はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

賎機山から竜爪へ3

2014-04-21 16:04:13 | 低山歩き
 歩行記録      歩行月日2014年4月12日
歩行時間:10時間25分 休憩時間:1時間10分 延時間:11時間35分
出発時間:6時05分   到着時間:17時40分
歩 数: 43、020歩   GPS距離:26.3km
行程表
 静岡駅 0:20> 赤鳥居 0:20> 140m峰 2:05> 福成神社 0:25> 桜峠 2:35> 東海自然報道合流
 0:55
> 文珠岳 0:15> 薬師岳 0:30> 穂積神社 0:45> 旧道入口 0:35> 平沢バス停 1:15>
 国1バイパス 0:25> 草薙駅
観歩記
 文珠岳山頂の西側に花沢山と同じよう反射板が見えた。反射板の前は視界が開けているかと思い移動すると、
何やら動いている。イノシシ? いや違うカモシカだ。これはツイテいるゾ、慌ててカメラを取り出してカモシカに
向けると、アラー!カモシカが動き出してしまった。と思ったらカモシカは見にくい所から見やすい所へ移動して、
これでいいかとばかりにこちらを向いてくれた。何枚か写真に写したが動く気配が無い。それなら山頂にいた他の
人にも知らせようと、一応そっと下がり山頂にいた人たちに教えた。
 10人ほどの人がカメラでカモシカを写したが一向に動く気配はなかった。カモシカは鹿と違い動きが少なく、
人を見て一旦は移動をするが、じきに立止ってこちらを振り返るようだ。
これが鹿だとピョーンピョーンと跳ねて逃げてしまう。これはカモシカがウシ科の動物なので動きが遅いせいか。
それでは何故「カモシカのような足」と言うのだろう。必死に逃げるときは速いのかな。
 昔の岳人は腰にカモシカや鹿の皮をブル下げていて、懸垂下降時の尻の摩擦防止や休憩時の尻当てにして
いた。岩登りをしない人も真似をして安い皮様の尻当てをブル下げたものだ。かく言う私も真似をした事がある。

 
                                カモシカ

 北峰側の薬師岳の山頂には広場はあるが、周りは樹木に覆われていて視界は効かなかった。一方南峰の
文珠岳は静岡や清水そして富士山も見えていた。それに三角点もあったのだからそちらが主峰か。
しかし標高は文珠が1041mで薬師は1051m。ヤフーやマピオンの地図では山名が文珠岳と竜爪山となって
いるが、国土地理院の地図は文珠と薬師になっていて、両方を合わせて竜爪山と書いてある。
さらに、薬師は如来で文殊は菩薩。仏の位なら如来の方が上だ。となれば薬師岳の方が主峰なのだろう。
 だが遠江49薬師霊場を結願したばかりの私としては面白くない。何故なら薬師如来の脇侍は日光菩薩と
月光菩薩なのだから、文珠岳でなく日光岳の方が自然だ。もっというなら三角点のある山頂を薬師岳として、
その左にある現在の薬師岳を日光岳。少し離れるが若山を月光岳とすれば薬師三尊になる。
とマー勝手な空想をしながら視界が効かなくて面白くない薬師岳を早々に退却して穂積神社に向う。

薬師岳からの急な下りが一段落した所に、四角く広い敷地の中に、小さな祠が一つポコンと建っていた。
奥の院かなと思ったが、そこに案内板が建っていた。
「竜爪山の由来 竜爪山は、薬師岳と文珠岳を総称した呼名です。竜爪山は古くから山岳信仰の場として
神仏習合の民族信仰の霊山でありました。 環境庁・静岡県」

至極当たり前の事しか書いて無く面白くない。山の名前が仏で、その直下にあるのが大きな神社ならば神仏
習合の名残だとは誰でも分かる。
さらに下り穂積神社の境内には旧清水市で建てた案内板があった。
「竜爪山の由来 竜爪山は、薬師岳と文珠岳を総称した呼名です。竜爪山の名の由来は、日本武尊が東征の
とき、山から時雨が襲ってきて衣を濡らしたことから時雨匝山(しぐれめぐるやま)と書き、ジウソウザンと読んだ
ことから「りうそうざん」になったと言われ、又山頂に雲がたなびき、竜が降りて、誤って木の枝に爪を落とした事
から名付けられたとも言われています。
いずれも竜爪山が信仰の対象として人々の生活に密着していたことを物語っています。」

