はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

藤枝七福神1

2014-01-14 11:50:10 | 寺社遍路
歩行時間:5時間50分   休憩時間:2時間50分   延時間:8時間40分
出発時間:7時55分   到着時間:16時35分
歩  数:  42、394歩   GPS距離:-.-km

行程表(2014-1-12
 藤枝駅 0:25> 志太郡衙跡 0:50> 心岳寺 0:45> 藤枝総合運動場 0:20> 清水寺 0:35> 偏照寺
 0:55> 花倉城跡 0:45> 盤脚院 1:15> 藤枝駅

藤枝七福神と花倉城跡ウォーク観歩記
                             心岳寺
 昨年から初めた近所の人と一緒に歩くウォーキングも今回で4回目になりました。一人歩きが好きな私が
近所の人と歩くようになった切っ掛けは、近所の人の顔は知っていて挨拶はするが話などは殆どしません。
防災訓練などがあっても挨拶をしたあとは消火訓練などを見ながら時間が経つのを待っている状態でした。
これでは一人歩きができなくなった老後は、引き籠りになってしまいそうです。そこで大井川河川敷を歩いて
いていて、顔を合わす人にウォーキングに誘ってみたところ二つ返事で快諾してくれました。それでも二人で
歩くのも間が持てなくなりそうなので、数人に声を掛け今は4~5人で月に1回歩いています。

 そして今日は今年最初の例会なので、初詣を兼ね藤枝七福神と山城の花倉城跡を歩く事にしました。
尤も藤枝七福神といっても今日歩くのは、その内の三寺で残りの四寺は希望があれば次回歩く事にします。

 朝8時に藤枝駅を出発計画だが、今は団地から藤枝駅までのバス路線が廃止され、車か自転車で行くしか
ない。寒波が襲来している寒い朝に、年寄りを自転車に乗せるなら、せめてもう1時間遅い出発にすれば
良かった、と早速後悔してしまった。

 最初に寄った国の史蹟に指定されている「志太郡衙(ぐんが)跡」は、地元でもあまり知られていない遺跡で、
案の定今日一緒に歩いた仲間の誰一人として知っていなかった。
郡衙とは、奈良・平安時代に全国の郡ごとに置かれた古代の役所で、志太郡衙は現在の藤枝市と島田市に
かけての地域を管轄していたと考えられている。当時、全国には600ヶ所程の郡衙が置かれていたようだが、
現在ではその場所は殆ど分からなくなっているなか、郡名や郡司の官職名を食器に書き込んだ「墨書土器
(ぼくしょどき)」
が数多く発見された志太郡衙跡は全国的にも貴重な遺跡らしい。
資料館もあるがが9時から開館で入ることは出来ず、皆も余り興味が無いようなので早々に次に向かう。

              
                            志太郡衙跡復元施設
          志太郡衙跡の地図
 七福神の福禄寿を祀る心岳寺は、古道1号線バイパス谷稲葉ICより北西に行った山に囲まれた静かな所に
ある寺で、途中には「ホタルの郷」の案内もあった。寺への古い参道の両側には山茶花?椿?かな、それに
しては蕾も花も無いので茶の木だろうか?、滑らかの幹の上の方にだけ葉を付けていた木が並んでいた。

 一緒に来た仲間は、どうやら寺や石仏には興味が無いようなので、ここも来たという事だけで出発した。

        
                       心岳寺                      福禄寿
          心岳寺の地図
                  清水寺(絵馬)
 次の清水寺の途中にある藤枝総合運動場は、初詣で寄った静岡県小笠山総合運動場(エコパ)の小型版で
メインはサッカー場になっている。かっては全国に名を馳せた藤枝東高校も今では過日の勢いは無い。
久し振りに出場した全国大会も1回戦負けを喫してしまうし、プロサッカーは藤枝MYFCがJ3にいるが
ここの運動場を満員にする力はどうだろうか。
それでもエコパに比べ利用料金が安いのか、サッカー場では小学生が試合を行い、それぞれのグランドでも
練習をしている姿が見えるのは好い事だ。完成してしまったいじょう使わなければ宝の持ち腐れになる。

            
                             藤枝総合運動場
           藤枝総合運動場の地図
 清水神社には過去何度も参詣しブログにも紹介してきたので、今回は観音堂に奉納されている絵馬を紹介
します。下の絵馬の写真は「成田山・日光山・善光寺 参拝記念」の絵馬で、和服姿の19人の男女の姿が
描かれている。その内男性は15名で全員和服で帽子を被り、マント状の物を羽織っている。足元は黒足袋を
履き、草鞋なのか草履なのか鼻緒が見える。
一方4人の女性は日本髪を結い、和装で着物を着て上には長い道行を羽織っている。足元は白足袋で草履の
ような平らなものでなく、高さがあるように見えるので下駄を履いているようだ。
持っている物は女性は巾着のような袋物を一つだけ。男は小さなバックだけの人が多いが、中には振り分け
荷物にして担いでいる者もいるが、それとて小さなものだ。それと殆どの人物は、片方の手にコーモリ傘を杖
代わりのように突いている。
絵馬の日付は「大正12年4月3日」となっており、汽車による旅行なので、荷物は宿に置いてきたのだろう。
人物の後ろには成田山、日光、善光寺、苅萱堂と書かれた寺院の絵が描かれているが、刈萱堂って高野山に
ある刈萱堂なのだろうか。それにしたら随分強引な工程を組んだものだ。交通網の発達した現代だって私なら
こんなコースは設定しない。
参加者全員が藤枝の人で、女性4人の内2人は男性と同じ苗字なので夫婦なのか。残りの2人は独身か。
いずれにしても全員金には困らない、裕福な人たちだったのだろう。

