はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

三方分山縦走(中道往還)

2018-05-15 09:00:05 | 低山歩き
歩行記録                                                           H30-5-11(金)
歩行時間:3時間55分   休憩時間:1時間05分   延時間:6時間40分
出発時刻:6時35分     到着時刻:13時15分
歩  数: 21、536歩(推定距離14.86km)    GPS距離
行程表
 精進湖:他手合浜駐車場 0:45>  0:10> 諏訪神社 0:25> 女坂峠 0:25> 三方分山 0:25> 精進山 1:00>
 富士山展望(1) 0:30> 富士山展望  0:05> 精進峠(三ツ沢峠) 0:25> 南ア展望 1:00> 根子峠(?)
 0:30> パノラマ台 0:05> 烏帽子岳 0:25> 城山 1:00> パノラマ台下 0:30> 他手合浜駐車場

     
                            三方分山周回ルート概略図

  一昨年の11月に本栖湖周回の縦走をしたとき、あやさんからのコメントに
 「精進湖の無料の駐車場を起点に、三方分山~パノラマ台を歩くコースはハイキングクラブ御用達ルートなので、みなさん
そちらからですよ。
でも、このコースだと午前中で終わってしまうので、はぐれさんには物足りないと思うけれど、仲間ウォークにはオススメかも。」

と書いてくれました。これに対し私は
 「三方分山の名は標識にも出ていました。コースを調べてみたら、中々面白そうなコースがとれそうです。富士山が白くなった
頃に歩くのも良さそうですね。」
と返信していたがすっかり忘れていました。
その事を思い出し、行くなら早く行かないと雪が無くなってしまうと、富士山が見えるそうな機会を窺っていました。
我家の2階からも富士山は見えるが、何しろ80km近く離れているので、この時期になると毎日富士山方面は霞んでいて
見えない日が多くなってしまいます。
しかし富士山の麓の精進湖からなら雲さえ無ければ見えるだろうと、天気予報が晴マーク一色になったらと思っていました。

  コースはあやさんのコースに、パノラマ台から烏帽子山、城山を加え、更に樹海の中を歩いて帰るコースにしました。
これなら “ハイキングクラブ御用達ルート” と言われないでしょうから。

 
                  他手合浜駐車場                             他手合浜

  山梨県に入った辺りから霧が出てきて、精進湖に着いた時が一番濃かった頃でした。
しかしこの霧は不安を抱くような霧ではなく、朝霧のような感じで今日の晴天を確約してくれるような霧でした。
事前に駐車場の場所を地図で調べたが良く分かりませんでした。仕方なくインフォメーションの i マークの所に車を乗り
入れてみると、どうやらそこが無料駐車場のようでした。

 
                旧上九一色村のMH                            中道往還入口

  湖畔の道路にミミズクの絵柄のMHが目についた。ミミズクの顔の横には “九上” とデザインされた文字も見えます。
これは上九一色村(現河口湖町)の村章で、鳥は村の鳥コノハズクだそうです。
上九一色村で思い出すのは何と言ってもオウム真理教のサティアンですが、サティアンの建っていた場所はもっと南側の静岡県
境に近い場所で、一時ガリバー王国なるテーマパークができ、それも潰れ今は公園になっているそうです。

  湖畔の車道から何処かで左に入らなければならないが、きっと標識が立っていると安心して歩いていました。
オット危ない、危ない! 霧のせいでもないが、橋の欄干の上にある2枚の標識を見落とすところでした。
標識には “精進の大杉” と “諏訪神社” とあるが “三方分山” や “女坂峠” は無い。
しかし昨夜確認した地理院の地図には “精進の大杉” を通って女坂峠に向かっていたので間違いないでしょう。