話としてはこちらの方が断然面白い。それにしても日本武尊さんは忙しい。焼津で賊に襲われ峠の穴に隠れたと
思ったら、又もや草薙で賊に襲われ、迎え火を燃して日本平に立ったのも束の間、竜爪にまで足を延ばしている。
人気者は辛いですね。
 山名の由来には他にも、竜の爪と少し似ているが、竜爪山の谷が深いのは竜が爪で掻いたからともあった。
それなら私は、この山に龍が棲んでいたから「竜巣(りゅうそう)山」としたいな。
他にも山名の由来としては、竜爪が双耳峰である事か「瘤双(りゅうそう)山」だからとか、山頂で灯す灯りが
遠方からもよく見えたので「龍灯山」のリュウトウがリュウソウに変化した。などもあった。
いずれにしてもこれといった決定打はないようだ。
 
 穂積神社の境内にポスターが貼ってあった。「龍爪山穂積神社例大祭」とあり、開催日は明日の4月13日と
なっていた。一日違いでお祭りを見れなく残念だが、行事は全て午前中になっていたので、所詮は明日来たと
しても見る事は出来なかった。
その中に「鉄砲祭」の項を見て思いだした事がある。確か竜爪には戦時中は出征する兵士が「弾除け祈願」
登ったと聞いた事がある。調べてみるとこの話が白いのだが長いので、短く端折って紹介します。
「武田の落人の瀧権兵衛が竜爪山に登り、白鹿を撃ったところ正気を失った。家族が熱心に祈ったところ神懸
かりになり、自ら竜爪権現と名乗り山上の亀石の上に小祠を建て自ら神官となったという。
山中に住んでいた権兵衛の子供たちは下山して、山麓の中河内村、清地村、布沢村、吉原村、平山村の小島
藩内に住みつき、布教をして信仰圏を駿河国内や伊豆国に拡大した。当時の祈祷内容は御武運長久、開運
長久、盗賊除け、火難除け、毎月海漁満足、毎月猪鹿除け、などがあったという。
 鉄砲祭りの起源は明らかでないが、権兵衛が銃猟をしていたことが祭祀と結びつき、豊猟、害獣除け、鉄砲
事故除けとつながり、中でも鉄砲祭が竜爪さんの代名詞になった。」

これは伝説ではなく史実で、今でも権兵衛の子孫は平山に住んでいるという。話はさらに続く
「日中戦争が長期化するにつれ竜爪さんは無事帰還を祈る弾丸除け一色になっていく。昭和19年は稀にみる
参拝者の多い年で賽銭合計が426円余。おひねりの米が三表余りになったという。登山口の茶店では「弾除け
羊羹」
と銘うった蒸し羊羹も売り出された。
しかし、ひとたび戦いが敗戦に終わるや、手のひらを返すように参拝者は激減した。」


 
                   薬師岳山頂                         穂積神社

 穂積神社からは車道と山道があったが当然山道を下る。途中道が旧道と新道に分岐していたので、旧道の
方なら石仏があるだろうと予想して旧道を下ったが、石仏は無く代わりに「丁石」があった。
この丁石は一丁から三十六丁まであるが、この三十六とは距離でなく 「金剛界曼茶羅の主要三十七尊」 
なぞらえて立てられたものと言われている。三十七尊なのに三十六と丁石が一つ足りないのは、最後の
三十七尊目は、主尊である大日如来に当てる考え方で、龍爪権現の御本体そのものだという。
この考えも少々納得いかなかった。だって大日如来が本体なら薬師岳でなく大日岳にすべきではないか。
 
 旧道の登り口には「従是龍爪山拝殿迄三十六丁。干時安永9年(1780年) 垢離とり場跡」と書かれた
木碑が建っているる。これは元は石碑だったが台風で押し流され、川底に埋没してしまったので代わりに
建てたとある。また、垢離取り場の渕も、直ぐ下に砂防ダムが出来て埋まってしまい今は無いらしい。
 丁石も古い石製の物、新しい石製の物、更に新しい木製の物があり、地元で復元してくれているようだ。
古い丁石に「十」を二つ並んで書いたものがあり、初めはアレー?と思ったがすぐ納得できた。だが三十は
どのように書いてあったのか記憶がない。印象に残らなかったという事は普通の三十だったのだろうか?