  
                   「成田山・日光山・善光寺 参拝記念」絵馬

 もう一枚紹介する絵馬は「当国三十三所巡拝記念」と表題の付いて4人の女性が書かれている。
この当国三十三所とは、ここ駿河三十三所の事で、清水寺が一番で始まる「駿河一国三十三観音霊場」
の事だろう。その証拠に絵馬に描かれている寺は「壱番清水寺」と書かれている。

この絵馬の時代は先程より少し早い大正6年で、こちらの服装はいかにも巡礼らしく和服の上は白衣を着ている。
そして着物の裾は歩き易くするため裾を絡げていて手甲脚絆も付けている。足元は白足袋に草鞋のようだ。
手には金剛杖、頭には平らな三度笠と如何にも巡礼の格好だ。ただ荷物は斜めに背中に背負った風呂敷包
一つで、これだけで遍路をしたのだろうか。
 江戸時代も含めて昔の旅人の荷物は少な過ぎると感じていた。郷土史館などで振り分け荷物の中身を見た
事があるが着替えなどは無く、小物類ばかりだった。必要な物は現地で購入したらしいが、そうなると沢山の
路銀が必要になる。
だが追剥やごまの蠅がウヨウヨいる中を大金を持っていけば猫に鰹節だ。そのため手形を何枚も持参して
現地で現金に換えたとか。その現金も一ヶ所に保管せず何ヵ所にも分けて持っていたらしい。まるで現代の
海外旅行と一緒だ。いやいや海外旅行だけでなく、期間が40日前後になる四国遍路も同じで、現金は途中の
銀行や郵便局で下しながら遍路をしていた。ここ駿河一国の遍路は10日程度だが、絵馬の女性たちもそんな
苦労をしながら遍路をしたのだろう。
この女性達も藤枝町に住んでいたようだが、遍路日誌等は書かなかったのだろうか。そんな苦労話などを是非
読んでみたい。

        
                   「当国三十三所巡拝記念」絵馬

 清水寺の七福神は大黒天。その社の前の案内には「三面六臂大黒天」とあった。だが石像の顔は一つで
腕は二本だ。それなのに三面六臂と書いてある。
だいたい大黒さんで顔が三つで腕が6本もある物は見た事がないし、右手には打ち出の小槌を持ち、左手は
背中に背負った袋を支えている。これ以外に何を持つというのだろう。
これは調べる必要があると思って調べ出したが、中々複雑だったので、先ず一般的な大黒さんは、昨年歩いた
遠州七福神の大黒天で紹介した記事から引用する。

大黒天は中々ユニークな神様だと思う。大黒さんと聞いて思いうかべるのは米俵の上に乗って大きな袋を背負い
打出の小槌を振りながら満面な笑みを浮かべている。頭にはベレー帽を平たく長くしたような帽子を被った
大黒さんがお馴染みだが、あの像を後から見ると、とんでもない形に見えるらしい。
頭の帽子は亀頭で体が陰茎、そして俵は陰嚢だという。私は確認していないので確かではないが。
大黒天は元々ヒンドゥー教のシヴァ神の化身のマハーカーラで、マハーは大、カーラは黒の意味から、大黒天と
名付けられたので、その起源のシヴァ神と同様に、大黒天も性的な性格を持つ仏でもあるらしい。
また大黒天が台所の神と言われるのは、天台宗寺院で台所に大黒天を守護神として祀るようになった事からで、
昔の家は土間と座敷の間に、中心となる柱を立て、その柱が台所にも隣接していたので、そこに大黒様を祀り、
その柱のことを「大黒柱」とも呼ぶようになっていった。
さらに台所の主はその家の主婦だったので、寺の主婦の事を「大黒さん」と呼ぶようになったともある。
尤もこの呼称は幕末期まで、真宗以外は寺には主婦は居なかったのだから、最初は隠語として寺にいた女性
(隠し妻)の事を大黒と言っていたのかもしれないな。 

以上が遠州七福神で紹介した文で、内容は一般的な大黒天で終わっている。では三面六臂大黒天とは
「大黒天は密教の伝来とともに伝わり、本来は軍神・戦闘神、富貴爵禄の神とされたが、中国において財福を
強調して祀られたものが、日本に伝えられた。日本においては最澄が毘沙門天・弁才天と合体した三面大黒を
比叡山延暦寺の台所の守護神として祀ったのが始まりという。
 本来の像容は、一面二臂の黒色で忿怒の相で表現されるが、毘沙門天・弁才天と合体した三面六臂の大黒天も
作られた。室町時代以降は「大国主命」の民族的信仰と習合されて、微笑の相が加えられ、さらに江戸時代に
なると米俵に乗るといった現在よく知られる像容となった。現在においては一般には米俵に乗り福袋と打出の
小槌を持った微笑の長者形で表される。」

分かったようで分からない説明で申し訳ないが、三面の形や六臂の持ち物についての説明は見つからなかった。

  
    清水寺の大黒天            憤怒の三面六臂大黒天       俵に乗った三面六臂大黒天
           清水寺の地図

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