  左折した道の両側には湖畔には無かった民家が建ち並んでいた。そして案内板も。
どうやらこの道は 「中道(なかみち)往還」 と呼ぶ古道で、案内板には
 旧中道往還と居村集落 中道往還とは、古代から開かれていたと云われ、甲斐と駿河を結ぶ三つの街道のうち若彦道、
富士川街道の間を通る路であることから 「中道」 と呼ばれるようになったと 「甲斐国志」 に書かれている。
  戦国時代には武田信玄、織田信長、徳川家康等の武将が往来した軍用道と使われた。
  江戸時代の居村集落では、海産物の荷駄賃稼や下駄、天秤棒、鍬の柄、角箸などの細工物で生計をたてていた。」


 分かりやすい説明で大筋理解できたが、三つの街道の位置関係が良く分からない。
今朝、私は西の焼津方面から富士川(街道)を渡ってここに来ている。なので真中に中道往還があるなら、若彦道は
更に東にあることになる。
古道は兎も角、現在の道路でなら静岡県から山梨県に行く道で、ここより東となると富士山の向こう側の御殿場から
富士五湖に抜ける道しかない。
では興津から身延を抜けて甲府に抜ける通称身延路はどうなるのだろう? 疑問が湧いてくる。

家に戻り調べてみました。以下ウイキペディアより抜粋します。
 「中道往還のルート 甲府-左右口-精進-本栖-人穴-大宮(富士宮)-吉原湊
甲斐と駿河を最短距離で結んでいたこともあって、主に海産物の輸送路として利用され、この峠道を馬の背に揺られ甲府へ
運ばれたアワビの醤油漬けが、現在山梨県の名産品となっている鮑の煮貝である。」

 「富士川街道 別名:駿州往還、甲州往還、河内路(かわうちじ)、身延路。
ルート 甲府-市川大門-鰍沢-身延-南部-万沢-宍原-興津
日本三大急流と呼ばれる富士川と連なる山地の間を通っていたことから、幾つもの難所があった。
駿州往還の険しさから、甲斐から駿河へ下る場合は富士川水運を使い街道を歩く者はいないと記している。」

 「若彦路 若彦の呼称は日本武尊の子に由来するといわれ、甲州と駿河を結ぶ官道であったという。
若彦路の道筋は甲府盆地から鳥坂峠を経て芦川村(笛吹市)に至り、富士北西麓を駿河国富士郡上井出村(富士宮市)に
達するルートが想定されているが、他にも色々説がある。」


  三つの街道の西からの順番は富士川街道(身延路)、中道往還、若彦路で、甲斐側の出発地は甲府だが、駿河側は
富士川街道が興津、由比、岩淵で、中道往還と若彦路は吉原湊だったようです。
では富士山東麓の山中湖から御殿場(御厨)に抜ける道は無かったのでしょうか。
イエイエ当時の御殿場方面は駿河ではなく相模だったので、数に入れなかったのではないのかな。

  この類の話となるとくどくなる癖は歳を取っても直りません。

 
                     龍泉寺                                   諏訪神社と大杉

  精進の大杉は幹回りが12.6m、樹高が40mあり、国の天然記念物に指定されています。
龍泉寺、諏訪神社とも萱葺の屋根で落ち着いた風情を感じます。
精進湖に来た時は濃かった霧も大分薄れてきたので、上からの富士山の眺めは期待できそうです。

 
                 居村の民家                              民家の解体

  街道沿いに間口が狭く奥に長い建物が何棟か建っていたが、街道風景を写すのを忘れたしまいました。
この民家は今は空家のような雰囲気ですが、低い2階には窓がありません。養蚕でもしたのでしょうか。
他の民家も似たような造りが多く、中には2階がもう少し高くて窓のある家もあります。
ただどの家も奥行きの割には間口が狭いのは、京都のように間口税を取られたからでしょうか。
イエイエそんな事はありませんよね。多分湖から山地がすぐで、何軒も家を建てる土地が無かったからでしょう。

