持っていて病気の人に与え
助け、人々から弘法大師の再来といわれ敬われていた。」


オヤここの案内板には八兵衛さんについて新説が書いてある。今まで八兵衛さんは、六部(ろくぶ)の巡礼の途中
当地で川の氾濫で人々が困っているのをみて援助の日々を送った。というのが一般的だったのだが、この案内板の
八兵衛さんは回船問屋の主になっている。
 案内板には丁度良く「八郎兵衛船」なる言葉があったので調べてみると、三重大学の「尾鷲回船の消長」の中に
載っていた。そこには船の名前は回船問屋の名前を使っていて、例えば土井八郎兵衛の持船なら「土井八郎兵衛船」
となり、省略して「八郎兵衛船」とも書いてあった。しかもこの土井家は大回船問屋なのか何回も船の名前が出てきた。
 案内板には八兵衛さんも回船問屋とあるので、本来なら船の名前は「小長井八兵衛船」となるのだが、その名前は
載っていなかった。

 一方八兵衛六部説は郷土史家川村辰巳さんの「川中島八兵衛見聞の記所在地一覧 」に載っている。そこには
八兵衛の出身地は和歌山県で、元禄時代に六部(ろくぶ)として志太地方に訪れて、大井川町(現焼津市)の
小長谷家の婿養子になる。そこで河川の氾濫で疫病が蔓延していて人々が困っているのをみた八兵衛は、
「自分の死後に祀ってくれれば、川の氾濫を防ぎ疫病がおきないようにする」と言って集落を回ったとある。
著者の河村さんは和歌山県でも調査をして「川中島」の根拠や、八兵衛さんの先祖の菩提寺も見つけている。

 だがこの説も私としては疑問の多い説だと感じていた。先ず元禄時代に廻ってきた六部を名字もある名家が
婿養子に迎えるだろうか。六部とは「法華経を66回書写して、一部ずつを66ヶ所の霊場に納めて歩いた巡礼者。
仏像を入れた厨子を背負って鉦を鳴らして米銭を請い歩いた者。江戸期には、六部僧の多くは乞食坊主に堕した」

だそうです。そんな乞食坊主を婿にする分けはなく、氾濫や疫病を防ぐ実績をあげた六部の八兵衛さんを婿にした
とした方が納得ができる。
 次に分からないのが八兵衛さんは「自分を祀ればを見守る」と言って石碑を建てさせたとあるが、果たして
何の実績のない六部の言うことを「ハイ分かりました」と言って金の掛かる石碑を建てるだろうか。
冊子の中にこんな事も書いてあった。「焼津市石脇城跡に祀られている八兵衛さんは薬売りの墓と伝わっている」
これを読んで私は「八兵衛さんの薬により助けられた人々の感謝の念が供養塔建立につながった」と考えた。
ただこれも六部でありながら多数の人に与える薬をどうしたのか疑問だった。若しかして八兵衛さんは薬の製法を
知っていて作りながら配ったのかと思ったが何の根拠もない。

 それがここ堀之内の案内板には八兵衛さんは回船問屋として紀州と江戸を行き来していた。とある。
今度は乞食坊主どころか船持ちのお大尽だ。それなら薬を調達する金はあるだろうが果たして回船問屋の主が
志太地方を歩き回る時間があったのだろうか。疑問だ。一度この郷土史研究家の説を聞いてみたい。

   
     中山の八兵衛さん           寺島の八兵衛さん        堀之内の八兵衛さん

 話が後先になるが寺島の八兵衛さんより前に「清酒志太泉」の酒造所がある。
志太泉は昨年度も「全国新酒鑑評会金賞」を受賞した老舗酒蔵で地酒の酒蔵として有名だ。
その酒造所の前は桜並木の堤防があり、春の桜の時季に来れば試飲をさせてくれる。なんて話は無い。

「西向地蔵尊」はあたかも泥棒が頬かむりをしたようなお地蔵さんで、何ともユーモラスだ。目や鼻などは
摩耗していて判別できなので、悪戯なのか丸い黒い小さな団栗眼が描いてある。それが余計に笑いを誘う。
余計な事を一言。方位磁石は西ではなく南西を示していた。

 西向地蔵を過ぎた場所から去年は更に清水山を越えて行ったが、ウーン! 今年は止めよう。もう大分疲れた。
この後は瀬戸川の桜トンネルを通り、旧東海道の瀬戸川の一里塚を廻って藤枝駅に戻ろう。

 
         志太泉酒造所                           西向地蔵尊

 瀬戸川の桜トンネルの桜はまだ全然ダメ。そんなのは当たり前で桜の時季はまだ一ヶ月先だ。
一里塚に5時半到着。フー! 疲れた。いつもは休憩しない場所だが一休みしてしまった。
藤枝駅には6時丁度に到着。距離は29.5km。
昨年は二山余計に越して距離は30.2kmで時間は5時40分に着いていた。悔しいが仕方ない。
ただ今年の夏の「海から富士山」まではなるべく老化を押さえたい。神様お願いします。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