   
          十十三丁目丁石            十二丁目丁石           丁石案内

 旧道の途中には金冷やしいや「肝冷やしの滝まで3分」の案内もあるがパス。川の向うには柱状節理のような
絶壁もある。川床が一枚岩で、水が勢いを増して流れている所もある。そこは「竜走の滝」の滝となっていた。
「りゅうそうの滝」と読ませるのだろうか。
 この川の名前の長尾川は、竜の長い尾から付いたのだろうが、ようは竜尾川で、竜の尾だから時々暴れる。
前回暴れたのは昭和49年7月7日の七夕豪雨で、長尾川の下流を決壊させ、流域に多大な被害を出している。
長尾川は竜爪山から流れ出る砂礫が積り天井川となり、地元では暴れ川とも呼ばれている。

 旧道にはガレ状の所や小さな岩場もあるので、疲れが出始めている脚には要注意だ。小さな突起に躓き、
小砂利で滑る。若し岩場で転んだらと思うと慎重になららずを得ない。でも単調な道が続くよりこの方が変化が
あって楽しいが。
 1ヶ所川を渡る場所があったが、アルミのしっかりした仮橋が掛かっていた。下を流れる川の水量は多かった
が、長尾川の末端近くの天井川の部分になると水は流れてなく、みな伏流水となって地下を流れてしまう。

 途中で左に別れた新道は何処を通っているのか、左は尾根になっていてあの上に新道があるとは思えない。
きっと谷が違うのだろう。次回は新道を歩いてみよう。

         
               ガレ場もある                    仮橋もある

 鳥居を潜ると車道に出た。そこのある案内板の略図を見ると。ここで近道と旧道が合流している。近道?
新道の事なのか? しかも車道? 理解できないが次回は下りに新道を歩けばはっきりするだろう。

 今時間は3時20分。一先ずバス停のある所まで下ってから、その先のことは考えよう。
その鳥居の下に「垢離取り場」の説明があり「垢離を取るということは、神仏にお詣りする前に心身を清めると
いう事です。竜爪山詣りの人々は、この垢離取り場の淵で手や顔を洗い、口を漱いで御山に入りました。」

そうか、今までは富士講の信者が富士登山前に、海や川で水垢離をして、心身を清めてから登山した。などと
読んでいたので、垢離といえば水の中に入るイメージだった。でもこのような場合は「垢離取り」と言うのか
覚えておこう。この行事が簡略されて、神社に手水鉢が置かれるようになったのかな。
では穂積神社の境内に手水鉢はあったかしら? 気が付かなかったが、有ったとすればそれは明治以後に
設置された手水鉢だろう。次回のときは忘れなければ見てみよう。

 垢離取り場から5分ほど歩くと「竜爪茶屋」があった。この茶屋で「弾除け羊羹」を売ったのだろうか、
だが今は営業をしていず建物の横には獰猛な大型犬が何匹も唸り声をあげて威嚇する。
これじゃあ例え店が開いていても入る気はしないな。

 
              旧道入口                          竜爪茶屋

 道の下に小さなワサビ田があり、その上にはヤマブキも咲いている。山の中ではヤマブキは見なかったが、
こうして麓に下りてくると結構咲いている。
民家の庭には満開の石楠花があった。今年石楠花を見るのは2回目だが、いずれも栽培しているものだった。
考えてみれば自然の石楠花は見た事がない。それなら天城の万二郎岳の石楠花を見に行ってみようか。
あそこなら標高が高いので花はこれからだろう。帰ったら調べてみよう。

 
                   ヤマブキ                           石楠花

 竜爪山の丁石参道は神社の参道のため石仏は無かったが、麓のに入っても石仏は見当たらなかった。
だが途中に庚申塔を集めて祀ってある所が2ヶ所あった。その庚申塔は文字だけの物ばかりで、青面金剛像が
彫られたものは無い。
この庚申塔は道の整備で邪魔になったので集めて祀ってあるのか、それとも時代時代に祀った庚申塔なのか。
とても建造年を調べる元気は無かった。
 「馬頭観音大菩薩 大正十四年 荷馬車上組連中」と彫られた、これも文字だけの馬頭観音があった。
これを読めば大正や昭和の初めころは、この平山地区には荷馬車で荷物を運んでいたことが分かる。それも
個人ではなく運搬業者が運んでいたようだ。今年2月に登った藤枝と川根の境にあった桧峠は荷馬車でなく
ケーブルで荷物を運んでいた。傾斜が急ならケーブルを利用できるが、ここまで下ってしまえば、もう馬か牛に
頼るしかないのだろう。ウー!ケーブルで思い出した。今日賎機山でタケノコ採りの地元の農家の人と話した。
その中にこんな話を聞いたので紹介します。(これだから私のブログはダラダラ長くなる)
「昭和30年の終わりころは、ケ-ブルを使い終わっても農家の衆はそのままにしてるのが多かった。そこへ
ハイキングに来た娘が二人座ったもんだから、重みでケーブルが動き出してしまった。娘らは怖くなって籠に
しがみついていたもんで、そのまま麓の台に衝突をして二人とも死んでしまった。
それから当局が煩くなって、使い終わったらケーブルに必ず鍵を掛けるように言われてしまった。だけど上の
台に鍵を掛けたら最後の衆は歩いて降りるしかなくなるもんで、結局下の台だけ鍵を掛けるようになった。」