  住宅の案内板に気になる事が書いてありました。
 「この地域は武田氏に仕えた九一色衆に属し、諸商売役免許を与えられた。」 とあります。
私の気になったのは 「九一色」 の言葉ですが、以前から上九一色村の語源に興味を感じていたので調べてみました。
例によりウイキペディアからの引用です。
 「中世には甲駿間を結ぶ中道往還が通じ、九一色郷に九一色衆と呼ばれる在郷の武士団が住み、戦功により
武田氏から諸役免除の朱印状を受けた。明治入り精進村は近郷の村と合併し九一色村となる。
明治22年の町村制により、九一色村の一部が上九一色村となり、残部は下九一色村となる。」


  残念ながら九一色の語源は分らなかったが、一般的に “一色” とは、荘園制の時代には税として租(穀物)・庸(労役)・
調(繊維)があり、一色とはその内のどれか一つを納めればよいとされていました。
となると最初の “九” が分かりません。もしかするとここは狭い土地でなので穀物の生産は少なく、九種類の木工製品を
納めたのかな。例えば案内板にあった “下駄、天秤棒、鍬の柄、角箸” など九種類を。多分そんな事はないでしょう。

  民家の解体が行われていたが、町で見るような乱暴な解体方法ではなく丁寧に解体されていた。
きっとどこかで再生されるのでしょう。

 
             気持のいい自然林の道                                堰 堤

  何時も静岡の低山を歩いているので、山への登り出しは茶畑とか植林された林の中が多い。
ところが山梨を歩くと最初から自然林の中の道が始まり気持ちよく歩けます。
この道は古道の中道往還なのだが、街道の面影はなく山道そのものの感じがする。

  二つ目の大きな堰堤の巻道は堰堤より大分上まで登るので、このまま沢筋と離れるのかと思ったら、また道は沢へと
下っていた。

 
              いつの石積みだろう                               九十九折

  堰堤を巻いて上に出ると、道は九十九折となり古い石積みが所々に出てきて、何となく古道の面影を醸しだす。
この石積みは何時頃積まれた物だろうか? 道は源流部に続く沢筋に付いているし、下には大きな堰堤もある。
大雨が降れば水も出そうな地形だが道は流されないのだろうか。
気にはなるが石垣が残っているのを見れば、水が出ても知れているのでしょう。

 
              女坂峠(阿難坂)                              女坂峠(阿難坂)

  女坂峠の標高は1210mもある。私の普段歩く大崩山塊の山は500m程度の低山ばかりです。
なので1000mを越すと、良く歩いたと嬉しくなってきます。
しかしここは麓の大杉からは30分も掛かっていません。何しろ麓の大杉の標高が910mもあるので、峠との標高差は
300mしかありません。これでは楽なはずです。

  女坂峠は古道らしく峠には石仏もあり名前の謂れも紹介されていた。
 「中道往還には二つの峠があり阿難坂(女坂)はその一つである。阿難坂の “難” という字が示すように中道往還の
中でも難所に一つである。 “峠” と “坂” は同じ意味を持ち古い道では多くみられる。
  女坂という別名は、身重な女性が道中で出産後、母子ともに亡くなり、埋葬され供養のため、子を抱いた石地蔵を建て、
この石地蔵が女石と名付けられたことから女坂と呼ばれるようになった。」


  初め “女坂峠” と聞いた時は近くにもっと険しい “男坂峠” があるのかと思ったが、近くには峠は無かった。
私は山寺などにある急な男坂に対して、なだらかな女坂をイメージしたが、ここの峠の女は女性そのものでした。
静岡県には身重の女性が山賊に襲われて、子供産んで亡くなった無念さに、夜ごと泣いて石になった “夜泣石” がある。
だがこの峠では石の地蔵を祀ったのはいいが、それを “女石” と呼ぶなんて風情が無さすぎだ。
せめて坂の名前は “無念坂” とか “子抱坂” にして欲しかったな。エッ! 女坂より悪いですか・・・・・

  坂は峠と同じ意味を持つとの説明に納得できた。と云っても全ての坂が峠とは思わないが。
大崩山塊に “歓昌院坂” と名の付いた峠道がある。この峠は古くは東海道とも、安倍川の川止の際の抜道でもあったと
される道です。この峠をブログで紹介するとき、歓昌院坂と書くと峠への上り下りの道を想像されてしまいそうで
 “歓昌院坂峠” などと書いていたが、これでは重複語になってしまうのですね。
これと同じような表現で “道” もある。旧東海道の山越えで “蔦の細道” があるが、ここも峠を表したいときは
 “蔦の細道峠” と書いています。どちらも書きずらいのですが諦めて書いています。

  標識の 「五湖山3000m」 を見て、気づくと同時に驚いた。
何を気づいたかと言うと、あやさんのコメントに五湖山が三方分山の前に書かれていたが、五湖台なら知っているが
五湖山は名前も聞いたことは無いし、場所も分からなかったのでパスしてしまった。
それがこの先にあるなんて、驚くと同時にガッカリしてしまった。何故かと言えば今回のコースも精進湖を一周したかったが
一周するコースを思いつかず周回コースではあるが、精進湖は半周しかしていない。
残念! もっと早く気づけば良かった

  驚いたと云ってもこれは自分の早合点で、標識の “3000m” を標高と思ってしまったのです。

 
                 崩壊場所                                 崩壊場所

  峠から登りだすと北側の斜面が太く抉られ沢のように下に走っている。そんな場所が3ヶ所か4ヶ所もあったが登山道を歩く
限り何の危険性もありません。どうやら北側の斜面は東側に比べ急のようで、中道往還は女坂峠から北の方が難所のようです。
中道往還と平行に走っている国道358号(精進ブルーライン)を車で甲府に向かって走っても、山が深く次の集落の古関町
までは大分走った気がします。

  道脇に岩の割れ目から幹を伸ばしている木があった。幹の太さが今は割れ目と同じだが、これから気が成長するにつれ
割れ目はどうなっていくのだろう。割れ目が広がるのか、それとも幹の形が太くならずに扁平になって成長するのか。
その結果が分かるのは何年後でしょう? 当然私は見り事は出来ません。

   
          根性△△                                 ヤマツツジ

  道脇に岩の割れ目から幹を伸ばしている木があった。幹の太さが今は割れ目と同じだが、これから木が成長するにつれ
割れ目はどうなっていくのだろう。割れ目が広がるのか、それとも幹の形が太くならずに扁平になって成長するのか。
その結果が分かるのは何年後でしょう? 当然私は見る事は出来ません。

  山に入って初めて見る花です。ヤマツツジはこの後も時々見かけたが、他の花はマムシグサが咲いていたくらいでした。
この辺りの山は花が少ないのですかね。

    
                     三方分山山頂                                    三方分山の標識

  上りが終り緩やかになった先が三方分山山頂だった。
あやさんのコメントに 「三方分山」 と書かれていたが、その読み方が分からず “みかたぶんざん” とか “さんぽうぶんざん” なのかと
思っていました。正しい読みは 「さんぽうぶんざん」 でした。
そうなるとその意味が気になる悪い癖が起きてきます。素直に読めば “三方を分ける山” となるので、山頂の地図を見てみると
確かに尾根筋によって三つに分かれています。更にその尾根は市町村の境界にもなっています。
試しに国土地理院の地図でそれぞれの場所をクリックすると、見事に 「河口湖町精進」 、 「甲府市古関町」 、 「身延町八坂」
別れました。多分この集落を分ける山ということで三方分山になったのでしょう。

  
                                  三方分山山頂

  女坂峠から上る尾根途中からも樹間越しに富士山は見えていたので、山頂からも富士山は見えるとは思っていました。
しかし山頂から見えた富士山は私の期待していた姿ではありません。
今回の山行では富士山と大室山と精進湖が一直線に並んだ姿を期待していたが、これでは見える範囲も狭く、精進湖は小さく、
大室山は右に偏ってい過ぎる。
これがパノラマ台まで行ってしまうと、視界は広がるが精進湖は見えなくなり、大室山は今度は左になってしまう。
あとの期待はパノラマ台まで行く途中の尾根筋からだが、果たしてそんな景色が見えるかどうかです。

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