アレ-そうなると農家の人はケーブルのスピードをどうやって抑えたのだろう?
「荷物を下ろすときは、下にブレーキがあるから必ず下に人がいて、ブレーキをかけながら下したんだよ。
だけど山がの衆は(森林作業者)下になんか人はいないから、自分でケーブルを掴んでスピードを調整しながら
下ったもんだ。そのとき手が熱くなるから檜の葉っぱを利用したよ。あれが一番良かった。」


 オヤオヤ新東名の下に墓地がある。新東名が出来る前は静かな所で、墓の住民もノンビリ寝ていただろうが、
新東名が出来てからは喧しくてオチオチ寝て入れないではないかな。墓の住民は道路公団に損害賠償を請求
したのだろうか。そう云えば日本の憲法9条をノーベル平和賞にノミネートしたら、ノルウェーのオスロにある
ノーベル平和賞委員会が正式に受理したとか。その対象者は日本国民だというのだから面白いですね。
その手で墓の住民と、これから墓の住民になる人が、一緒に裁判所に騒音被害を提訴したらどうだろう。
その時は静岡空港の横にある石雲院の住民も仲間にいれて、
アッ駄目だ!静岡空港は離着陸する飛行機の数が少なくて、我慢の範囲内とされてしまいそうだ。

          
                    庚申塔群                      新東名下の墓地

 そんな馬鹿な事を考えていたら平山のバス停に着いた。時間は4時前だが時刻表の見方がよく分からない。
マーいいか、まだ明るいし、もっとバスの便の多い所まで歩こう。
バス停から暫く行くとバスが追い越して行った。疲れで時刻表を見る力も無くなったのか?イエまだ大丈夫。

 「平山温泉 御殿乳母の湯」と白ペンキで書かれた大きな石がある。温泉はともかく「御殿乳母」が気になる
私ですので、調べてみると「今川義元の乳母が入ったことが名称の由来」なんだそうです。
でもその大きな石には「昭和33年開館」と書いてあった。
 
 「竜爪街道」書かれた道路標識が枝垂桜の下に立っている。竜爪街道とは平山草薙停車場線で、静岡市葵区
平山からJR草薙駅に至る県道だとか。標識にも「平山草薙」と書いてある。それなら丁度良いではないか。
前回この道を歩いたのは則沢草薙駅だったが、今回は純粋に平山草薙駅になる。ならば竜爪街道を完歩したこと
になる。と、途中でバスに乗るのは止めて歩く事にした。全くお調子者だ自分でもアホたれるが、草薙駅まで行く
本当の魂胆は・・・・・・・
 草薙駅に5時40分到着。まだ十分に明るい。GPSのスイッチを切り、行った先は駅の横にあるコンビニ。
そして駅のロータリーベンチに座り込んで一人乾杯をする。
掛川駅の草薙駅は買う場所も飲む場所も駅の横にあり好きなゴールです。

 
                   平山温泉                  竜爪街道

 竜爪山では一つ分からない事がある。「文殊菩薩」「文珠岳」の文字の違い。この「殊」「珠」の違いについて、
いくら調べても出てこなかった。それでは仕方ないここは私の妄想的歴史観に頼るしかない。
 竜爪山も神社も瀧権兵衛の鉄砲に縁がある事は分かった。なら鉄砲に必ずなけれればならない物は弾だ。
そうタマなんですよね。殊はタマとは読めない。だが珠はタマともジュとも読める。そこで昔の駄洒落好きの御仁が
「文珠岳」にしたのではないか。どうですか今回の妄想的歴史観は。

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